鉄の味長い睫毛が目の前にある。キスされているのだと気付いた頃にはぬるりと柔らかく濡れた舌が口内で暴れ回った。
「鉄の足がする」
唇が離れブルネットの髪の男が赤い鮮血混じりの唾を地面に吐き捨てる。
いつもより口数少ない相棒兼兄弟に、レモンはこれは本気で怒ってるんだなと妙に冷静な分析をした。
タンジェリンは床に転がる死体を蹴り飛ばした。もはや呻き声すら上げない塊を生気のない冷ややかな碧が見下ろしている。
そして顔が歪むまで真鍮製のナックルでこれでもかと殴った。とうに絶命した相手を甚振ったり嬲ったりする趣味など彼にはなかった筈だ。だがレモンは咎める事が出来なかった。未だに体が重い。起き上がるのは無理そうだ。
「タンジェリン、」
レモンは無言のままの男へ声を掛けた。
崩れかけた前髪がはらりと落ちたがタンジェリンは撫で付け直そうとすらせずぎろりとレモンを睨み返した。
「どうして俺を庇った」
ターゲットを殺すまでは計画通りだった。だが、標的は己の命が狙われているのを見越していたらしい。
殺し屋の世界には殺し屋を殺してそいつの死体で稼ぐイカれた野郎もいる。タンジェリンは命を狙われた。スナイパーライフルの銃口が向いているのに気付いたのはレモンだった。
「伏せろ!」
タンジェリンの背中を守るように前のめりに倒れながら抱き込む。背中に痛みが走り口の中に鉄の足が広がったレモンは撃たれたのだと瞬時に察した。
「レモン!」
タンジェリンの悲痛な叫びが聞こえる。
「いいから撃ち返せ」
レモンは無理矢理体を起こして体を引き摺って車のボンネットからスナイパーライフルを取り出した。タンジェリンは小さく舌打ちすると車に隠れながら狙撃手の顬を狙って弾丸を放つ。見事に命中し殺し屋は建物の屋上からどさりと落ちてきた。脳天を撃ち抜かれた殺し屋の懐から報酬を分捕る。
そしてタンジェリンはずかずかとレモンへと近付きいきなりキスをしてきたのだ。
「何だよ、怒ってんのか?」
レモンは荒く呼吸をするタンジェリンを宥めるべく脳をフル回転させた。防弾ベストを着ておいて正解だった。寒い冬空の元迂闊に死んだらタンジェリンは後追いしかねない。
タンジェリンはそういう男なのだ。つくづく自分以上に生きるのが下手な相棒だ。血の繋がらない兄弟として、双子として育ってきたが、似ない所があるのは仕方ない。
「当たり前だ」
顬を痙攣させるタンジェリンは恐ろしく静かだ。
いつも口煩く怒りっぽい男が静かに黙るのは気分が落ち着かない。
「取り敢えず、養生テープくれよ。止血してくれ」
「てめぇがやれよ。レモンは血を流さねぇんじゃなかったのか?」
英国流の皮肉を返すタンジェリンにレモンは溜息を吐いた。
仕方なくいつも世話になっている闇医者のチョコラータへと連絡しようとして携帯を取り上げられる。
「おい!」
「俺を守る為に簡単に命差し出すんじゃねぇ」
低く唸るような声と共にコートの襟が掴まれる。服が伸びるからやめろと抗議したかったが、タンジェリンの今にも泣きそうな顔にレモンは何も言えなくなってしまった。
俺はコイツのこの表情を知っている。別の里親に引き取られて離れ離れになりそうになって縋り付いてきた時と同じだ。
「仕方ねぇだろ。考えるより先に体が動いてた」
思った通りの事を口にするレモンにタンジェリンは黙ったままコートやデニムジャケットやシャツを脱がしていった。
「今度やったら殺す」
「お前に出来る訳ねぇだろ」
「お前が苦痛に魘されて死ぬのを見届けるくれぇなら俺が留めを刺す」
語気を強めるタンジェリンは乱暴に養生テープを破ると叩きつけるように銃弾を撃ち込まれた脇腹へ貼り付けた。
レモンは痛みよりもタンジェリンのあまりの動揺ぶりの方に気を取られた。俺よりも悲痛な面してるじゃねぇかと揶揄する気持ちすらなくなってしまった。
「殺し屋家業にリスクは付き物だ。トーマスだって事故は起こるし、俺達だってしくじる事もある」
「ああそうかよ。なら絶対にしくじらねぇ腕利きになるしかないな」
レモンは一部が破けて血塗れたシャツに腕を通す。タンジェリンが差し出してきたジャケットを受け取った時に手が触れたが、酷く冷たくてまるで死人のようだった。
「勝手に決めるんじゃねぇよ」
ああ、こいつは俺が暖めてやらねぇと。
突っぱねる口調とは裏腹に震えるタンジェリンをレモンは抱き締める。赤子をあやすように、背中をぽんぽんと叩いて。
「俺達ならなれる」
「根拠は?」
「蜜柑は高尚だからだ」
レモンは呆れ果てた。いつ変えるかも不明の使い捨てのコードネームなのに、タンジェリンはいたく気に入ってるらしく、事ある毎に蜜柑は果物の中でも上位なのだと豪語する。
別に柑橘類じゃなくたって他にもあった筈なのに。
「なら、檸檬は?」
「酸っぱくて嫌われ者」
「だから?」
「酸味が強くて鳥にすら狙われない、つまり生存戦略に適してる」
無理矢理なこじつけだな、とレモンはタンジェリンの背中を撫でた。こいつはきっと俺の背中が狙われたら躊躇わず庇うのだろう。自分は平気でそういう事をする癖に、レモンが同じ事をしようとするのは許せない、難儀な男なのだ。
「うるせぇ。これからは俺達は絶対に失敗しないんだよ」
根拠の無い自信だ。だが、タンジェリンが言うと不思議と気持ちが引き締まったものだ。
「そりゃ、いい。なら決意表明としてちゃんと病院連れてけ」
タンジェリンは面白くなさそうに一度視線を逸らすと、もう一度レモンを見やった。
「決意表明の仕方なんて他にもあんだろ」
そう宣誓すると、タンジェリンは再びレモンへキスをしてくる。確かに鉄の足がする。血で更に赤く染まった舌が突っ込まれ、レモンはまたドラッグストアでオキシドール買わねぇとなとされるがままになりながら内心呟いた。
タンジェリンはやっと満足したのか重そうにレモンへ肩を貸してよろよろと車へと向かう。血の跡を見られたら厄介だ、ガソリン撒いといて正解だったなとライターに火を付けて後ろ手に投げる。レモンはちりちりと車のドア越しに感じる熱に、早く帰ってマリガトーニのスープが飲みてぇな、と瞼を閉じたのだった。