「俺、死んだ……?」
夢から覚めた筈が、未だ奇妙な感覚が拭いきれない。つよく握られた手の感触、唇に触れたあたたかさ、叩き付けられぐしゃりと潰れた自分の体……全部、ぜんぶ、夢の中の出来事の筈だ。
己にそう言い聞かせていると、外から聞こえてくる歌声に弾かれたように茨は部屋を飛び出す。間違える筈がない。
聞こえてくる歌声を頼りに、なんとか辿り着いたその場所は、建物の中心につくられた中庭のようだった。大きく枝を広げた大樹と、その下に備え付けられたベンチ、そこに腰を掛け凪砂は歌っていた。
伴奏も何も無い、ア・カペラで歌い上げるそれは、どこまでも自由で伸びやかで、朝日に照らされきらきらと輝く『アイドルの乱凪砂」がそこに存在していた。
こんな場所じゃない。貴方には、もっと相応しい場所がある。
もっと広く大きな舞台で、焼かれてしまうくらいに眩しい照明の光を浴びて、何千何万の人の歓声に包まれて、日和殿下と、ジュンと……俺……そう、俺たち『Eden』で、その舞台を作り上げるんだ。
自然と茨の足は凪砂に向かって進む。
もっと、歌っている姿を見ていたい、よりも今思った事を一刻も早く伝えたい、という気持ちが上回っていたからなのだろう。一歩踏み出す度に気分が高揚してくるのが分かる。
足音に気付いたのか、凪砂の視線が茨を捉えるのと同時に、慌てて立ち上がり駆け寄ってくる。
「……い、茨! ど、どうしたの? どこか痛い? 辛いの、それとも苦しい?」
「な、何がですか……? ちょ、閣下!」
凪砂の両手が茨の頬を包み、撫でる。自分の頬が濡れる感触に、そこで初めて茨は凪砂を見て大粒の涙を流していたことに気付いた。
悲しいわけでも、苦しいわけでもない。ただ、どうしようもなく込み上げてきた、名前のつけられない感情が、茨の涙腺を刺激し、溢れさせた。
「大丈夫。大丈夫です……閣下。ちょっと、目覚めた時に居なかったのは、びっくりしましたけど」
「……ごめんね。寂しい思い、させちゃった?」
「死んだのかと、思いました」
「えっ、」
「落ちる、夢を見たんです。閣下と一緒に、どこまでも深く……地面かどこかに叩きつけられた瞬間、目が覚めて隣に閣下が居なかったので、本当にあの世かと思って」
いつものように、理論立てて整然と説明することができない。断片的な言葉をいくつも繋いで、なんとか話せているような状態だった。
「……不安にさせてごめんね、茨。夢見が悪かったなら、もう一度寝直す?」
茨の涙を拭い続ける凪砂は本当に心配らしく、何度も何度もあふれる涙を拭ってくれて、しまいにはパジャマの袖口がびしょびしょになってしまっていた。
「いいえ閣下。自分、やりたい事が見つかりました」
真っ直ぐ凪砂を見る海色の瞳に、気分が高揚した。この目は凪砂もよく知っている。企画の打ち合わせ、ライブやステージの設営、セットリスト等……特に音楽に関わる仕事を考えている時に見せる表情だ。今の茨のやりたい事はきっと、あの日まだ決まらないと悩んでいた、『Eden』のライブ。
「……茨、聞かせて欲しいな」
ベンチに座るように促し、凪砂は茨の話すプランに耳を傾けた。
***
「と、いう訳であります。一刻も早く皆さんが立つステージの準備から企画諸々を立てたいので、早々に迎えを寄越して頂きたいのですが……日和殿下、聞いていますか?」
「聞いているね。何なら、後で伝えた話と違うなんて事が無いようにこの通話を録音しているくらいだね!」
「それはそれは、有難い。仕事道具を取り上げられてしまっている以上、いち早く誰かに伝えねばと思い、閣下から端末をお借りして良かったです! で、迎えに関しては」
「そこは茨の希望に沿うことは出来ないね。やる気が出てきた所で申し訳ないけど……休むと言った以上、それを繰り上げて戻ってくると混乱するのは現場だね。期日を決めて、事務所のスタッフに割り当てて任せているし、何より上がちゃんと期日を守って休まないと部下も安心して休めないね!」
事務所に一刻も早く帰りたい七種茨VS期日までは絶対に島から出したくない巴日和の攻防は、ずっとこんな調子だ。横で聞いている凪砂は何度目か分からない同じやり取りに、流石に聞き飽きてきた。
「……茨、日和くんも仕事があるから、連絡はほどほどにしないと」
「そうですね。これ以上殿下と話をしても事務所に戻れないのでしたら、期日まではバカンスを楽しませて頂きます」
「随分、調子は良さそうだね。茨」
「おかげさまで。戻ったらすぐにレッスンに取り掛かりますから、よろしくお願いします」
そう言って日和との通話を終え、端末を凪砂に返す。茨が持っていてもいいのに、と言うが、もし日和から連絡があった時にうっかり茨が出てしまったら「何故凪砂の端末を茨が持っているのか?管理しているのか?」と、質問攻めにあうに決まっている。面倒を避けるためですよ、と言って差し出された凪砂の手を押し戻し、茨はベンチから立ち上がる。日は高くなり、影は短くなっていた。随分外に長居してしまった。そろそろ空腹になってくる頃合だなと思った矢先に、ぐう、と腹の虫が空腹を訴えてきた。
「閣下、少し早いですが、昼食はいかがでしょう?」
「……そういえば、朝も食べていない気がする。お腹が空くのも当たり前かもね」
そう言って、二人は並んで中庭を後にした。