ESCAPING THE VATICAN「逃げてしまいましょうか、ここからふたりで」
こんな退屈なパーティー抜け出さない?と言わんばかりに、インノケンティウス14世がローレンスへと提案してきた。
「不自由な生活に不満がおありなのですか?」
ローレンスは耳を疑った。故郷イギリスから離れ聖マルタの家で暮らし始めたばかりの頃は、ようやく自分を縛るものから解放されたような気がしたものだ。
父は聖職者への道を反対こそしなかったが家督を継ぐ者が途絶える事に酷く落ち込んでいた。それなりに裕福な家庭だったし母親が早世しても母親代わりになってくれたシスターがローレンスを育ててくれたが、父親がそれを世間体を気にしてというのは薄々感じていた。
神学校でキリストの教えを学んで彼のようになりたいと憧れた。弱い者へ手を差し伸べ、神の為に尽くし、苦しむ人々の救いに。
だが、ローレンスの選択は結果的に彼を信仰から遠ざけた。
誰もが羨むようなエリートコースで出世をする内に奉仕の精神を忘れ、そして神の存在を感じられなくなってしまった。
だが、今は違う。確信のはざまに生きる新たな教皇がローレンスの在り方を肯定してくれた。祈りに困難を抱えていても、貴方の代わりに祈ります、とローレンスを幾度も導いてくれた。だからこそ、ローレンスは彼の良き理解者になろうと傍で仕え、支える事にしたのだ。
「いいえ。此処ではとても良くして貰っています。身の回りの世話も、必要なものも、全て誰かしらがやってくれている」
教皇の執務室へ置かれたルームランプを見遣りながらインノケンティウス14世は答えた。
「それならば、何故ですか」
ローレンスは問い掛ける。
「――少しずつ翼の羽根を毟り取られているのではと感じる時があります」
インノケンティウス14世の言葉にローレンスは息を飲んだ。
「何もかも周りがしてくれる…そういった鳥は…やがて飛び方を忘れるでしょう」
ローレンスは胸のペクトラクロスを握り締めた。どうして、そこまで思い至らなかったのだろうか。今の彼の姿はかつての自分自身と同じだ。
「ここは8階ですよ」
震える声で背中から抱き締める。
「……そうですね」
いつも通りの穏やかな声。だが、強い意志をも宿した声。
「ですが、かつてイカロスは蝋と鳥の羽根で翼を作りました。自由の為に」
漸くインノケンティウス14世と視線が絡み合う。
鳶とオオルリの、奇妙な番は、飛ぶ鳥になる事を選んだ。
「シスター・アグネス?そのランドリーボックスは?」
「涼しくなってきたので、衣替えしようかと」
「聖マルタの家のランドリールームならあちらですよ」
「大量ですから、ローマのコインランドリーに預けようかと」
「そうですか、お疲れ様です」
SPや他のシスター、スイス憲兵とシスター・アグネスの声が聞こえてくる。ローレンスは息を潜めてインノケンティウス14世の口を手で覆っていた。
車輪が再び動き出す音に幾らかほっとする。
「聖下、ディーン、もう平気ですよ」
シスター・アグネスの声にローレンスはもう大丈夫だろうかと僅かな隙間から外を覗き込んだ。
見慣れたバチカンの景色ではなく、ローマの風景が目の前に広がる。
「ご協力ありがとうございました。すみません、こんな事に巻き込んでしまって」
大きなランドリーボックスからひょっこりと頭を出したのはインノケンティウス14世。いや、白い包囲ではなく変装をしているので、ただのヴィンセント・ベニテスであった。
「まったく。人生で最大の嘘と人生で最大の祈りをしましたよ」
シスター・アグネスはその年齢とは裏腹に力強く腕を引き上げローレンスとベニテスをランドリーボックスから出した。
「罰当たりな事をしているのは我々も同じです」
正直、上手く行くなんて採算はなかった。
ランドリーボックスの中に隠れてシスター・アグネスに聖マルタの外に運んで貰う――、インノケンティウス14世の大胆な提案にローレンスは久々に胃痛を覚えた。案外頑固な彼はその壮大な計画を変えたりはしないだろう。彼の人となりを一番近くで見てきたからこそ分かる。彼が紛争地でどんな経験をしてきたかは知らないが、きっとそうやって兵士から命を狙われる信徒をシェルターまで逃がしたりしたのだろう。
後から聞いた話だが、シスター・アグネスに聖マルタの家から一日だけ開放されたいと相談した時、ランドリーボックスを取りに行ってる間に盛大な根回しをしていたらしい。
こんなあっさり事が運ぶならこっそり聖マルタの家を抜け出さなくても良かったのでは、とローレンスは脱力したものだが。
「愛し合う者の逢瀬が罪になる筈ありません。では、また」
軽く膝を曲げて踵を返すシスター・アグネスに、ベニテスは固まって真っ赤になってしまった。ローレンスもまた自分達の関係をとうに見抜かれている事に女の勘というものは恐ろしいと肩を竦める。
「……その、ヴィンセント」
「はっ、はい」
「手を繋いでも?」
「ふふっ――いいですよ、トマス」
指と指を絡め合い二人は歩いてローマの街に繰り出す。
遠くの教会から、祝福のような鐘の音が聞こえてきた。