地獄へ来てからもうすぐで一年が経とうとしている。
未だに十三王とは大きな隔たりを抱えたままで、五官王から妖力の扱い方を教わる時間以外は一人で過ごす日々。
部屋の掃除も洗濯も食事の下準備も全てを済ませてしまえばもう他にすることもない。
地上から持ち込んだ本はすっかり読み切ってしまった。
地獄大王庁内を散歩することも許可されてはいるが、葉月が部屋の外に出ると獄卒達の間に緊張した空気が漂う。
それが申し訳なく、またいたたまれずに、必要以上に部屋から出ることもなかった。
(それに方向音痴だしなぁ……)
この地獄大王庁を初めて五官王に案内された日のことははっきりと覚えている。
道を覚えられずに右往左往して、結局五官王に迷惑をかけてしまった。
その後も、何かしらで呼び出される度に迷子になって絶望を味わったものだ。
それもあって、毎日部屋の中で退屈な時間を過ごしている。
さて今日はどう時間を潰したものかと、窓の外の赤黒い空をぼうっと見上げる。
すると、廊下から重い足音が近づいてきた。
葉月の部屋を訪れるのは獄卒以外には五官王しかいない。
その音が耳に届くやいなや、弾かれたように扉の傍に走った。
緊張と期待を滲ませた表情で声がかかるのを待つ。
五官王が急に来る時といえばあまりいい話ではないことの方が多いのだが、それでも葉月にとっては五官王と言葉を交わせる時間がとてつもなく幸せだった。
「儂だ」
「はい!」
ノータイムで開かれた扉の先から無邪気な視線が真っ直ぐ突き刺さる。
一年も過ぎれば、この出迎えにもさすがに慣れはするが、相変わらず理解はできないままだ。
「何かご用ですか?」
「ああ、お前宛ての荷物が届いた」
地上から届く、若しくは地上へ送る手紙や小包は、全て十三王のうちの誰かの検閲が入る。
いつもなら許可が出た荷物は獄卒が部屋まで持って来るが、今日は何故か五官王自ら小さな包みを抱え、こうして足を運んできた。
何か重要な物なのだろうかと、顔に緊張が滲む。
それを察してか、ゴホンと咳払いをして包みを差し出す五官王。
「鬼太郎たちから、誕生日の贈り物だ」
「誕生日?」
小首を傾げて数秒虚空を眺め、「あ」と漏らした。
「そっか、今日三月二十一日……。そういえば私の誕生日でした」
「自分の誕生日も忘れていたのか」
呆れ顔で、やっと納得した様子の葉月を見下ろす。
「最近あんまりカレンダーを見てなくて……」
この地獄では祝日もイベント事も何も関係ない。
七夕もハロウィンもクリスマスも、ただいつもと同じ代わり映えのない一日が過ぎるだけ。
そんな生活を続けていると、どうにも日付に対する感覚が希薄になっていくようだった。
日々の出来事を語る相手もおらず、部屋に籠もってばかりではそれも無理はない。
「わざわざありがとうございます。えっと……他にも何かご用が?」
無言で見下ろされ続ける沈黙に耐えきれなくなったのか、恐る恐る様子を窺う葉月。
他の用などない。
そもそも、何故こうして自分の足で葉月の部屋まで訪れ手渡そうなどと思ったのか、五官王自身も分かっていないのだ。
「欲はないのか」
「え?」
唐突に投げかけられた予想外の問いかけ。
思わず困惑が顔に出た。
「お前は地獄へ来てから一度も何かを求めたことがないだろう。誕生日だからというわけではないが、望みがあるなら聞くだけ聞いてやっても構わん」
おそらく五官王自身、どういう結末に持って行くのか何のプランもないままに、衝動に任せて喋っている。
葉月に同情してしまったのだろう。
意味深な問いかけをした手前、何でもないと去るのも格好が付かない。
元々、そろそろ気晴らしが必要な頃合いかと思っていた。
しかし葉月の返答は、大概予想通りである。
「望みなんてそんな……!私はこうして五官王様に気遣っていただけるだけで充分です」
恐縮して手も首もブンブンと振る。
ほんのりと頬を染めてはにかむ様から、後半が本心であるということは五官王にも伝わった。
だが、前半は気に入らなかった。
こんな環境にいて望みがないわけがない。
妖怪たちと会いたいだろう。遊びに出かけたり美味しい物を食べたりしたいはずだ。
それをいつまで経っても隠し続ける葉月に、苛立ちに似た感情が少しずつ積もっていくのをこれまでにも感じていた。
言わないのではなく、言えないのだということもまた理解している。
言っても仕方がないという諦めもあるだろう。
それでも不思議なことに、今日だけは五官王もムキになってしまっているようだ。
「お前は鬼太郎と似ておるな」
「えっ?」
「自分のことなど後回しなのだろう。そのくせこうと決めたら相手が地獄だろうと逆らうところなど、瓜二つではないか」
褒めているのかけなしているのか分からない口調で煽り、「鬼太郎のように欲がないというのなら仕方ない」と背を向けた。
「ま、待ってください!私が鬼太郎さんと似てるなんてそんな……烏滸がましいというか恐れ多いというか……!」
かかった。内心ニヤリと笑い、それをおくびにも出さずに振り返る。
葉月はどうも、鬼太郎に対して信仰心のようなものを抱いているらしいとこの一年で気付いた。
決して神格化しているわけでなはいが、人生の目標とするような、強い憧れを抱いているのは明白だった。
そんな対象と「似ている」と言われ、顔を真っ赤にしてワタワタと何やら早口でまくし立てている。
「そ、それに私にだって欲は……あります……」
「ほう?なんだ、言ってみろ」
待っていましたとばかりに口の端を歪めて高圧的に迫る。
「いやっ、それはその……」
面白いくらいに目を泳がせてしどろもどろになる葉月を見て、五官王は心底楽しそうにしている。
どうやらこの男も、例に漏れず“地獄の民”であることに違いはないようだ。
「ひ、引かないでくれますか……?」
言うまで解放されないと悟ったのか、相変わらず真っ赤なままで小さく呟いた。
「儂がこの地獄でいったいどれほどの人間の欲を見てきたと思っておるのだ」
「じゃ、じゃあ……」
意を決したように大きく息を吸い込み、勢いよく頭を下げながら右手を差し出した。
「握手してくださいっ!」
「……は?」
数秒の静寂の後、やはり処理が追いつかなかったのかなんとも言えない音が漏れた。
(は?って言われた! 五官王様には?って……!)
嬉しいやら恥ずかしいやらで、穴があったら入りたい。
「やっぱり引きましたよね……」
「ひ、引いてなどおらん!ただ理解が追いついていないだけだ」
正直(何を言っているんだこいつは)と思った。
引いているといえば引いている。
まさか握手を求められるなど完全に予想外だった。
「すみません、忘れてください……」
真っ赤になった顔を両手で覆って震える声でそう言う葉月に、ゴホンと咳払いを一つ。
ややぎこちない動きで右手を差し出した。
「え……?」
「何がいいのか知らんが……」
そっぽを向いて、それでも右手は葉月を待っている。
「いっ、いいんですか!?本当に!?えっ!えっ!?ど、どうしよう!あっあっ!手!手を洗ってきます!」
耳まで真っ赤になって、飛ぶように水場へと駆けていく。
取り残された五官王は呆気にとられ、ただただ葉月が手を洗う音を聞いていた。
「お、お待たせしました……」
さすがに葉月が戻った時には右手は引っ込められていたが、そろそろと近づいてくるのを気まずげな表情で認めると、ややぶっきらぼうに再び差し出した。
「しっ、失礼しますっ!」
声を裏返しながら、恐る恐る手を伸ばす。
震える小さな手が何倍も大きな手に重なる。
五官王の体温と、すこし硬くガサついた皮膚の感触が伝わってきた瞬間。
「う゛ぅっ……!」
耐えきれず、涙が零れた。
みるみるうちに大粒の涙が溢れ、ぼたぼたと床を濡らしていく。
泣かれた五官王はあまりに急なことにギョッとするが、手を引っ込めるのはすんでの所で踏みとどまった。
「お、おい……。何故泣く……」
「ごめっ、ごめんなさいっ……!嬉しくてぇっ……、生きてて良かったぁ……!」
えぐえぐと嗚咽を漏らしながら号泣。
他の者に見られたら変な勘違いをされそうだと一瞬不安が過ぎる。
それに、この手をいつ引っ込めたものかと途方に暮れた。
しかし、それは杞憂だったようで、想像よりもずっと早く手は離れた。
「本当にありがとうございます……。ずっと五官王様の手に触れてみたかったんです」
まだ鼻を啜りつつ、宝物を抱きしめるかのように、さっきまで五官王と繋がっていた右手を胸元に抱え込んだ。
「お前はよくそんなことを本人の目の前で……」
「あっ、だけど全然!変な意味じゃなくて!あのあのっ……アイドルの握手会みたいな!ファン!ファンなんです!十三王の!」
必死に弁解するが、喋れば喋るほどに五官王の眉間の皺が深くなっていく。
「まあ、望みが叶ったのならよかったな。儂はもう行く」
そう言い残し、葉月の反応も待たずにそそくさと部屋を出て行ってしまった。
(鬼太郎から我ら十三王に対して好意を持っていると聞いてはいたが……)
一人廊下を歩きながら、あまりに小さかった温もりを思い出し右手を眺める。
(葉月という者をどうにも理解できん……)
誕生日の願いが「握手したい」で、涙を流すほどに感激するような者が他にいるだろうか。
地獄にいる者たちは元より、地上の妖怪たちの顔を思い浮かべても誰一人該当しない。
「調子が狂う……」
眉間に皺を寄せながらため息交じりに呟く。
ちょうどその時、地獄中の監視蝙蝠の映像を映し出す部屋にさしかかった。
「……」
ついさっきの葉月の反応を思い出し、ちょっとした出来心と怖い物見たさで葉月の部屋を監視するモニターを覗く。
そこには「死んで生き返って寿命が延びた……」「この日のために生きてきた……」「地獄こそ天国!」などと意味不明な言葉を喚き散らしてベッドの上で転げ回る葉月の姿。
「見るべきではなかった……」
頭を抱え、力なく首を振りながら部屋を出て行く。
この先監視係として付き合っていくことに一抹の不安を感じざるを得ない五官王であった。