『バッドエンドは投げ捨てた1』【会いたくない知り合いが勤務先に上司としてやってくる】
中企業のなかの、中の小。従業員100名そこそこの健康食品会社。そのいち職員として働く男性に、SNSを介した違法薬物の中継ぎ役の嫌疑がかかった。男の素性を調べるためにパート事務局員として対象の会社に潜入することとなり、三日目の今日。
「あの……泉さん。ここの入力、別のファイルも全部プラス3で登録が必要なんだけど……」
「そうなんですね すぐに直します!」
慣れない業種、慣れない環境。慣れない社内の独自ルール。先輩からの説明と理解の行き違い。これがオフィス業務……と、マトリとは違う意味の仕事の大変さに変な疲労が溜まり始めていた。
まずは現場に馴染むことから! と小細工なしに意気込んで入社したは良いものの、たった三日にして社会人一年目のようなへろへろ具合に追い込まれていた。
変にデキる女を取り繕う必要は無い。けれど、しょうもないミスをした時は結構恥ずかしいし、ショックも受ける。あまり知り合いには見られたくない姿だと思う。
今回の捜査はもともとネット取引を監視するマトリのサイバー課が中心に追っていた案件だったものの、ネットだけではどうにも全容を把握できなかったことから、案件がこちらに引き継がれた。
私達もまだはっきりとはことの次第を掴み切れていないために、取っ掛かりを探っている現状で外部への協力依頼もしていない。
だからしばらくはこの仮の職場に一人で詰めることになるし、外で知り合いに会うような余裕も、今のところ新人さながらの右往左往ぶりでは無さそうだ。
うっかり関係各方面に今の私の任務状況を悟られる機会も無いだろうと、そこだけは安心している。
都度報告を入れているマトリの皆は当然私のテンテコ舞いぶりは知っているけれど、私のいっぱいいっぱいの姿なんて皆にとっては今更のこと。そこに関しては私も大概開き直っている。
仕事が出来すぎる先輩達を目標にはしても、比べても仕方がない。むしろパート採用で潜入なんて、私以外の誰がやっても無理がある。
だから、これは私だからこそ出来る仕事なのだと理解も納得もしている。
(よし)
気持ちを切り替えて、一度入力を終えたと思ったのに指摘されてやり直しとなった作業のためにパソコンに向かう。
捜査対象の男は、勤務中は常に同じフロアに居る。彼も普通にパソコンに向かって仕事をしていて、怪しい動きはない。
状況によっては退勤後に尾行する計画や、青山さん達と交代して張り込みを行う算段も立てているけれど、現状、男はいたって真面目に業務にいそしんでいる。だからまずは、私も自分の目の前の作業を片付けることから始めることにする。
と、思った時。
「皆、ちょっと良いかな。紹介します」
いつの間にかオフィスに入って来たこの会社の社長が、とある人物と二人、並んで立っていた。
とある人物。
その姿を見て色めき立つ女子達の中で私は咄嗟に、隠れる穴を探した。
「うちの製造ライン管理システムの拡充とオンライン化を進めてくれる、H&O holdingsの大谷社長だ」
「大谷です。今日から一週間、業務を手伝いながら視察させて頂きます。よろしくお願いします」
咄嗟に隠れる穴がなかったので中腰になった姿勢から背筋を伸ばし、仕方がなく顔を上げる。潜入捜査中の奇行は目立つだけでデメリットしかない。最も避けるべきことだ。知らないふりでトイレに行こうかと思ったけれどそれも絶対に目についてしまうから、出口に向かおうとした足をなんとか我慢した。
「彼は私の大学の後輩で、仕事を持ちかけたら忙しいのにわざわざ社長自ら出向いてくれてね」
「先輩からの依頼を他には回せませんでしたから。皆さん、愚痴でも何でも聞きますので、気軽に話しかけて下さい。案外、そういう話から痒いところに手が届くシステムが生まれるものですし」
「不満、不服は申し立ててくれて結構だが、私の悪口はあまり言わないように。大谷君から私へ筒抜けになるからね」
「あはは」
(あはは……じゃないですけど……?)
自己紹介……いや、その存在だけで場の空気を掴んだ『大谷社長』に、社員達からにこやかに拍手が送られる。
私も森に隠れる木のように存在を消して静かに歓迎の意思を示していると、あろうことか羽鳥さんはオフィスに居る数十人という社員全員を一人一人確認するように顔を動かし、しっかりと、確実に、私と目が合った……
(うわっ!)
のに。
「……?」
多少は驚くか、もしくは不敵にニヤリと微笑まれるかと身構えたものの、羽鳥さんは私の姿を認めた時にはもう、無駄に表情筋を動かさない瞬きひとつと共に、すまし顔で視線を逸らしていた。
社長に案内されるまま、羽鳥さんが一週間、そこで仕事をすることになるというデスクにつく。大谷社長を気にしながら社員各々が各自の机に戻る中、私も心の中で首を傾げながら、いそいそと末席のバイト机に帰った。
対角線で最も遠くなった羽鳥さんを改めて盗み見ようとすると、さっきは気づかないふりをしたはずの羽鳥さんが今度ははっきりとこちらを見ている。周囲に変に思われないように、咄嗟に私は目の前のPCに意識を戻した。
目の端に残った羽鳥さんの笑顔は決して露骨なものではなかった。
けれど一度は明らかに私を無視した羽鳥さんが、今、こちらを見て微笑んでいる理由も分からない。
(他人のふりはするけど、私に用はあるということ?)
私がここに居ると知っていてやって来たのか、はたまた偶然の遭遇にどう立ち振る舞うか、よからぬ事を思案している顔なのか……。
だいたい、個々の会社に合うシステムを作るには現場を見ないことには始まらない、それはそうだとしても、わざわざ一週間もかけて社長本人が他社に通い詰めるとは、いったい何の用があるのか。
(……?)
よりによってとも言うべき状況で、よりによっての羽鳥さんという人物の登場。私の任務生活は今後想定外にややこしくなる。間違いなく。
そのことだけは誰に聞かずとも、とても、すごく、よく分かったのだった。