隣人「ジュウォナ、今そこ通った人見た?パク・ジェヒョク氏に似てたね。あの、飛行機の」
ドンシクの言葉にジュウォンは軽く頷いてから、「本人ですよ」と返した。
「え、このマンションに住んでるの」
「いえ。お隣のチェ・ヒョンスさんの部屋に来たんでしょう。ヒョンスさんが、ジェヒョクさんの話をよくしてくれます」
二人とも、つい最近あった大きな事件の功労者の一人だ。
「お隣と仲がいいの?珍しい。どんな人?」
この部屋の主であり法であるジュウォンは、ドンシクが脱ぎかけた上着を奪うように預かる。
「いい人ですよ。年はあなたと近いです。越してきた頃から色々と気づかってくださって――僕が知る中で一番、まともな人かもしれません。ヒョンスさんが家を空ける時にたまに頼みごとをされるので、買ってきて欲しい物をお礼としていただきます」
「凄いな。人嫌いの警部補がご近所付き合いなんてできるようになったんだ」
服を整えてラックに掛けながら、何か足りないと思う。
「――煙草、やめたんですか」
好きな臭いではないのに、いつの間にかドンシクとセットで感覚に刻まれてしまった。そういうことに気付く度、一緒に過ごした時間の蓄積と反比例して縮まった距離を確認させられる。
「自然と吸わなくてもよくなったんだ。これからは、わざわざフレーメン反応起こして確認しなくてもいいですよ。あなたからもらった上着は大事にしたいし、自分でそこに掛けていいなら、次からそうする」
『これからは』『次から』――次があると何気なく毎回、念押しされている。ジュウォンはただ、今と同じような機会ができるだけ多くあればいいと思っているが、ドンシクはもっと長期的に関係の変化を見越している気がする。
「傷んだら、また僕が選びます。臭いなんて思ってませんから」
むしろ、他の人間からする時は不快なのに――何故ドンシクと結びついたら平気なのか、その臭いとどこがどう違うのか――その理由を探る確認作業だったと思う。
理由なんてわかり切っている。好意に伴う信用が、不安で不快だったことへの許容範囲を広げたのだ。それから、汚されず自分を保つのに必死だった自分に、やっと自信がついた。もちろん単純に慣れもある。
「だって、帰るまでにいつの間にか消臭しておいてくれるじゃない」
ラックに掛けた衣類は、次に出掛けるまでに消臭スプレーをかけるのが習慣だからだ。
ドンシクはジュウォンの性質を知っているから、軽く茶化すことはあっても、この部屋ではジュウォンに従ってくれる。季節や素材やその時の部屋の理想的な状態について、細かい条件がそれはもう果てしなくある。ジュウォンの手が空いていれば、ジュウォンが強制執行する方が平和だろうと合意した。
それでいて、ドンシクはパターンを理解すればすぐ、ジュウォンの気に入るようにできる。そもそも観察力、分析力、記憶力が高い人だ。
わざと波風を立てようと仕掛けて来ない限りは、他の人間と過ごすより不快なことは滅多に起こらない。そこが好きでもある。仕掛けてくる時だって大概、ジュウォンが変な我慢を溜め込んでいるのを、議論してすっきりさせるためだ。
「ごめんなさい――不快でしたか」
最近、素直に謝れるようになった。面倒な人間なのは自覚している。所長を陥れるような真似をしてしまってからは、反論して挑発するようなことはやめた。それも、ドンシクが面白がって煽って来ない場合は、だが。
冷血漢を気取るのも、大人し過ぎて従順になるのも、ドンシクは気に入らないらしい。特性や感情を隠さずに、面白さとか味みたいなものを引き出そうとしてくる。厄介だが不快ではない。張り合いがあるとでも言おうか。
「別にいいよ。ヘビースモーカーだった頃は、ミンジョンに超嫌がられてたし。煙草じゃなくて俺が臭いのかな?とは思ってたけど、煙草嫌いでしょ。あっはは、もう、おじさんだからね」
ドンシクは愉快そうに笑って、ソファの定位置に落ち着いた。
ミンジョンの話は未だによくする。楽しい思い出は悲しい結末とは分けて語らないと、ミンジョンはきっと怒る。酔った時にそう言いながら、ドンシクは少し泣いた。
「僕だっていずれは、おじさんになりますよ」
「うぅん。どんなおじさんになるんだろうね。こんなに想像できない人も珍しいな。今日は元気そうだから余計難しい。配属先にも馴染んだみたいだし」
顔を近付けてじろじろ人の顔を眺めながら、ドンシクはジュウォンの頬の肉をむにむにと弄ぶ。疲れてやつれでもしようものなら「すっかり痩せちゃってどうしたの?いじめられた?」と、子煩悩な母親か祖母のような嘆き方をされた。
「また、童顔だって馬鹿にするんですか」
「してないよ。どうなるのか楽しみです」
平時はかっこいいおじさんなはずなのに、世話焼きのおばちゃんみたいな時もあるし、無垢な子どもに見えたり、仙人みたいに思えたりもする。人間らしさの全部を体現できる不思議な人だ。
ドンシクは出会ってからずっとジュウォンを笑わそうとしていたのだと、ようやくわかるようになった。笑えないなら怒らせて、ジュウォンも感情のある人間だと思い出させた。
信じて裏切られて傷付くのは弱いからじゃなく、人間として当たり前のことだと、わからせてくれた。ジュウォンも自分自身や誰かを信じることができるのだと教えてくれた。
「僕も楽しみです」
ドンシクは肉が落ちるくらいで、今とあまり印象が変わらないまま年を重ねるだろう。平穏な暮らしが続けられればもっと、笑顔が柔らかく優しくなるかもしれない。
警察官でいるのが僕の謝罪だと言うなら、平穏な暮らしは難しいことではないかと思う。でも、小さな変化を嬉しく思えた自分に、少し頬が緩んだ。
「もう二人とも元気そうだね。大変な事件だったけど」
隣人についての話が再開し、どう話そうかと考える。
「僕たちと似たような関係みたいです」
ティーポットをテーブルに置いて、ドンシクにはマグカップを渡す。
「どう似てる?俺たちみたいに騙し合いでもしてたの。ヒョンスさんはそんなことしそうな感じしないけど」
ドンシクには話してもいいだろうと、ヒョンスから聞いた事情を説明すると、ドンシクは「なるほど、過去の重さが似てるってことか」と言って、まだ熱い紅茶の湯気を揺らした。
ドンシクがティーカップでなくマグカップを両手で持って、手を温めるようにしながら過ごすのを見るのが好きだ。何か考え込む時に遠くを見る瞳が、琥珀みたいに光で透けるのを眺めるのが好きだ。それが悲しい記憶を反芻する間の沈黙だとわかっても、美しいと思う。
「ジェヒョクさんとは話したことがありませんが、聞いた限りでは、あなたと気が合いそうな気がします」
「俺もそんな気はした。面白そうな人だよね。頭も良さそうだし」
以前、ジェヒョクには全て見抜かれてしまうのだと困ったように呟いたヒョンスに、共感を覚えた。微笑んで惑わせながら本質を暴いて、懐に入る。そういうコミュニケーションのできる相手は、このところドンシクの周りにいなかっただろう。
馴染みになれば四人でカードやボードゲームの類もできるだろうか。
「あなたが良ければ声を掛けましょうか――夕飯、たくさん作ったので」
「えっ、大丈夫?あなた、人見知りなのに」
そのストレスより、メリットの方が大きい。ジュウォンの世代ではドンシクから引き出せない、若い頃のエピソードを聞けるかもしれない。
「ヒョンスさんなら大丈夫です。話しやすいし、お菓子を焼いて持って行くと、美味しいコーヒーをご馳走してくれたりします」
ドンシクは「アイゴー」と感嘆して、目を丸くした。
警察官になる前のジュウォンを知る人には、ドンシクと仲良くできていることの方がよっぽど意外だろうと思う。
ヒョンスは国際線のパイロットだ。英語もかなり話せる。英国で育ったジュウォンが少年の頃のことを話す時、地名や慣習を説明せずともわかってもらえて、楽だった。
ヒョクとは違う、心を許せる兄のような存在になりつつある。
「ジュウォナがヒョンスさんの事情をそれだけ知ってるってことは、向こうにも俺たちのことがほとんど把握されているんだろ?見た感じ、ジェヒョクさんは絶対がんがん質問してくるぞ。俺は楽しめると思うけど、あなたに耐えられるのかな」
ヒョンスが初めて挨拶以外に、コーヒーでもどうですかと誘ってくれた時は、よっぽど辛そうな顔をしていたのだと思う。
うっかり目を見たらすぐに断れなくなって、黙ってしまった。ヒョンスは静かな落ち着いた声で「誰かに話したら楽になるようなことがあれば聞くので、頼ってください」と言った。
彼の目の縁が少し赤くなり、ああ、ドンシクさんが辛い記憶を思い出しながら話す時と同じだ。そう思った。
何故ジュウォンを気にかけてくれるのか腑に落ちて、ヒョンスの部屋に入った。
ドンシクに会いたいと思っていたのに、会えずにいた間のことだった。
ジュウォンの事件の概要はニュースで知っているので、説明しなくていいと言ってくれた。
それからヒョンスは、自分が辛かった時のことを独り言のように語った。死別した家族の話。「自分には凄く関係あると思えることで、人生への影響もはかり知れないのに、僕は本当の意味での当事者でも被害者でもないんです。家族と言っても、血は繋がっていないわけだし。僕には苦しむ資格もないのかもって無力感に、悔しくて情けない気持ちになって、でもどうしても苦しくて――何にも信用できなくなるでしょう。そういう気持ちになったら、頼って。何か食べて温まったら、少しは絶望が和らぐから」
そう言われ、自分が絶望していた時に、ドンシクが温かい食事をすすめながら「辛い時でもお腹は空くから」と、諦観の笑みと強い眼差しでジュウォンを諭してくれたのを思い出した。
「ドンシクさんが嫌なら、無理にとは言いません」
「全然。いいよ。まだ明るいし、ディナーの予約でもしてるんじゃなければ、お邪魔でもないだろうから」
お互い頻繁に見掛けているから、たまにしか会えない恋人というわけでは無いだろう。確かヒョンスは、事件の影響でしばらくは内勤になると言っていた。
ヒョンスは料理がさほど得意ではないし、さっきジェヒョクは夕飯の材料等ではない手土産を持っていただけだった。服装もカジュアルだったから、ディナーの予約も可能性は低い。デリバリーを頼むか、適当に外に食べに行くつもりなら、明るいうちに誘うのが良いだろう。
「通話じゃなくて、メッセージを送ってみます」
端末を操作するジュウォンを面白そうに眺め、ドンシクは目を細めた。
「友達できたんだね。なんだか凄く安心しました」
「友達が少ないのは、あなたもですからね」
「ああやっぱり、俺にも友達作ってくれるつもりなの?優しいですね」
「……あ」
反論しようとしたところで、ヒョンスから電話がかかってくる。
「出てください」
電話の向こうのヒョンスは楽しげな様子で、ジェヒョクにも確認は取れたようだ。時間を決め、通話を終了した。
「二人でこちらに来るそうです。七時でお願いしました。大きいテーブルを出すのを手伝ってもらえますか?」
最初の頃はドンシクも料理を手伝ってくれようとしていたのだが、ジュウォンの気が散ってしまうとわかってからは、わかる範囲で食卓の準備だけしてくれるようになった。
「もちろん。楽しくなりそうだね」
「ジェヒョクさんと一緒に悪ふざけし過ぎないでくださいね」
そう釘を刺したらドンシクは「どうかな。内容によります」と言って笑った。