「今日19時から『ライブハウスHiro』のB1で対バンライブやりまーす♡ あっ、ありがと〜♡」
差し出したポケットティッシュを受け取ってくれた営業中っぽいスーツの男の子に、ニコッと目元を緩めて微笑みかける。基本的に、受け取るときに目を合わせてくれた子は脈アリだ。このライブに来てくれなくても、インシュタやトゥイッターくらいは見に来てくれる可能性大。つまり将来の俺推しさん候補! なら目いっぱいアピールしとかないとね〜!
今日の衣装は、チャイナ風のノースリーブブラウスに、花葉色の着物ワンピース。アウターにヒラヒラとした藤色の羽織を合わせた、ちょっとファンタジックなスタイルだ。もちろん衣装合わせや撮影で何度か袖を通しているけれど、お客さんの前で着るのはこれが初めて。布地がバイヤー綺麗で、細かな刺繍と、ところどころに飾られたスワロがキラキラして、ジーマーで可愛い!
今までの衣装は既製品を改造したり、事務所の先輩のお下がりを着たりしていたけれど、今回は友人のツテで、服飾の専門学校に通ってる杠ちゃんって女の子にイチから作ってもらった。大まかなイメージだけ伝えてデザインはお任せしちゃったんだけど、サイズ感も色合いもバッチリだし、新曲の雰囲気にもぴったりで、一目見てお気に入りナンバーワンになった。
スカートは、ジャーマネちゃんからはパニエを入れてアイドルらしい和服ロリータみたいにするのを勧められたんだけど……敢えてタイトなペンシルスカートに、際どい所まで前スリットが入った大人っぽいデザインにしてもらった。
『あさゲってもう21だろ? 女装ドルとしてはそろそろキツくね?』
エゴサは俺の趣味だし、暴言毒吐き誹謗中傷なんてとっくに慣れっこ。だから別に、その言葉に傷ついたとかショックを受けたとかじゃない。ただ、そろそろ売り方とか見せ方を考えないとリームーだな、って俺も思っただけ。むしろ納得。いつまでも売上も人気もパッとしない俺に、事務所の目もそろそろ厳しくなってきたしねぇ。
こんな格好してるけど、俺は男。女装アイドルのあさぎりゲンちゃん。アイドル始めたのは、業界では遅めの18歳から。っていうのも、高校時代はまるっとアメリカにマジックの勉強をしに留学してたから。それなりの技も身につけて、いざ凱旋帰国! って思ったのにねぇ。日本ではマジシャンの需要がほぼないって、現実ドイヒー!
それでも色んな事務所のオーディション受けて、落ちて、受けて、落ちて……最後に拾ってくれたのが今の事務所。でも提案されたのは、マジックショーもできちゃう女装アイドルとしてのデビューだった。
俺は、悩みも迷いもしなかったよ。即『よろしくお願いします』って立ち上がって頭を下げた。アイドルや俳優の道を提案してくれた事務所は他にもあったけど、アイドルだろうが女装だろうが、ステージでマジックすることを最初から容認してくれたのはこの事務所だけだったから。売れてきてから〜とか、顔を覚えてもらってから〜とか、ああこれは特技の一つとしてしかマジックさせてもらえないなって分かるところばっかりで。それに、社長はすっごく俺のマジックの腕を評価してくれたしね!
そんなわけで、今日も可愛い女装アイドルあさぎりゲンちゃんは、ライブの集客のため、ファン獲得のため、そしていつかマジシャンとして大成功しちゃうために、広告の入ったポケットティッシュを配っているわけだ。
正直なところ、焦りがないって言ったら嘘になる。ライブでのマジックショーは人気コーナーだし、最近はマジックの動画配信も始めて、再生回数も高評価もそこそこもらってる。でも、マジシャンとして食べていくには程遠い。何ならアイドルでも食べていけてなくて、事務所が運営してるメイドカフェで週四のバイトしてるくらいだし。
贅沢は言わないから、せめて芸能活動だけで生活できるようになりたいなぁ。なんて、謙虚なふりをしてめちゃくちゃ贅沢言っちゃってるか。それを目指して四苦八苦してる子は星の数ほどいる。事務所に所属してライブをさせてもらえてる俺は、恵まれてる方だ。
本当は──本当の本当は、マジシャンになりたい。売り方はイケメンマジシャンでも、女装マジシャンでもいいけど、マジックでお客さんを呼んで、マジックにお金を払ってもらえる『マジシャン』になりたい。
夢を諦めるつもりは微塵もない。そんな気あったら、親に勘当されてまで十代でアメリカに飛んでない。ただ、先が見えなくて苦しいのも本当の気持ちだ。同じことの繰り返しでは、何も変わらない。何かしなければ、と思いながら、じゃあ何をすればいいのか思いつかない。
(何か、とんでもないことが起きたらいいのに。世界がひっくり返るような、とんでもないこと)
思考の海に沈んでいた俺は、たぶん、ぼうっとしていたんだろう。
すぐ傍で突然に『ゴッ!』と派手な金属音がして、飛び上がるように肩が跳ねた。
「な、なに」
思わず見やった視線の先で、男の子が尻もちをついて倒れていた。大学生だろうか、ラフなシャツに細身のジーンズ、ローカットの黒いワークブーツ、柔らかい革の口折れショルダーバッグ。ついでに、山ほどのコピー用紙があたりに散乱している。
「ッてぇ……」
呻く男の子の、顔を覆っていた右手の指の隙間から、パタパタと赤いものが落ちて、染みを作る。
「え、ちょ、血! 血が出てる!」
慌てて手の中のポケットティッシュの口を開け、中の柔らかなティッシュをまとめて掴み出した。手の上から血を拭い、こちらに気付いた男の子にもう一つ、新しいティッシュを渡す。こちらの意図に気付いたらしく、汚れていない方の手で器用に取り出し、鼻を抑えた。
「上向いたらダメだよ」
「ぁ、知ってる」
答えた男の子の、血で汚れた右手を取る。でも血ってすぐ乾いちゃうし、ティッシュでは落ちないんだよね。一瞬悩んでから、俺は足元に置いていた自分の荷物へ手を伸ばし、中から未開封のミネラルウォーターとタオル地のハンカチを取り出した。
街路樹の根元あたりで、ハンカチにじゃぶじゃぶっと水をかける。ぎゅっと片手で絞ってから、男の子の手についた血を拭っていく。
「おい、汚れんぞ」
「ハンカチは汚れるものでしょ……っと、メンゴ、ちょっと冷たいかも」
断ってから、男の子のシャツの袖をトントンと濡れたハンカチの綺麗な面で叩いていく。本当は血液汚れはすぐ水洗いするのが一番なんだけどね。トントンと叩いているうちに、何とかパッと見て分からないくらいには綺麗になったから、いいだろう。
まだ鼻を抑えてる男の子の代わりに、周りに散らばった紙を拾っておく。英語だし、専門用語っぽい単語だらけだし、化学式がいっぱいだし、チラ見しても内容はちんぷんかんぷんだ。とにかく難しそうってことだけは分かるよ、うん。
「大丈夫?」
「ぁ……悪い、助かった」
「んーん、気にしないで。順番ぐちゃぐちゃだけど許してね」
上を向かなくていいように、もう一度屈んで書類を差し出す。正面を向いた男の子と、バチリと目が合った。
「ッ……わぁ、ゴイスーイケメン」
「?」
意志の強そうな赤い目に、ちょっと粗野な感じで話す低くて耳に気持ちいい声。アイドルになったら、即売れっ子になれそう。この子のこと何も知らないのに、何となく『興味ねえ』って本当に興味なさそうに言うんだろうなって予感がして、笑っちゃった。
「何でもないよ。血、止まった?」
「止まった。もうしばらく抑えておくが、鼻骨も無事だし問題ねえ」
「よかった」
はい、と、俺は羽織の袖からもう一枚のハンカチを差し出す。さっき使ったタオル地のものとは違う、いつだか先輩から誕プレでもらったブランドのやつだ。
「袖、濡れてて気持ち悪いでしょ? ティッシュだと毛羽がつくと思うし、よかったら使ってよ」
「いや……」
遠慮する様子の彼の手を取って、半ば無理やりにハンカチを押し付ける。
「ハンカチ、持ってないか、持ってても鞄の中で丸まってるでしょ? あとで顔も洗うだろうし、ね」
「おい、なんでバレて……」
言葉を遮るように男の子の唇に人差し指を押し付けて、パチン、とウィンクして見せる。
「メンタリストには何でもお見通し。もう論文読みながら歩いちゃダメだよ」
笑って、俺は地面に置いたままになっていた荷物とポケットティッシュの入った籠を持ち上げる。
「じゃあ、俺そろそろライブだから戻るね。っと──」
がつ、と。
バイバイと振ろうとした手を掴まれて、鋭い視線に射抜かれる。
「センクウ。イシガミセンクウだ。岩石のイシに神様仏様のカミ、百千万のセンに、空気のクウ」
「いしがみ、せんくー……名前?」
「ぁ」
掴まれていた手首が熱い。あんまりにも真っ直ぐ、すごい強い目で俺のことを見るから、何だかこっちが恥ずかしくなってくる。
「千空ちゃん、ね」
「ハンカチ、返しに行く」
「気にしなくていいのに……あ、俺は」
「あさぎりゲン、だろ」
ポケットティッシュに入れてあった台紙を、まるでポーカーの切り札でも取り出すみたいにヒラヒラと揺らして見せる。
「うん。あさぎりゲン。浅瀬のアサに霧雨のキリ、幻でゲンだよ」
言ってから、俺はどうして芸名じゃなく、本名である漢字まで教えてしまったんだろうって、ちょっと狼狽えた。釣られた、ってわけじゃない。これでもアイドルなので、認知して欲しいって人から名乗られることは結構ある。でも、誰にも教えたことなんかなかった。
「キレイな名前じゃねーか。似合ってる」
「うぇっ あ、アリガト……?」
こんなイケメンにキレイとか言われると男でもドキッとしちゃうな〜!
ちょっとだけ頬が熱くなるのを誤魔化すように、俺はへらっと笑って見せた。
「急いでんのに、引き留めて悪かった」
「ううん、大丈夫。じゃあ行くね」
「ぁ、またな、幻」
またな。またな、だって。
予定より遅れてしまった撤収に早足で歩を進めながら、俺は何度も千空ちゃんの言葉を記憶の中で繰り返していた。
それが、俺と最愛の旦那様との、運命的な出会いだったのです。──なんてね。