油断 仕事道具を買うのにホームセンターに行きたいと言ったら、サンウォンが車を出してくれた。「買い物にでも出る」は、とりあえずデスクから離れるという意味で、自分の用事は特に無いらしい。
転がり込んだ時に金が無いと言ったからか、よっぽど高いものをねだらない限りは、同行時の会計はサンウォン持ちだ。特に役に立つこともしていないのに、完全にヒモである。
基本的に、自分の車は自分で運転したいらしいが、検査のために薬を止めている時や病状が良くない時は、運転に支障が出るので代わることもある。幸い、フラッシュバックも減り、病状は良くなっている。運転自体も、少し前より楽にできているようだ。
「メタルバンドのドラマー?室長が?」
サンウォンはそういう顔がデフォルトだが、今まで見た中でもトップクラスの、怪訝そうな顔だ。もしかしたら、この表情の強弱だけで全ての感情を推測しないといけないのかもしれない。
昨日、イナを音楽教室まで迎えに行った際、受付の女性にバンドをやっていたのかと突然きかれた。
「腕にある入れ墨を僕が油断して、イナちゃんに見られたみたいです。それから、楽器が弾けるかきかれた時に僕が――太鼓なら上手いと言ったので、そこが変な感じに繋がったんでしょうねぇ。ヤクザだと思われなくて良かった。思われていても、言われなかっただけかな」
「君の油断はいつもだろ。俺なんか、ミョンジンの父親のことを不動産屋で尋ねたら、借金取りだと思われた。で、今後はその――バンドマンの設定で行くのか?」
イナに入れ墨を見られただけでも結構な失敗だ。怒られる前に白状しておこうと腹を括ったのに、怒られなかった。ちょっとズルをして、運転中を狙って話しかけたのが功を奏したのか、設定さえ伝えれば毎回、乗ってくれるつもりか。
サンウォンはおそらく彼自身が思っているより融通の利く、面白い男だと思う。
あんな体験をさせられれば嫌でも、霊的なものの存在を信じざるを得ないだろうが、最初は詐欺師呼ばわりした割に、ここまで手放しに退魔師を受け入れられるのは奇特なことだ。
自分は基本的に礼儀知らずな人間だし、異界を体験したなら、関わらずにいたいと思う方が自然だ。単純にそれが嬉しくて、できれば縁を切らずにいたいと思った。情が移ってしまったのはお互い様のようだが、自分の方が強くサンウォンに執着していると思う。
異界に乗り込もうなんて依頼人は、これまでいなかった。サンウォンのおかげで、長年ギョンフン自身を悩ませてきた母のことも、やっと折り合いがつけられたのだ。
「直接言われたわけじゃないんで、もう少し泳がせましょう。面白いから。退魔師だと言わなければならない日が来るかもしれない覚悟はして」
ちょっと調子に乗ってみたが、嘘ではない。ばれたらどうするか念のため考えておいた方がいいだろう。想像の展開によっては退魔師という正解に驚かれず、ただ「違った」と、がっかりされるだけで終わる。当てられてしまうことは無いはずだが、イナがギョンフンのした説明をそのまま話す可能性はある。
「いや、『退魔師 ホ室長』で検索したら出てくるんだから、時間の問題だろ。テレビにも出たとか言ってたよな」
「あらま、そうですね。どうしましょう」
実際、退魔師の中では有名な方だが、世間一般によく知られているわけではない。
「別に。依頼人じゃなく、腐れ縁みたいなことにすればいいんじゃないか?ホ室長に似てるからそう呼んでいるとかでも、まだ間に合うかも。ウェブページを抹消するのは困るだろうし」
それでサンウォンとイナに不必要に迷惑をかけたくはない。眼鏡をかけるくらいの変装はした方がいいだろうか。
「アジョシにそんなお芝居できます?あなた、嘘が下手なのに」
嘘をつけないのはこの人の美徳だ。そして、弱点でもある。嘘をつけないというのは、嘘をついてもすぐバレるくらいに下手という意味の方だ。
「まあ……なんとかなるだろ」
「そうかなぁ」
深く考えるのが面倒なのかと思っていたが、考えても思い付かない時はやってみてから考えるタイプなのだとわかってきた。
それから、ピンチには最優先事項以外の損失や世間体は考えないし、嫌われたり拒否された時は切り離す。それでも、軽率に謝ったり、誰かにすがって媚びたりはしない。交渉と提案で全てをどうにかしてきた人だ。得意なことに関しては強気でタフだし、誰かに頼られて自分が問題解決できそうなら、手助けできる人だったようだ。
「なぁ――何の匂いだ?肉?」
ギョンフンはさっき即席麺を食べたが、サンウォンはカフェインレスのコーヒー一杯と、アーモンドチョコしか食べていない。
「チキンです」
「小さいのでいいから、一つくれ」
あまり見通しの良くない道で、運転が難しい。この道を抜けたら一緒に食べようと思っていた。駐車するにもいい道ではないから、このまま走るなら――
「……口に入れます?」
「んぁ」
試しにそう問うてみたら素直に口を開けられ、地味に驚きながらチキンを箸で押し込んだ。恋人らしいやり取りというよりは、家族のやり取りという認識なのか。
だらしない人ではないし、人懐っこいタイプでもないのに不思議だ。自分より押しの強い人間には弱い気がするが、服従するわけではない。
ギョンフンに心を許してくれたのだとわかり、ちょっと感動した。
退魔のためにチャンネルを合わせた時に『パシフィック・リム』のコーパイよろしく、わかり合ってしまったのかもしれない。それならそれで、相性がいいのは確実だ。
ギョンフンはその前に、ミョンジンの父親に襲われるサンウォンを見てからずっと、彼を放っておけない気持ちでいる。
「本当、警戒心があるようで無いですよね。アジョシ」
面白くなってしまい、ギョンフンはにやつきながら、自分もチキンを頬張った。
「室長、ずっと何か食ってるよな。四十を超えたら流石に、何かしないと贅肉が落ちなくなるぞ」
横目でサンウォンの腹を見て、このくらいなら貫禄とか年相応の色気の範囲じゃないのかなぁと思う。特に太っているわけではないと思うが、確かに若い頃の写真よりは腹が柔らかそうな感じではある。
「退魔って見えない体力を凄く使うんで、とってもお腹が減るんですよ。というか、食べられる時に最大限食べておくことで、急に霊に襲われても、元気いっぱいで対応できるでしょ。式には血も使うし。鶏肉はすぐ血肉になるので身体にいいんです。まだ僕は病み上がりですからね」
腹も刺されたし、血も体力も精神力も使い果たした。
自らを守る腕輪を外し、ミョンジンの母になり、異界を覗いて――
「元気いっぱいねぇ。仕事はしばらく休んだらどうだ?」
「休まなくても、大して依頼は来ないです」
「有名人なんだろ」
サンウォンはギョンフンの話を、いい加減に言ったことまでしっかり覚えている。それができるなら、娘の話もきちんと聞けるはずだと言ったら、図星を突かれた顔でしょんぼりと頷いた。
「まあね。ていうか、アジョシも体型とか気にするんですね。そのまま太っても、ケアベアみたいでかわいいでしょうに」
「ケアベア?」
つい、口が滑った。ハ・ジョンウが好きなのは本当で、サンウォンはギョンフンの好みのタイプだ。サンウォンの女性関係はクリーンで、事故の前からずっと仕事の鬼である。
「全体的に――かわいらしいですよ」
言い方を変えようとしたが、動揺して墓穴を掘った。
恋人の有無をきかれ、部屋の間取りの話もされたが、そんなものはどうでもいい。
できればこのままサンウォンを懐柔し、ヨン家に居座りたい。
イナの送迎や買い物の付き添い、仕事現場でも、サンウォンに好意を向けている人間は大体把握した。ギョンフンが行けば、サンウォンとの接点を減らしつつ、自分の方がサンウォンに近い存在だと知らしめられるだろう。
「――かわいらしい?でかいし、そんな感じじゃないだろ」
特に警戒されないのはいいが、意識もされていないというのは少し残念だ。
「背は同じくらいでしょ。僕、一八四です」
「室長の方が大きいかと思ってた。スタイルがいいから」
仕事現場にいた女性たちに聞いた限りでは、サンウォンの好みは、スタイルのいい人間である。ギョンフンのことをスンヒの兄か弟だと思った人もいた。
現場でも一応、ギョンフンはサンウォンの助手ということになっている。
『ホ室長』という呼び名については、サンウォンはそのまま「どう呼ばれたいかと聞いたらそう答えたから」と言って、納得されていた。嘘はついていない。
ギョンフンが初めて顔を合わせる相手には「ちょっと胡散臭いけどスタイルのいい男が、俺の代わりに行くから」等と説明しているのを耳にしたこともある。
「靴のせいかな。かわいいって言われるの、嫌ならやめます」
「嫌というか、違和感が――ずっと、かわいげがないと言われてきたから」
ああ、そういうことか。
可愛がられたことがあまり無いから、娘の可愛がり方がわからないんだ。
やっとまっすぐな大きい道に出て、視界が広がる。
「アジョシ、絵文字のぴえんのやつにも似てますよ」
「ぴえんのやつってなんだ」
「これです」
やっと目が合ったので、スマートフォンの画面を見せる。
「ホ室長は、雑で無礼な大学生みたいだな」
喜んではいない。はっきりそう言っただけで、サンウォンはまた前を向いた。似てないとは言ってこないところを見ると、似ていることは認めたのだろう。本来、率直で正直で、隙だらけの人なのか。無理に嘘をつこうとするから失敗するわけか。
「良かった。中学生じゃないんだ」
「見た目はいい年の男だからな」
「大学生でも、もう二十年前ですよ」
「そこは掘り下げるなよ」
お互いほったらかしで自由な変人同士の関係はあったが、ちゃんと話が噛み合った上で、一緒にいてここまで楽だったことはあまりない。冗談に大きな声で笑うことはなくとも、面白さが伝わっているのはわかるし、受け答えも好みだ。
「アジョシ、もう一個チキン食べます?」
「あぁ」
今度は差し出すだけで、また素直に食い付いた。
「ここのチキン美味しいでしょ。カルビソースが。今度イナちゃんと三人で行きましょう」
「……ん」
「シアタールームができたら『エクストリーム・ジョブ』観ながら、食べましょうか」
「――ドラマか?」
水を渡すと、それも素直に飲んだ。
「映画です。潜入捜査官がヤクザにチキンを売る話」
「神となんとかよりは、面白そうだな」
まだツボがつかめない。
「面白いですよ。好きです」
あなたのこともね。
「――ホ室長」
「はい?」
「シアタールームができるまでまだかかるし、うちで観ればいい」
「いいんですか?」
「今のところ、家電も壊れてないしな」
「アジョシ、優しいなぁ。僕のこと好きになっちゃったんじゃないですか?」
へらへらして目線を合わせたら、また、ぴえんの絵文字みたいな顔をされた。
この人もしかして、自分が恋されたり恋してることに気付かないタイプだろうか。
「うちにいてくれるのは、助かる。便利で都合がいいってことだけじゃなくて――気分転換にもなるし、安心するから」
答えてはくれないものの真剣な顔で返され、口元は笑ったまま、こちらも真顔になる。
「それは良かった」
罪深い厄介な男なのかもしれない。お互い様か。
「さっきの徐霊みたいなやつって――俺が取り憑かれやすくなってるってことなのか?」
「良くない気を溜め過ぎないようにと思ったんで。僕が一緒にいるだけで、アジョシもイナちゃんも守れますよ。そう見えないかもしれませんが」
新しい家に特に問題はない。問題は、建築現場で悪いものを憑けてくる可能性ぐらいだ。さりげなく、それを確認しに行っている。
我ながら過保護だが、サンウォンは単純にギョンフンが暇で、イナに優しいのだと思っているだろう。
自分が大きな事件を乗り越え、迷える魂と、生きた人間を救えた。そして、その後の人生が今、自分を含むかたちで続いて行こうとしている。
「正直、最初は胡散臭いなと思ってたけど、助けてくれて感謝してる。今、頼れるのはホ室長だけだから――俺にできることはさせてくれ」
このまま進んでもこのままなのか、少しは進展してくれるのか。
どちらにしろ先は長そうだ。
徐々に強さを取り戻すサンウォンの眼差しに負け、涙が出そうになる。ギョンフンは「光栄です」とひと言呟き、残りのチキンを頬張った。