『バッドエンドは投げ捨てた4-2』【出張に行ったらいろいろ手違いで宿泊が同室②】
扉を開けて、室内へ一歩。
しばらく静止して、先に足を進めたのは羽鳥さんだった。
天蓋つきベッドのすぐ手前にある二人用のソファに自分の出張鞄を置いた羽鳥さんは、こんなところでも変わらず優雅な仕草で、そこに座った。
羽鳥さんがバッグを横に置いてくれて良かった。
そうでもしなければ、私は部屋の中のどこに向かって進んで良いかも分からないまま、一晩中ドアの近くに突っ立っていたかも知れない。
不測の事態に遭遇したとき、まずは現場を瞬間的かつ総合的に把握することが最優先になる。
間取り。物の配置。人の位置。
(間取り……)
ネットで検索をかけた時に『女子会・オフ会・誕生会大歓迎☆』の説明書きにつられて、ここならラブホテルといえども変な雰囲気にならないんじゃないかと見込んだのは大間違いだった。
中世のお嬢様のお部屋を思わせる内装は一見お洒落に見えなくもないけれど、素材のチープさが際立っていて、いかにもな雰囲気を醸し出す。
天蓋つきベッドの手前に、お酒を飲むのに良さそうなテーブル、ソファ。ベッドまでの距離は実に三歩。
シャワールームがガラス張りでなかったのは救いだけれど、大きな窓の外に見える高いコンクリ塀に囲まれた小さなベランダの内側には浴槽が見えている。なぜ浴槽だけ外にあるのか理由は不明。
ついでに、あえて増設したように見える室内の柱や、壁の装飾までもが意味ありげに存在感を放っていた。
室内を見渡した私はぎこちなく部屋の角にあった大きなドレッサーに向かい、その下に収まっていた丸い椅子を引き出して身を縮こまらせて座った。
椅子のサイズに対して鏡台が大きく感じられる理由は、考えれば分かりそうな気がしたけれど考えないでおく。
浅くも深くもなくソファに座った羽鳥さんは、まだ言葉を発しない。
「す、すみません、状況が状況だったとはいえ、羽鳥さんをこんなド庶民の、その、宿泊施設? に連れてきてしまって……。普通なら羽鳥さんはこんなホテル、足を踏み入れる機会も無いでしょうに……」
「そうでもないけどね」
「そうでもないんですか!?」
「……」
だめだ。なんか変な墓穴を掘った。
初動ミス。先に話し始めた私も馬鹿だったし、反射的につい聞き返してしまった私も馬鹿だった。
私はこの先の話をどういう気持ちで聞くつもりだったんだろう? 赤裸々に語られて楽しめる程に自分の性格も羽鳥さんとの関係もオープンじゃない。万が一にも『玲ちゃんは?』なんて返ってきた時の大惨事は目もあてられない。膨らませられない話題を振った私の大いなる過失……。
いくつもない会話の分岐先を想像して、私は黙ってこの話題を無かったことにすることにした。
ごまかすように、鏡台の隅に置いてあったアメニティをいじる。並んで置いてあった黒い箱の中に、四角いパッケージを見つけて勢いよく蓋を閉じた。
見られたかと羽鳥さんを伺えば、当然一部始終を見ていた羽鳥さんは珍しく少し困ったように指先で自分の額を撫でていた。
「……」
「……あ、あの、どうされましたか?」
私……ばか……どうしたもこうしたもない……。
でも、見ればどうやら羽鳥さんも本調子ではないらしい。いつもならこういう場を茶化してくれるのが羽鳥さんじゃないか。いや、本調子でからかわれても困るんだけど。どちらにしても今のこの状況全てが困る。自分で進んだ先の袋小路だ。
「羽鳥さん、あの……質問があるのですが」
そうまで言って、自分がずっと胸にバッグを抱えていたことに気づく。やっと手を緩めて、少し潰れたカバンを化粧台へと置いた。椅子に座っているのに、正座をしているような気持ちで腿の上で手を揃えた。
「私は、どうすればよかったんでしょうか……?」
自分史上恐らくもっともマヌケだと思われる質問を、もうこれ以上マヌケな場面はそうそう無いから出し惜しむ理由も無いと、腹を括って尋ねた。
「そして羽鳥さんはどうして私を止めなかったんでしょう……?」
「そんな風に人生のドン底に居るみたいな顔で言われると答えにくいけど」
「はい。大丈夫ですので教えて下さい……」
「俺としては、あれこれ色々考えて慌てている玲ちゃんが面白いなって思って、そっとしておいただけだったんだけど」
「つまり私は泳がされていた……?」
「でも、まさか自分から『ここにしましょう!』なんて、元気よく飛び込むとは思っていなかった」
「つまり……」
カモがネギを背負って歩き回ったのみならず自ら鍋に飛び込んだ?
思い返せば、『一晩過ごすのに良い感じのところをようやく見つけました!』『任せるよ』の会話だけで突き進んだ末に、確かに私が率先して、羽鳥さんをこの場所に連れて来てしまったのだ。あの大谷羽鳥さんを、私が。
「そんなに絶望しなくても」
「良いんです絶望させてください……」
恥も外聞もなく自ら先導してしまった女子としての浅慮さを悔やんでいると思ったのか、慰めるように羽鳥さんは言う。そうじゃなくて私は羽鳥さん、あの大谷羽鳥さんをこんな俗っぽい場所に私が連れてきてしまったのだという、ちょっと違う意味の軽率さに悔やんでいたのだけれど。
でももしかして普通の男性なら、一緒に部屋に入ったことに対してこうも冷静に落ち込まれたら傷つくものなのだろうか。
相手が羽鳥さんで良かった。いや、相手が羽鳥さんじゃなければこんなことになっていない。相手が羽鳥さんでなければ……私は一体どうしたんだろう?
「お互い多少無理ができるくらいには体は丈夫だから、時間がかかっても二部屋空いている東京に近いホテルまでタクシーで戻って、早朝にまた移動するのでも良かったけどね」
「……はい」
先に言って欲しかった。
「なるべく俺に負担がないように、早く休めるようにって思ってくれたんだよね?」
「……はい……」
「じゃあもう休もう。お休み」
ソファに置いたバッグをテーブルに移して、羽鳥さんが横になる。仰向けで脚を組んだ羽鳥さんは閉じた目を腕で隠し、静かになった。本当に寝る体勢らしい。
「あ、あの……羽鳥さん?」
「……」
「ベッド……」
「玲ちゃん」
目をつむったまま少しも動かない羽鳥さんから、たしなめるような声色だけが返ってくる。
「いえっ、ソファで寝ると腰を痛めそうですし、身体に良くはないと思うので……とくにそのソファはRevelの皆さんの知っているような上等なものとはおそらく別物で……」
「もし痛めたら桧山達に『玲ちゃんとラブホテルに泊まって腰を痛めた』って伝えるから良いよ」
「いえ、うん……ハイ。そういうことじゃなくてですね……。あっ、羽鳥さん、じゃあこうするのはどうですか。よくあるじゃないですか、ここからそちらは羽鳥さんのスペース、ここからこちらは私のスペース、越境厳禁でワンルームシェアみたいな」
「ベッドを縦に二等分っていうこと?」
「……。無い、ですね。すみません」
「玲ちゃん、ちょっとそこに立ってみてくれる?」
なぜか羽鳥さんは私の提案を否定せず、寝ていたソファから反動をつけて勢いよく立ち上がって、壁沿いに設置されているテレビを指差した。
「あのテレビの真ん中から、ベッドの上の照明を結ぶ線のこちら側が俺のエリア。この先は玲ちゃんのエリア」
「あ、はい」
「朝まで立ち入りは禁止」
「はい」
そう言った直後、羽鳥さんは自分が取り決めた線を、まるで初めからそこには何も無かったかのように大股で踏み込んだ。
(えっ)
それどころか、羽鳥さんはそのまま真っ直ぐ私の方へやってくる。
たとえ思わせぶりにしても、羽鳥さんは妙なことは何もしない。何だかんだ言ってどこかで私の中にそんな思い込みが残っていたのか、羽鳥さんの強い眼差しを受けても、この期に及んで私には『逃げる』という選択肢が浮かばなかった。
考える時間が無かったというのは言い訳にしかならない。マトリの仕事では、一瞬のためらいが命取りになる現場を何度も経験しているのだ。じゃあ今のこの私の判断の鈍さは何?
戸惑うまま、半歩後ずさることしかできなかった私の手首を、羽鳥さんが掴む。
羽鳥さんの言いたいこと、示したいことは働かない頭にも強烈に伝わった。何もしない。境界を踏み越えない。こんな口約束、何の意味もないのだ。
だからと言って、羽鳥さんがこうまでする理由。掴まれた手に痛みは無いのに、羽鳥さんの指にとても力が込められているように見える意味は?
「あ、の」
「……面白そうだから、玲ちゃんの行動についてきた。自制は利く方だから、部屋に入った。君には全然その気は無いだろうから、俺も手は出さない」
「で、ですよね……?」
「先に緊張したのは?」
背筋に、火のように熱いのか氷のように冷たいのか分からない何かが駆け上がる。身動きひとつしていないのに、体の中で血と感情が混ざり合ったものが猛烈に巡っているようだった。
部屋の扉を開けて一歩踏み込んだ時、羽鳥さんは確かにいつも通りだった。状況を笑い話に変えるくらいの余裕があった。変な空気になったのはいつ?
私がこの部屋の雰囲気にあてられて動揺してしまったから? それは、私が少しでも何かの先を想像してしまったから?
いや、どんな理由であっても男性と二人でこんなところに来たら、緊張して当たり前なんじゃないか?
違う、だから、恋人でもない、そういうことを望んでもいない男性と二人でラブホテルになんて普通は来ないのだ。じゃあ今のこの状況は何? 考えが少しも前に進まない。
止まったまま同じく羽鳥さんも何かを思案している。初めて見る熱を孕んだ鋭い眼差しは消えない。
近づくことも離れることもできない。答えの出ない距離に、何の言葉を発して良いかも分からない。掴まれた手と、心臓のあたりだけがやたらに熱を持つ。
随分と長い時間立ちすくんでいたように思う。
「……テーブルの下」
「はい?」
なかばパニックに陥っている私の答えを待たずに、ようやく羽鳥さんが口を開いた。
「にある、四角いケース。さっきちょっと中を見たら、ソフト手錠が入ってたんだよね」
「ソフト、手錠……?」
ソフト手錠。やわらかい手錠。私が知っているものと形状が似ていながら、目的を異にするもの。
「つけとく?」
「誰にですか」
「……」
「私ですか」
「……」
「羽鳥さんですか あっ、そういうことではないですね」
身動き取れなくなっておこうか? と、やっとこの冗談みたいな状況を本当に冗談に戻そうとしてくれたのだ。羽鳥さんにしてはいつもほどのキレは無い言い回しは、絶賛混乱中の私の頭にはいまいちストレートに届かなかった。
「いえっ、そこまでは」
「必要ない?」
「はい」
「……」
「いえ、その。……。すみません」
「……俺、滝をかぶって修行する人達のこと、そうでもしないと精神修行ってできないものかなって疑問だったんだけど。気持ちが分かった気がするな」
「私もです……」
むしろ今冷静になるにはそれしか手段が無い気さえする。
「滝に打たれる玲ちゃんか。じゃあ、今夜は滝行をする玲ちゃんを想像しながら寝るよ」
「じゃあ私も滝に打たれる羽鳥さんを」
「それはちょっと嫌だけど」
ようやく二人で、いつもと同じような苦笑が漏れる。同時に、私の手首を掴んでいた羽鳥さんの指が緩んで、落ちていった。
「玲ちゃんはベッドで寝る。俺はソファで寝る。良い?」
「はい」
「残念?」
「いえっ!」
「良かった。本当に残念じゃなさそうにしてくれて」
お休み。今度こそソファに横になった羽鳥さんは、もうこちらを向くことはなかった。
残念じゃない。断じて。
なのに、今も心臓の音が落ち着かないのは、なぜ。