ただ広すぎるだけの何もない部屋で、一人椅子に腰掛けて時が過ぎていくのを待つ。
あれほど憧れ焦がれていた地獄に、まさかこんな形で来ることになるなどとは思ってもいなかった。
葉月は紛れもない人間だった。
両親も祖父母も、おそらく先祖代々を遡っても、一切混じりけのない平々凡々な人間の家系。
それが突如として、じわりじわりと水が湧くように妖力が生まれ、いつしか人間からは認知されない存在となった。
その事実を受け入れ、人間の世界を捨てて生きてきたこの数十年。
原因は分からないまま。
妖力はさほど大きくないある一定値に達すると、それ以上に膨らむことをピタリとやめ、特別な技が使えるわけでもなく、ただただ"人間ではない何か"になった。
それでも鬼太郎たちの優しさに包まれ、平穏に過ごしてきたのだ。
しかしあることをきっかけに妖力が暴走。
それが地獄の役人達の耳に届き、五官王によって地獄へ呼び出されたのはつい数日前の話。
葉月が生まれる少し前、地獄では何者かの魂が脱走したという事件が起こっていたのだという。
当時は何万といる亡霊の中、誰がどうやって逃げ出したのかも分からず、結局捕らえることは適わなかった。
ただ、亡霊が逃げた痕跡は確かに葉月の産まれ故郷で途切れていたそうだ。
地獄に呼ばれた葉月は妖術を用いた検査を受けた。
その結果、地獄の見立て通り、葉月の魂には異質な何かが取り憑いているということが判明した。
葉月自身の魂と亡霊を切り離すことも試みられたが、胎児の頃から同じ体で存在した魂の根本はがっちりと融合し、一つの魂を二人で共有している状態なのだという。
それを分かつには”死”以外に道はない。
しかし葉月自身に罪はなく、殺してしまうわけにもいかない。
かといって地獄に落ち、果ては脱走までした悪霊を野放しにもしておけない。
ならばと、地獄で生活することを強制されたのだ。
地獄の慈悲により与えられた、妖怪たちと別れるための三日という時間を終えて、遂に地獄での生活が幕を開けた。
事は重大な様相を呈してはいるが、その実、葉月自身は浮かれていた。
元々地獄の十三王、中でも五官王と宋帝王に対しては計り知れない憧憬を抱いている。
世話になっていた大風呂敷での仕事や、妖怪たちと会えなくなることは気がかりだったが、閻魔大王より問答無用で告げられた「地獄で生活をしてもらう」という言葉に二つ返事で頷いた。
牢屋で過ごす日々を覚悟していたが、葉月にあてがわれた部屋は拍子抜けするほど普通の部屋だった。
むしろ一人で生活するには広すぎるほどの部屋数で恐縮したほどだ。
五官王曰く「態々お前用に部屋を用意するわけがなかろう」とのこと。
葉月自身は罪人ではないため牢屋には入れられない。
では残った部屋はといえば、特殊な客人や牛頭馬頭が使う用のただの部屋、ということのようだ。
その代わり、部屋の鍵を閉めることは禁止され、部屋の中には何匹かの蝙蝠が監視のために常にぶら下がっている。
それでも葉月にとっては幸せと言って良いほどの待遇だった。
むしろ生きて地獄の隅々まで見るチャンスを得られたことを心の底から喜んですらいた。
地獄へ来て一日目、十三王に真っ向から逆らうまでは──。
簡単に言ってしまえば、葉月は自身に宿る亡霊を庇ったのだ。
十三王達は例外なく皆が亡霊のことを悪霊と呼んだ。
はっきりと侮蔑や怨恨の念が籠もった罵倒に、黙っていられなかった。
最初こそ悪霊に洗脳された哀れな娘と同情の眼差しを向けていた彼らだったが、一向に引かない葉月の様子に、その眼差しは警戒へと変わった。
それからは地獄全体が葉月に対して懐疑的な雰囲気を醸し出している。
葉月自身もそれは理解しており、口答えをした葉月を見下ろす十三王の冷たい視線が脳裏を過ぎるたび、体が震えた。
それでも亡霊を庇ったことは決して後悔していない。
葉月は何故か、亡霊のことを心の底から信じているのだ。
それが洗脳であるのか、直感的な何かであるのか、その答えに辿り着くのは何年も先の話。
しんと静まりかえる部屋にドンドンと乱暴なノックの音が響いた。
ノックをするということは、訪れたのは十三王ではなく獄卒の誰かなのだろう。
「はい」と小さく返事をして扉を開けると、やはり牛頭が立っていた。
「五官王様がお呼びだ」
威圧的な声でそう告げると、葉月が反応を返す前にズンズンと歩いて行ってしまう。
葉月は五官王の部屋は知らないため、恐らくついて行けば五官王の部屋、若しくはそれ以外の、とにかく五官王がいる場所へ辿り着けるはずだ。
大きな歩幅に置いて行かれないよう、慌ててその後を追った。
「ここだ」
そう呟くと、礼を言う間もなく牛頭は去ってしまった。
心臓が冷えるような感覚を押し殺し、慎重に部屋のドアをノックする。
「葉月です」
そう声をかけると中から物音がして、数秒後に五官王が扉を開けた。
緊張した面持ちで黙って会釈をする。
「これからこの地獄大王庁の中を案内する。付いてこい」
「五官王様が直々に、ですか……?」
こういった役回りは普通、先ほどの牛頭のような獄卒が担当するものではないのだろうか。
思わず率直に口から出た疑問に、刺すような視線が降る。
「不服か?」
「い、いえ!」
慌てて首を横に振り、「行くぞ」と歩き始めた五官王について行く。
(私を監視するため……)
敬愛する五官王からの冷遇は、想像よりもずっと辛いものだった。
しかし十三王に意見をしたあの瞬間から、こうなることは覚悟のうえだ。
今はとにかくこれ以上迷惑をかけぬようにと、密かに握り拳で自身に活を入れ、大きな背を追った。
「これで一通り見て回った」
小一時間ほどかけて地獄大王庁内を見て回り、五官王の部屋まで戻ってきた。
「広くて大きくて目が回りそうです……」
態度こそ冷たかったが、行く先々でそこが何の為の部屋であるのか、その部屋での禁止事項などを説明してくれた。
こういった面倒見のよさこそ、葉月がずっと熱を上げ続けてきた彼の姿の一つだ。
どんなに冷たくあしらわれようと、やはり自分は五官王のことが好きなのだと改めて実感する。
「儂は執務に戻る。お前は部屋に戻り大人しくしていろ」
「えっ……」
五官王の言葉で目に見えて青ざめる葉月。
思わず漏れた否定的な音を鋭い眼光が咎めた。
「なんだ。地獄から脱走した魂を宿したお前を野放しにしておくわけがなかろう」
まさかこの地獄で自由にできるなどと思っているのか。
低く怒りを孕んだ声音に葉月の肩が跳ねる。
「あっ、いえ……。異存はありません……」
俯いて消え入りそうな声でそう言う葉月に釘を刺すように「余計なことは考えるな」と残し、扉は閉ざされた。
それから数分後、続きの執務に精を出す五官王の耳に、パタパタと小さな足音が届いた。
「あいつは何をしておるのだ」
部屋の前を通り過ぎていく足音。
彼も忙しい。一度は見逃した。
三分後、再び足音。
五分後、またまた足音。
今度は部屋の前で立ち止まり、引き返していく。
やっと静かになったかと思えば、それから二十分ほどした頃。
性懲りもなく走り回る音に、遂に我慢の限界が訪れた。
「お前はさっきから何をしておるのだ!」
勢いよく扉を開け放てば、部屋の前に立ちすくみ目に涙を浮かべて五官王を見る葉月の姿。
「儂は部屋に戻れと言ったはずだが?」
「す、すみません……!えっと……」
顔面蒼白で焦りながらキョロキョロと周囲を見渡したかと思えば、部屋とは逆方向へ進もうとする。
「待て、どこへ行くつもりだ」
「えっ、あ……。こっち……」
五官王の指摘に心底ギョッとして、震える声と足で反対へ向き直る。
その先は長い廊下で、角は幾つもある。
それらを見て尻込みするように足が止まり、必死に視線を泳がせる。
「ずっと迷っていたのか?」
五官王の呆れた声にいよいよ涙声になって、「すみません……」とか細く呟いた。
「方向音痴で、道とかなかなか覚えられなくて……」
葉月は蒼坊主と良い勝負ができるほどの方向音痴。
頭で道順を覚えるということがてんでできず、何度か同じ道を通って体が覚えるまで自信を持って歩けないのだ。
それに加えて、地獄大王庁は全ての大きさが規格外であるうえにどこも似たような作りばかり。
初めに牛頭の後について五官王の部屋までやってきたときも、周囲に気を配る余裕などなく、ただ必死に牛頭の後だけを追いかけた。
一人地獄に連れてこられ、味方などいない中で心細げに涙を浮かべる様には、さすがの五官王も同情を抱かざるを得ない。
「この広さでは仕方あるまい。不親切だった。部屋まで送る」
「すみません……。お願いします……」
双方黙って歩く。
スンスンと小さく聞こえる音に、先ほど部屋に戻れと言われた時の葉月が思い出される。
(あの反応はこういうことだったか……)
決して行動を制限されることに不満があったわけではなかったのだ。
一瞬、それならそうと何故言わなかったと小言が漏れそうになるが、思い返せばあの時の自分の言動に対して「自分は方向音痴です」などと言えるだろうか。
葉月の怯えた目がやけに胸を刺し、眉を顰めた。
「この角を曲がって突き当たりがお前の部屋だ。ここまで来ればもうよいな?」
「はい、ありがとうざいます。お手数をお掛けしてすみませんでした……」
涙は止まったようだが、消沈しきった顔で深々と頭を下げた。
「次からはもっと早く声をかけろ」
「はい……」
その後何度もぺこぺこと頭を下げながら葉月の姿が曲がり角に消えた。
(儂の部屋から葉月の部屋まで角を三つ曲がる程度だが、それでも迷うとは……)
何となく気になって、足が止まる。
「本当に大丈夫だろうな?」
そっと、葉月が消えていった角から様子を窺うと、どうやら無事部屋の前まで辿り着けているようだ。
何故か五官王がホッと胸をなで下ろしていると、葉月のそばを馬頭が通りかかった。
それを見てふと不思議に思う。
(三十分も彷徨って獄卒に会わなかったはずがないが、何故道を聞かなかったのだ?)
その答えはすぐに分かった。
葉月に矛を向け、罪人を見るような目つきで睨み付ける馬頭。
葉月は会釈をするが、その肩は小さく縮こまっている。
遠目から見ても、はっきりとその緊張感が伝わってきた。
(皆があのような態度では……)
葉月の横を通り抜けた馬頭が五官王の間に差しかかる。
「……! 五官王様」
曲がり角の先の人物が五官王であると知るや、恭しく頭を下げる。
そのまま立ち去ろうとする馬頭を片手で制した。
「亡霊を警戒するのは結構。だが葉月自身は被害者だ。少なくとも今のところはな。不必要に厳しい態度をとってやるな」
「も、申し訳ございません。つい……」
「他の者にも過度に不安を煽る態度は慎めと伝えておけ」
「はっ!」
足早に去って行く馬頭の背を見送り、寂しげな葉月の部屋を神妙に見つめる。
(儂もまた、改めねばなるまい……)
馬頭の視線から逃げるように扉を閉め、一直線にベッドに潜り込む。
(五官王様に迷惑かけた呆れられた辛すぎる……!)
布団の中で丸まってジタバタと頭を振り回す。
この二時間程度の一連のことが脳内をグルグルと回り、自身の失態に恥ずかしいやら情けないやらでどうにも感情の整理が追いつかない。
監視の蝙蝠からは、布団の化け物が暴れ狂っているように見えていることだろう。
数分声にならない声を上げて悶えると、ふいにピタッと動きが止まった。
布団の中に引き込んだ枕を抱え、口を押しつける。
その顔は先ほどまでとは一転。
だらしなくへにゃりと綻んでいる。
「五官王様、部屋まで送ってくれた……。やっぱ推し!」
葉月は十三王が想像するよりもずっとタフであるという事実が周知されるのもまた、もう少し先の話──。