Snedronningen 彼に貰ったスケッチブックを抱えて、昏い庭へ出ました。植物を育てているので遮蔽物が少なく、空を見回せます。
月は、金星の反対側にありました。
月蝕──とても深い部分蝕で、月のほぼ全体が影に覆われています。満月のはずですが、三日月のように細くなって、赤黒く見えました。
背を向けて、花壇の傍の小径に座り込みます。土汚れも何もかも、もう、どうでもよかったのです。黒耀の髪は宵闇に融けて境目を失い、白魚の手すらも翳りに呑み込まれていきます。
恋を、自覚した日でした。
──最悪だ。
天に輝く宵の明星から、地に転がる小石まで。この世の全てが憎らしく思えました。
間違っていたのは世界でしょうか。
──いいえ、わたしだ。わたしのせい。
こんな思いをするくらいなら、人形としてお行儀よく座っていればよかったのです。初めから“お姫様”として生まれたというのに、偶然拾ってしまった“少女”を捨てきれなかったから、苦しいのです。王女に余計な感情なんていりません。
鏡に映る王女の顔は、常に美しく微笑むはずです。取り出した手鏡に、王女はいません。鏡面には、悲哀と憎悪でぐちゃぐちゃの、醜い少女が映っているだけです。
──今、心が死んだらいいのに。
それは最低な思考でした。心が傷つき感情を表せなくなった友人を持つ人間として、この上なく最低な思考でした。
けれど止まりません。友を羨みました。代われるなら代わりたいと思いました。そうすれば、この涙だって止まるのです。どんなに悲しく、どんなに辛くとも、涼しい顔で誰かさんに嫁げるのです。
──世界が憎いのは。
視界が歪みます。世界が醜く映ります。
──わたしのせい。
拭えきれなかった雫が、彼のスケッチブックを滲ませます。
──だって。
天に輝く星も、地に転がる小石も、わたしでさえも。
──だって、好きな人が描いた世界は美しいのですから。
だからわたしは衝動的に手鏡を叩き割った。
「──カーミレ!!」
鏡の破片を掻き集めると、掌は血塗れになっていました。
「カーミレ、おい!!」
心臓に突き刺すために、大きな破片を選びました。
「カーミレ!!」
手首を掴まれ、力ずくで引き寄せられました。
──ヴェス……?
彼を認識した瞬間に、ひゅ、と息を呑みました。
鏡の破片の切っ先は、好きな人の心臓に向けられていました。
「刺せ」
「い……いや……」
弱々しくかぶりを振りましたが、手は離れません。引き寄せようとしても、びくともしません。
「カーミレを雪の女王に渡すわけにはいかない」
日は、とっくに暮れています。彼の発声する一音一音に、喉を傷つける呪いが掛かっているはずです。
「放、して……声、出さ、ないで……!」
「断る。カーミレは、っ──ぐ、」
数度咳き込み、喀血。彼の呪いは、肺にまで拡がっていました。もう、呪いの影響のない昼の時間帯であろうと、まず間違いなく発声に支障が出るでしょう。
咳で体を折り曲げた際に危うく破片が刺さりそうになって、カーミレはついに抵抗を諦めました。血に塗れた破片が、月蝕の幽かな光を受けながら零れ落ちます。
「……これ以上、喋らないで……お願い……」
「それは……できない。すまない……」
彼の口端からは、止めどなく血が滴ります。
「あとで、聞きます、から……今は……!」
「今でないと……駄目、だ……」
筆談でも、人づてでも、意味がないと言い張っています。
訳が分かりません。分かるのはひとつだけです。
──やはり少女が居てはいけないのです──!
掌に貼りついていた小さな破片をひとつ、握り込みました。
「カーミレ、聞いてくれ、俺は、」
「……ごめんなさい……」
おとぎ話の、見様見真似で。
そっと、唇を塞ぎました。
──ファーストキスは、血の味でした。
自身の胸に、手を当てて。
そっと、破片を刺しました。
──恋は、罪悪でした。
放心状態のまま名前を呼ぶ声が聞こえます。
喋らないでと言ったのに。ああ、それでも、
──幸せでした。ありがとう。
「つっ……う、」
胸に刺さっていく痛みは、すぐに消えました。池に投げられた小石のように、とぷんと、呆気なく沈みました。
「……………………」
血は流れていますし、体が冷たくなっていくのも分かります。けれど、何の感情も湧きませんでした。怖くもなければ、悲しくもありません。
「……………………」
立ち上がるとくらくらしました。けれど足は外へと向かいます。門扉を開けた途端、雪の嵐がどうと吹き荒れました。先程までの澄んだ夜空は、見る影もありません。
「……………………」
もう、吹雪すら、冷たくありません。
あとには汚れたスケッチブックと、倒れて血を吐き続ける青年だけが、取り残されていました。