ワンドロ過去お題【ペルソナ】 ペルソナと言えば、まず真っ先に出てくるのは仮面ではないだろうか? 無論、それも正しい。
ペルソナについて調べると真っ先に出てくるのはラテン語であること、人格・位格を表すこと、元は仮面を意味する言葉、この三点が主流だろうか。転じて、俳優が演ずる役柄、役割をさし、さらに社会的・表面的人格をも意味する言葉へと変化していった。【persona】の起源を残しつつも、新たな意味が付与されたわけである。
少々話は逸れるが、言葉は極めて流動的なものであり、時代や国、地域でさまざまにも変化する。
言葉に限らず、例えば非言語コミュニケーションたるジャスチャーなどは、国によって全く正反対の意味であることも少なくない。外つ国──これもまた古い言葉であるが、ネイティブであるならニュアンスの理解は容易いだろう──へと行く際、簡単な言葉や、目当ての場所や観光名所、治安のいい場所・悪い場所を調べるとともに、そういった、現地でのマナーを調べる人とて、無論いるであろう。
同じ時代に生きていても、国が違えば、地域が違えば、言語も非言語も途端に無力なものと化す。いいや、単に無力な、意味のないものとなるだけならばまだいいだろう。問題は、先にも述べたように感謝や善意が全く逆のものとして捉えられることだ。何せ同じ国であっても、言葉が通じない。より正確に記すのであれば、同じ言語を話していても会話が成り立たない、なんてことはそう珍しいものでもないのだ。誠に残念なことに。
そんな中で、共通言語となり得るのはまさにペルソナではないか、と私は思う。前置きが長くなってしまったが、ご容赦願いたい。
この話で主題とするのは、俳優の演ずるそれではなく、社会的人格だ。
誰しも相手によって態度や言動は異なる。自然なことだ。親と接するときと、友人と接するときとで全く同じなんて人がいるだろうか? 特定の相手にだけ見せる顔。心当たりのある人は、少なくはないだろうと愚考する。
では、誰が相手であっても変わらない、またはその変化が著しく少ない場合はどうだろう。
そう、それこそが私の言いたいことだ。変化のなさが無意識的なものであるか、意識的なものであるかは重要ではない。焦点は誰が相手でも変わらない、より深く切り込むのであれば、誰にでも平等であることは可能かどうかだ。
筆者の結論としては、可能である、だ。
あるものをあると証明することは難しいが、ないものをないと証明することは不可能に近い。まさに悪魔の証明だ。そうして人は、時折思いもよらぬことを為す。私はそれを可能性と呼ぶ。良きにしろ悪しきにしろ、人間の可能性は無限大であるということだ。例えそれが、有害なものであろうと。
無表情とは、表情の変化に乏しいことだ。では、常に笑顔である人もまた、無表情と呼べるのではないだろうか。けれど常に平等たる人を表す言葉は存在し得えない。あくまで私が知る限りの話であるから、もし存在するならば私の浅学に他ならない。ところで辞書によれば、平等とは、偏りのないことをさす。差別がなく、みな等しいこと、またそのさま。
常に偏りがなく、差別なく、みな等しい。なるほどそれは、素晴らしいことだ。同時に酷く恐ろしいことだ。
常に平等足り得るならば、それは同時に、あるいは不可分的に、平等ではないという証明になり得ないだろうか? ありふれた表現になるが、「みんなに優しい人はみんな特別じゃない人」、が近しいであろう。