パコーン、パコーンと小気味良い音が響く。
入口に臨時休業の立て札が立てられた大風呂屋敷の裏庭で、葉月は一人薪割りに勤しんでいた。
「ふぅ、だいぶ割れたけど、どうだろ……。寒くなってお客さんも増えてきたし、今日のうちにできるだけ割っちゃおうかな」
散らばった薪を見回して独り言を零し、斧を切り株に突き立てた。
腕一杯の薪を抱えて持ち上げたその時。
「おい」
背後からの声に振り返ると、そこには7、8歳程度の見た目をした童子が立っていた。
(見たことない妖怪だ)
人間の姿をしているが、この妖怪横丁に平然といるのだから人間ではないことは間違いないはずだ。
何より、身につけている衣服は現代の人間の子どもにはそぐわない古びた着物。
とはいえ、葉月は歴としたこの大風呂屋敷の従業員だ。人間だろうと妖怪だろうと、お客様が来た以上は接客をしなければならない。
「今日はメンテナンスのために臨時休業なんです。せっかく来ていただいて申し訳ないのですが……」
「お前、葉月だろ。お前に用がある」
「私に?」
どうやらこの童子はお風呂に浸かりに来たわけではなさそうだ。
仁王立ちで葉月を見つめる視線からはただならぬ何かを感じる。
「……取り敢えず、この薪だけ片付けちゃいますね」
何やら珍妙なお客さんが来たものだと内心苦笑しながら童子に背を向けて薪を運ぶ。
しかしどうにも小生意気な童子は、葉月の作業もお構いなしに言葉を続けた。
「鏡堂の亜八と──」
その名前を聞いた瞬間、葉月の挙動がピタッと止まる。
だがそれも一瞬、すぐさま薪を釜場の壁際に降ろす作業を再開させた。
光の消えた瞳は童子には見えていない。
「仲がいいんだろ。そう聞いた」
童子がそう言い終わる頃には、葉月に抱かれていた薪は全て行儀良く地面に並んだ。
「……」
ゆっくりと腰を上げて童子を振り返る。
「やだぁ~! 仲がいいなんて誰に聞いたんですか? でも~でも~……エヘヘェ~……仲良くしていただいてますぅ♡」
紅潮した頬に両手を添え、クネクネと体をくねらせて一人でキャッキャとはしゃぐ。
童子は葉月の急な変貌に一瞬たじろぐも、噂が本当ならいいと気を取り直した様子で本題を切り出した。
「亜八の誕生日とか好みとか……色々教えてほしい」
「プレゼントですか? それなら、本人に直接聞いた方がいいと思いますよ。面識はあるんですよね?」
そう問われると、不意に視線を逸らして頬を染めた。
「こ、この間鏡堂に用事があって、そこで会った一回きりだ……。だからそんなこと聞けない……」
「一目惚れですか」
「違う! そんなんじゃない! い、いや……確かに見た目もその、可愛いけど……」
癖なのか、着物の帯を握りしめてモジモジと視線を泳がせる。
幼子が初恋に心揺らす様は庇護欲をかき立てるものがある。
しかし、ほっこりした気持ちを覚えつつも、それに流され世話を焼くほどのお人好しではなかった。
「初対面のあなたに亜八さんの個人情報は話せません。あなたが信頼できる妖怪なのか、私には分かりませんから」
「俺は別に……!」
「私は亜八さんのことが大切なんです。ほんの少しでも、危険な目に遭ってほしくない。怖い、不快な思いをしてほしくない」
「……」
真剣な表情で真っ直ぐに射貫く視線。
バツが悪そうに口を噤んだ。
童子なりに理解したはずだ。フッと表情を緩め、優しく諭してやる。
「まずはお客さんとして、顔と名前を覚えてもらうところから始めたらどうですか?」
「用がないなら来るな、なんてきっと亜八さんは言いませんから。ねずみ男さんなんてしょっちゅう入り浸ってるんですよ」
「羨ましい」と小さく漏れた本音は、幸いにも童子には届かなかった。
「そうだな……。ねずみ男は知らないけど、でも、分かった。ありがとう」
「ですが一つだけ。くれぐれも、距離感を間違えないでくださいね」
「肝に銘じるよ」
目が笑っていない大人げない牽制は伝わらなかったようだが、ひとまず危害は無いだろうと、走り去る小さな背中を見送った。
「意外だねぇ。アンタのことだから、サッサと露払いしちまうかと思ったんだけど」
背後の物陰からヌッと現れたお歯黒べったりが、揶揄するような、面白がった口調でそう呟いた。
「悪い妖怪ではなさそうだったので。それに、私に亜八さんの交友関係を縛る権利はありませんから」
「亜八に関することでまだ理性が残ってたとは、安心したよ」
「私を何だと思ってるんですか?」
心外だとばかりに口を尖らせるが、モフモフ、特に亜八についての葉月の常軌を逸した言動を思えば当然の評価であろう。
「まあでも、あの子が近付き方を間違えた時は責任を持って私が痛ぁっ!」
満面の笑みでそう口にする葉月の脳天にお歯黒べったりの拳が降った。
「弱いクセに物騒なこと言うんじゃないよ」
「暴力でどうこうしようとは思ってないですからね!? 弱いのは自分が一番よく分かってますし……。そもそも私なんかに守られなくても亜八さんの方がずっと強いですし……」
頭頂部を押さえてうずくまり、地面に向かってブツブツと何やら呪詛を垂れる。
かと思いきや、勢いよく立ち上がって数秒前とは別人のような笑顔を見せた。
「亜八さんには最強セコムがついてますからねっ」
「まあ、心配はいらないだろうさ」
そんなやり取りをバケツに張った水鏡から覗く陰。
「面倒な客が増えそうだ……」
小さなため息を一つ。
風に舞った木の葉が水面を揺らし、静まった頃にはもう、ただ古びたバケツの底が揺らぐだけ。