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    3年前発行した短歌集のおまけの小説の再録を前pixivにしてたんですけど何が何だかわからなくなったのでとりあえずここに置いておきますので暇な時に読んでください そのうち色々整えます 海辺に旅行に行く話です

    夕星にひとつずつ(再録)夕星にひとつずつ

     早朝、燐音くんとのデートの待ち合わせの前に、駅の目の前のコンビニに寄って、お菓子とかをいろいろカゴに入れた。デートってわくわくするから、遠足みたいなものだし。僕はもう大人だから、三百円以上おやつを買っても怒られない。大人になるって、たぶんそういうこと。
     飲み物コーナーにぐるりと回る。暑いとそれだけで無性に炭酸飲料が飲みたくなるし、コンビニもこれ見よがしに新商品のサイダーを喧伝している。青いパッケージ。外には痛いくらいの青い空。身体が水分を求める渇き。ああ、美味しそう。需要と供給のハマり具合がもうだめだった。サイダーはぬるくなると美味しくないから、今すぐ飲もうと思って、これから飲むお茶も別に買った。ちなみに僕はいつもものをたくさん買うからレジ袋も買わなくてはならない。
     会計を済ませてコンビニの外に出ると、ドライヤーみたいな熱気を含んだ風が顔にあたって一気に顰めっ面になる。なんでこんなに暑いのだろうか、この国は。冬は雪が降るのに、夏はまるで熱帯。お腹いっぱいだなあ、と思う。すると、歩道の駅の方角の五十メートルほど先に見慣れた背中というか、逢引きの相手というか、目的地を見つけた。後ろから驚かそうと思って、ビニール袋を片手に思わず小走りする。暑さも気にせずに、あっという間に数メートルの距離。そして、そっと近づき人間ひとりぶんの距離。僕は右手で、燐音くんの左手を握った。
    「びっ……くりした。何してんの、お馬鹿ちゃん」
    「いきなり罵倒っすか!? 驚かそうとしただけなのに〜」
    「近づいてきていきなり手ェ握ってくるのは一種の痴漢なんだわ」
    「恋人のこと痴漢扱いっすか!」
    「そういうプレイなんだったら乗ってやるけどよォ。暗くなるまで待って♡」
    「うざ……。ってか、追いつこうと思って走ったら一気に暑いっす〜。ジュース……」
    「そんなに俺っちに早く会いたかったんだなァ」
    「そうだったら悪い!?」
    「いや悪かねェけど……」
     僕がぶっきらぼうに放った言葉にもそもそと照れている燐音くんを横目に、僕はさっき買った青いパッケージのサイダーのボトルを手に取った。暑さとかなんとかで、大切なことを忘れたまま僕はキャップを開けた。
    「あ〜、暑い……しゅわしゅわ……」
    「おい待てニキ、お前いま走って……」
    「ん? あ、ああ! うわっ!」
     燐音くんが僕を止めてくれたにもかかわらず、僕はサイダー飲みたさに思い切りキャップを捻りきった。途端にサイダーが勢いよくペットボトルから噴出した。僕の手やサンダルが濡れていく。僕はだらだらとサイダーをこぼしながら慌てて側溝のちかくに駆け寄って、止まらないサイダーの洪水をただ眺めた。横で燐音くんがそれを見て、ひどく大笑いしている。
    「ガチのお馬鹿ちゃんじゃねェか! ぎゃはは、流石だなァニキきゅんは!」
    「も、もったいない〜! 僕のサイダーが〜!」
     やがてサイダーは半分ほどをボトルに残して沈静化した。僕は半泣きになりながらも一命を取り留めたサイダーを一気飲みした。燐音くんは笑いすぎて目に涙を浮かべている。同じ涙でもこんなに意味合いがちがってくるものか、と思った。
    「あ〜、面白かった。腹よじれるかと思ったっしょ! 俺っちのこと見つけて手ェ握ってくれたときはさァ、わりと、いやマジで本気で、あ〜この子に好きになってもらえてよかった〜って思ったのに次の瞬間コレだもんなァ。上げて落とす作戦を自分で実行するとは思わなかったぜェ……」
    「揚げてトルコ?」
    「うんと、ちなみにそれはなんの品種?」
    「茄子っす。白い茄子で、熱を通すとねっとり柔らかい食感になって、天ぷらがおすすめなんすけど、麻婆茄子つくるともはや麻婆豆腐なんすよね〜」
    「へえ……。食べてみたい」
    「帰ったらご馳走しますね〜。ああでも、あんまり売ってない品種だから、ちょっとお時間頂戴するかも」
    「そんな無理しなくても」
    「食べたいって言われて出せません〜って言う料理人はいませんよ。隣の隣の駅あたりの八百屋さんにならあったかも……僕に任せて」
     帰ったら、というのは明日以降の話になる。というのも、きょうのデートはただのデートではないのだ。ちょっと海辺に遠出して、一泊して帰ってくる。遠足どころか臨海学校だ。どうでもいいけど僕は小学校は林間学校だったし中学校の宿泊研修も山だった。僕の班が作ったカレーがいちばん美味しかったと、引率した校長先生が褒めてくれたのをよく覚えている。好きな子とただ親密になるために行う遠出はもはや研修ではないけれど。
     泊まりがけの遠出って、ロケ以外でほとんどしたことがなかったから新鮮だ。待ち合わせだって、今までずっとひとつ屋根の下だったから、つい最近までしたことなかった。お互いにすべてさらけ出してきたから一緒に眠ることも抵抗なんてないけれど、それは眠り慣れた僕の家の布団の話であって、遠い土地はまた別の話だった。

     海といえば前に深夜に僕の車を飛ばして燐音くんと遊びに来たこともあるし、近場の水族館も燐音くんと何度か来た。燐音くんと出かけてばっかり。そのなかで、まるっと2日オフになる日があるとわかって、どうせなら遠出したいという話なり、今日に至る。
     すこし電車に乗って、高速バスが多く出るターミナルに到着してる乗り場まで向かって、燐音くんが予約をしてくれていた高速バスに乗り込んだ。座席表にはたしかに僕たちの名前(天城燐音様・お連れ様だけど)があって、いつかの夏には世界に居場所がなくなりかけていた僕たちにも、座席ふたつ分の、僕たちだけの居場所が確保されていた。ここにいてもいいよ、と言うように。
     寝てていいよ、と僕に窓側を譲ってくれた燐音くんが真っ先に僕の肩に頭を預けて眠った。夏場だからちょっと暑苦しいくらいだったけど、愛おしさのほうが強くて文句をつける気にはならなかった。僕はほかの乗客の邪魔にならないようにもそもそ空腹を満たしたあと、燐音くんを起こさないように眠った。
     途中にトイレ休憩を挟んで、また眠って、僕たちは遠く離れた海沿いの街に来た。ありきたりな表現を挟めば、見たことのない景色が広がっていた。そしてなにより暑かった。日差しを遮る都会のビルみたいなものが全然なくて、日光が僕たちに直接降り注いだ。暑さにも日焼けにも案外弱い燐音くんには、前に晴雨兼用の傘を買ってあげた。それを今日は持ってきていた。僕も燐音くんが買ってくれたハットをかぶった。
    「あっちい……」
    「都心の喧騒を離れたら涼しいかもっていうのはマジで浅はかな思い込みだったっすね……」
    「おめェはマジでそんなこと思ってたのか」
    「うん……とりあえず海風にあたれば涼しいのかなって」
    「俺っち山も海も提案したっしょ。山でキャンプも良くね?って」
    「キャンプもね、めちゃくちゃ惹かれたんすけど、虫に刺されたら嫌だなって……」
    「海でも虫には刺されるだろうが。まあ確かにニキは俺っちの数倍食われてる気がするけど……毎年毎年俺っちはおめェの背中にムヒを塗ってる」
    「ムヒ屋さんですからね〜。なんか体温高いと刺されやすいんですって。ほら僕、平熱高いでしょう?あとは美味しいご飯を食べてる僕に魅力を感じたんじゃないっすかね」
    「俺っちも同じメシ食ってんのに?」
    「誰のおかげっすか〜? それにほら、僕からしたら美味しそうに見えますよ、燐音くんも」
    「……そういう甘い言葉はこういう話の流れでするもんじゃねェだろ、なんで蚊と同列でものを語ってンだ」
    「痛っ! 殴ったな!」
    「あ〜暑いな〜」
    「無視!虫だけに!噛んでやろうか!」
    「好きにしろ、ホテル着いてからなら」
    「あ、ホテルどうします?チェックインしとく?」
    「ん〜、とりあえずここのバス停の最寄りが水族館だから、そこは観ちゃったほうがいいかも。また戻ってくるのたいへんだし」
    「了解っす〜」
     立ち話してる意味もない、と言って、目的地のひとつである水族館に向けて歩き出した。ふいに燐音くんが日傘を右手に持ち替えて、手を差し出してきた。
    「……暑くない?」
    「ンだよ、せっかくデートだから恋人らしく手でも繋ぎたいと思ったのに」
    「あ、今のかわいかった。いつもなら『手でも繋いでやろうと思ったのに』とかって上から目線なんすから」
    「え〜? 俺っちよりかわいいやつなんていないっしょ?」
    「そっすね。かわいい子もかっこいい子もいませんよ」
    「だからそういうことはもっと真面目に言えってば……」
    「あんたもでしょ〜。僕は至って真面目に言ってます。雰囲気とか作らないと言えないような言葉なんて、ほんとはないほうがいいはずで。……いや、だったら普段から燐音くんの言ってることをちゃんと受け止めるべきで……?うーん、どっちもどっち」
    「きゃはは、その通りっしょ。足りないとこばっかり」
    「若輩者なんでね、僕らも」
     そう言って僕は差し出された燐音くんの手を取って、指の間に指を絡めた。やっぱり暑い。
    「……手汗かきそう、嫌いになりませんか?」
    「何を今さら……」
    「いいならいいんすけど……」
    「いいって言ってンだろ」
     燐音くんはそう言って僕の目を見つめた。嫌いにならないんだって。その言葉を反芻しながら、じわじわと暑い道を歩いて水族館へ向かった。
     展示室も含めて館内はとても涼しかった。時期もあってまあまあ混雑していたけれど、賑やかというわけでもなかった。この水族館はいわゆる娯楽としての側面より、海洋研究施設としての側面が強くて、今まで見た水族館よりかなりお堅い雰囲気が出ていて、燐音くんが好きそうだなと思った。水族館でも文化施設でも燐音くんは説明を隅から隅まで読むタイプ。なにごとにも勉強熱心で、どうしてこんな僕と一緒にいてくれるのかわからないくらい。
    「見てニキ、かわいい」
    「ん?」
     燐音くんが指さした先には、ひときわちいさいかにの水槽があった。チゴガニ、と名前が書いてあった。聞いたことないかにだ。こんなに小さかったら人間は食べることもできないんだろうな、と思った。燐音くんはこの小さなかにの説明もやはりまじまじと読み続けている。いったい頭に入るんだろうか、と不思議に思う。
    「『そして最後に行うのがウェイビングです。これは雄だけが行う行動で、別名恋のダンスとも呼ばれます』だって。繁殖期にハサミを上げたり下ろしたりするのがダンスみたいに見えるらしい。どの生き物もやっぱり踊っちまうもんなんだなァ」
    「すごいところに着地しましたね……」
    「そういう、人間とあんまりかかわらなそうな生き物も人間みたいな行動取ってるって思うとけっこうおもしろいじゃん。だから俺っち、こういうの見るの好き。なんだろうなァ、人間以外の生き物が、どういうふうにものを考えてンのか気になるっていうか、それがわかると、ほっとするっていうか……。自分のことも、なんとなく納得できるかもっていうか」
     ──前に、燐音くんの弟さんに、話を聞いたことがある。故郷では動物の解体なんかをしていたと。自分は何度か咎めたけれど、やめる気配はなかったと。それを聞いたとき、妙に驚く気にはなれなかった。もちろん動物を無作為に殺したことを支持する意図はどこにもないけれど、なんていうか、燐音くんならやりそうだな、という納得が僕の胸に落ちてきたのだった。燐音くんとしてはまちがっていないというか、人間として生きる意味、みたいなのを考えていたのかもしれない。それは僕も、考えたことがある。燐音くんもきっと、それが知りたかったんだと思う。自分が人間に生まれた実感が欲しかった気持ちは、なんとなくわかる。
     前みたいに、隅々まで説明を読む燐音くんに付き合ってゆっくりゆっくり順路をまわった。大きな水槽で、魚が群れをなしてきらめきながら揺らめいている。
    「イワシの水槽って、どこ行ってもだいたいきれいっすよね」
    「襲われにくくするために群れを作ってるから、流れ星みたいに見えるんだろ。繁殖にも有利だし」
    「生きていくために必死なんすね、お魚も。その命を僕たちはいただいて生きているわけなんすから、そこはやっぱり命に責任を持たないと、ってまあ、いつも思っていることなんすけど」
    「てめェの責任は人間の範疇も超えるわけか」
    「そりゃあ、僕たちはたまたま人間だっただけの生き物であって、世の中人間以外の生命のほうが多いんすから。人間のことだって、自分と、自分にかかわってくれたひとのことしか知らないっすけど……」
    「人類すべてを愛するわけには時間もエネルギーも足りないから、出会えた運命に全力を賭したい」
    「うん?」
    「好きな奴には、大事な奴には、元気に生きて、笑っててほしいよ。せっかく人間に生まれたんだから」
    「……そっすね」
     燐音くんはもう一度、無数の魚が泳ぐ水槽を見上げた。ここが海の底だとすれば、上から光が降り注いでいて美しい。泥の中でも、海の底でも、落とし穴の中でも、燐音くんは笑っていられるのかもしれない。もちろん、その笑顔はもしかしたら我慢の結果なのかもしれない。本当は海の底で、水に溶け込んで見えないだけで涙を浮かべていることもあったのかもしれない。だけど、そこで笑うと決めたのが燐音くんの意志であり選択だとしたら、僕は燐音くんの意志を否定する気はない。
     気がつけば水族館に入館してからかなりの時間が経過していた。途中で見たペンギンは小さい頃に家族で来た水族館で見たよりぐっと小さく見えた。フードコートで食事をとり、適当にお土産を買って出たところで、ふとポスターが目に入る。この地域の花火大会があるらしい。日付を見てぎょっとした。今日じゃん。
    「燐音くん、見て」
    「ん?」
    「今日ここで花火あるんですって」
    「ああ、知ってた」
    「そうなの?」
    「だからここに来ようと思ったンだわ」
    「なんの趣味で隠してたんすか?」
    「隠してたつもりはなかったけど……。言ってなかったっけ。嫌だったらごめん」
    「いや観たいっす」
    「じゃ、決まり」
     燐音くんは僕の頭をぽん、と一度撫でた。僕もなんとなく燐音くんの頭を撫で返したらデコピンになって返ってきた。痛かった。夢ではないらしい。
    「花火夕方からっすね。チェックイン1回します?」
    「ん〜どうすっかなァ……花火大会はまたこのへんでなンんだけど、ホテルまでは歩くとけっこうかかるし、なかなかちょうどいいバスとかねえンだよなァ。往復することも考えると留まってた方がいいのか、でもわりとまだまだっしょ……」
    「タクシー……は帰り困るか。うーん……。あ、そうだ」
    「名案でもあンの?」
    「ってほどじゃないっすけど。車借りれないっすかね? そしたら他の観光地もぐるっと回れますし、そのホテルとここの往復も楽っすよね? 僕、運転しますよ」
    「……なるほど?」
     燐音くんの目が輝いた。持ってきてよかった免許証。燐音くんに「美形が真顔だとおっかねェのな、しかも腹減ってたっしょ。こんなガン飛ばして、写真撮る人もかわいそう」と最悪ないじりかたをされる僕の運転免許証でもお役に立てる。
    「レンタカーレンタカー……。あ、あった」
     マップアプリでレンタカーの店舗を探すと、表示された所要時間に思わず苦笑してしまう。燐音くんも僕のスマートフォンを覗き込んで同じように苦笑。車を借りるのにも一苦労。それもまあ、旅の醍醐味だろう。
     結局レンタカー店までは思い切ってタクシーに乗り、いちばん安い軽自動車を24時間で借りた。担当の人が当たり前に燐音くんに鍵を渡してきてちょっと笑ってしまった。燐音くんも笑いながら僕に鍵を手渡した。知らない街を、知らない車に乗って、よく知った子を隣に乗せて走る心地は案外人生はじめてだ。燐音くんはひたすらマップアプリで僕のカーナビを務めてくれた。燐音くんに案内された道を僕は走りながら、僕は今日も燐音くんが行きたい場所に連れて行く。
    「煙草でも吸ってりゃあ絵になるンだろうけどなァ、この海岸線」
    「え〜、嫌っすよ。喫煙すると味覚が鈍るって言うじゃないですか、僕は食べ物を味わうのに支障になるものは断固拒否っす。税金だって高いし……お腹いっぱいにならないし……」
    「きゃはは。流石っしょ……俺っちも、あんまし喉に悪そうなことはな」
    「だったら酒をやめてください!?」
    「つまんねェほどド正論だなァ」
     気まぐれにかけたラジオでは『夏を生きる』が流れている。サイダーの泡のように、一瞬で夏は消えていってしまう。飲み頃なんてすぐ終わってしまうのに、持って走ると溢れ出して味わうことも叶わない。けれど、その儚さ、眩しさなんかは決して嫌いじゃなくて、その眩しさを全身に携えて笑っている好きな子の姿は、くらくらするくらいに僕の目に映る。
     到着したホテルは部屋が海に面していて絶景だった。デッキに身を乗り出して海を眺めてふたりではしゃいで、ふと目があって、唇を重ねた。この見つめ合いは同意の視線。言葉を交わさなくたって、見つめ合うことで愛を伝え合うことができる。そんなのもしかしたら、僕と、あるいは燐音くんの思い込みかもしれないし、思い込みだったらだいたい事故に遭う。その事故の確率が下がって失敗が少なくなるのも、愛のかたちのひとつ。
     思えば今日ははじめて、昨日は会わなかったから二日ぶりの、累計であれば何度目かはわからないキス。海の風が凪ぐような穏やかさで、ささやかな幸福で満たされるような口づけに思えた。これは一日かぎりの魔法かもしれない。
     再度、僕の運転で花火大会の会場に向かった。ラジオをかけると、ちょうどリクエストで花火の歌が流れていて、僕は久しぶりに『正しい夏』を送っているのかも、という気持ちになった。燐音くんが横で口ずさむのを聴きながら走った。
     会場につき、せっかくだから、と、有料の観覧席の券を買って、ふたりでレジャーシートを敷いて並んで座った。お好み焼きとか唐揚げとかビールとか焼きそばとかをわんさか買い込んで。燐音くんは銀色の缶を片手にぐびぐびと飲んでいた。
    「ヘイヘイお兄さん、ジュース飲んでる?」
    「飲んでる飲んでる。乾杯〜」
    「かんぱ〜い。いや〜いいねェ、嫌なこと全部忘れられちまう」
    「そっすね。まだ花火打ち上がってないのに、僕ら完全に打ち上がっちゃってますね」
    「そりゃあ祭りだもん〜」
     燐音くんが程よくへべれけになっているのを見て、僕もまだお酒は飲めないけれど、酔うってこんな感じかな、みたいなふわふわとした気持ちになった。
     流行りのアニメの主題歌とか、ポップソングなんかに合わせて次々と花火が打ち上がり始める。目の前の高校生たちがタピオカを飲んでいる。浴衣を着たカップルを見て絵になるなあと思ってみたり、おじさんの「たまや〜!」という大声が響き渡って、僕と燐音くんは同時に吹き出したりした。燐音くんは調子に乗って2本目の缶ビールを開けた。
    「ニキ、唐揚げ食べたい」
    「ほい。あ〜ん」
     当たり前のように、恋人の口に唐揚げを放り込む。それを咎めるひとも笑う人も茶化す人も、ここには誰一人としていない。みんな花火にしか興味がないから、僕たちなんて気にも留めない。
    「……めちゃくちゃうまいけど、ニキがつくったほうが美味いな」
    「マジっすか? うれし~。たぶん塩麹に漬け込んでるんすよね、これ。にんにくも効いてて味付けはすごくいいんで、揚げかたと肉質の問題かも。帰ったらちょっとアレンジしつつ再現してみますね」
    「帰りたくないけど今のでちょっと帰りたくなったなァ」
    「その気持ちは分からんでもないっすね。帰りたくはないけど……」
    「抱きしめたりキスしたりしたくなっても無理だし……」
    「いや、禁止はされてないんじゃないっすか?」
    「そりゃそうだけどさ……」
     記念花火のコーナーに入り、有名なウエディング・ソングとともに地元の人間が応募したと思しき「わたしと結婚してくれてありがとう」というメッセージか紹介され、ピンクに彩られた花火が打ち上がる。ドン、と大きな音がする。燐音くんの目を見つめる。燐音くんがそれに気がついて、またこちらを見つめている。瞳には打ち上がる花火の煌めきが映り込んで、吸い込まれそう。ドラマのワンシーンみたいだと思ったけれど、これは紛れもなく夢のような現実で、目の前にいるのは役者でもなんでもなく、間違いなく僕の好きな子。
     ……どうしよう、ちょっと迷っていたら、燐音くんが僕のずっとかぶっていた帽子を外した。帽子で周りから口元を隠しながら、燐音くんの顔が近づいてくる。僕は目を閉じた。花火が見れない時間帯は、それを想像した。
    「……慣れないことはするもんじゃねェな」
     照れを隠すように、燐音くんは残りのビールをあおった。僕は一瞬触れた唇の感触を確かめてから、ラムネを飲み干して笑った。我に帰った僕たちの耳には、懐かしい演歌と一緒に「今年で米寿を迎えるお爺ちゃんにこの花火を贈ります、孫一同より」というメッセージが読み上げられる声が届いた。
    「なはは。燐音くん、人前でするの嫌ですもんね」
    「だってそりゃ……。ひとに見せるもんでもないっしょ。自慢したいわけでもないんだし」
    「え〜、自慢したくないんすか? 僕の恋人はお料理がこんなに上手で素直で優しくてかっこよくて最高の男ですって」
    「自己評価めちゃくちゃ高いなァ、否定はしないしそこの自慢はしたいけどさァ、そうじゃねェじゃん……。うまく言えないけど。酔ってンのかなァ、俺っち」
    「冗談っすよ。あと酔ってるんだと思いますよ〜。お酒にも、花火にも」
    「もうしない……」
    「貴重な経験でしたね。それでもしたいって思ってくれたの、うれしかったっす。ホテル戻ったらいっぱいお返ししてあげる」
    「いや何の……」
    「言わなきゃわかんない?」
    「おめェも酔ってンじゃねェの……」
    「なはは、そうかも」
     ビール買ってくるわ、そう言って燐音くんは僕の頭に帽子を戻した。僕にもジュース、というと、燐音くんは黙って僕に親指を立てた。そして僕はひとりになった。ひとりになった途端、今度は「娘の20歳を祝います。両親より」というメッセージが流れた。お父さんもお母さんも、しばらく会えてないけれど、元気にしているだろうか。たぶんこんな暑い海辺には、あのひとたちは来られない。僕が、僕の意志で来たから見られた景色なんだなと思いながら焼きとうもろこしを齧った。
    「ただいま」
    「おかえり……なんすかそのうす焼き」
     燐音くんの持ち物がやたら多い。燐音くんのビールと、僕のジュースと、追加の唐揚げと、うす焼き。
    「おう、ビールの屋台のマダムが俺っちの顔がえらい色男だって言って押し付けられちまった。食うか?」
     いやあ色男は罪だなァ〜なんて言いながら、燐音くんは僕の隣にドカっと座ってキリンレモンを差し出してきた。燐音くんの顔でもらったんだから燐音くんが食べたらいいじゃないすか、と僕は諭した。
    「いいんだったら食うけどよォ。この先なんらかのかたちで粉物食えなくなったらてめェは今日のことを一生後悔するかもなァ?」
    「え、あ、そんな窮地に立たされることあるんすかねえ! ひとくちちょうだい……」
    「きゃはは。素直でよろしい。あーん」
     燐音くんのくだらない予言は、予想だにしない形で当たることになるとは、このときの僕たちは思いもしない。
    「つうか、俺っちこれはじめて見たんだけど、よくうす焼きって分かったなァ。岩手のやつなんだって? そのマダムが盛岡出身らしくてよォ」
    「東北ですし、あってもおかしくはないのかなって」
    「お、博識〜」
    「髪ワシャワシャしないでくださいっ!」
     なにひとつとして不足のない、幸福を閉じ込めたような夜空に花火が打ち上がる。幸福ばかりではないのかもしれないけれど、それでもこの世界はうつくしいのだと、錯覚してしまえるような空と横顔だった。
     少しして、送り花火、というコーナーがはじまった。先程はお祝いの花火だったから明るい歌が多かったんだけど、急にしっとりとした曲がはじまった。アナウンスが流れる。
    『続いてのメッセージを読み上げます。“天国のお母さんへ。今年、お母さんがとおくに旅立ってから節目の十年を迎えます。私もやっと成人して、自分でお金を稼いで、こうして花火に応募ができる年になりました。お母さんみたいな大人になれるように、がんばっていきます。私と弟を産んでくれてありがとう”――〇〇町の△△さんからのご応募でした。天国のお母様もきっと、見ていると思いますよ〜』
     10年ほど前の有名な曲に合わせて、花火が打ち上がる。夜空に花を咲かせたように、色とりどりの光が散りばめられる。うつくしい空だった。枝豆などを摘んでいた燐音くんの手が止まった。ビール缶も手元に置いたまま、動かなくなった。僕は恐る恐る横顔を覗き見た。悲しみ、寂しさ、懐かしさ、愛おしさ、空虚さ、憧れ、郷愁、いろんなものを混ぜ込んで溶かしたような、言葉にたとえようのない横顔。今にも泣き出しそうで、けれど凛然としていて、だけどやっぱりどこか幼さを孕んでいる。僕はなんにも聞けなかった。声をかけることすら、野暮に思えたのだ。
     燐音くんがいま考えていることを、無理に聞き出したくはない。やたらと詮索したくもない。燐音くんには、燐音くんの生きてきた世界があるのだから。僕にだって、僕の生きてきた世界がある。その世界が重なったときにはみ出した部分を、切り落とさずに認めあい、わかりあうことが、僕たちの、僕なりの愛のかたちだと思う。
     なにも言えなくなって、所在なく手を地面に下ろしたら、燐音くんの指先と触れ合った。邪魔しちゃったかな、と思っていたら、燐音くんのほうから僕の手に燐音くんの手を被せて握りしめてきた。その手は少しだけ震えていたような気がした。
     それからいくつもの打上花火を見送って、その間も手は握ったまま、言葉は交わさなかった。言葉がなくたって苦痛じゃない関係は、そうそう築けるものじゃあない。ただ、燐音くんのなにかを失ったような悲しげな横顔が忘れられなかった。
     なにかに悲しみを抱けることは悪いことではないのだ。本当につらいのは、最後の日をひとりで待つことや、忘れられないことじゃなくて、忘れることで、忘れられることだ。燐音くんはそのなにかを、たしかに忘れてはいなかった。凛とした、けれどどこか儚げなその横顔が、花火に照らされて、ただひたすらにきれいだった。
     次に燐音くんが言葉を発したのは、すべてのプログラムが終了してからだった。
    「……写真ぜんぜん撮らなかったなァ」
    「あ、ほんとだ……。ふつうに見入っちゃいましたね」
    「てめェはずっと食ってたろうが」
    「ちゃんと見ながら食べてましたけど!」
    「そう?」
    「燐音くんは僕じゃなくて花火見てたから気づいてなかっただけっす」
    「悪いかよォ」
    「べつに。僕は花火みたいに光れるわけじゃないっすから、適材適所っすよ」
    「拗ねるなってば〜! 俺っちには世界でお前だけだって……」
     燐音くんはそう言って僕の腕に絡まってきた。からかっているようで、甘えているようで、ひとり残された猫が飼い主の帰りを待っていたときのようで、隠した本音に僕は触れられそうで触れられない。人肌が恋しい、そんなときもある。何も聞かないことだって、正しいはずだと、僕はときどき考える。
     帰ろうと出口から駐車場に向かうと、長蛇の列が出来ていた。流れに乗って歩いてはいるけれど、なかなか進んでいかない。
    「列、長……。みんな駐車場っすかね?」
    「だろうなァ」
    「終電終わっちゃったね……が通用しませんね」
    「いいっしょ。夜もすがらデートってのも」
    「……燐音くんって『デート』って言うの好きですよね」
    「いやいやいや、おめェがよく言ってっから……」
    「マジっすか!?」
    「言ってる言ってる。書き出し読んでこい」
    「そ、そうっすかね……なんか恥ずかしい」
    「好きだけど、俺っちは。ニキに言われる『デート』って、響きがなんかいい」
    「変な性癖っすね」
    「変か? まあいいや、なんか俺っちのことちゃんと好きっぽいな〜って思えるし、それを当たり前のようにさらっと言ってのけるからボーナスポイント」
    「勝手に加点されてたし。他になんて言えばいいんすか〜、好きな子とお出かけすることを」
    「いや、満点っしょ」
    「満点なんすか」
    「さっきからダメなんて一言も言ってねえんだよなァ」
    「だって目が揶揄ってるもん……」
    「本当本当! 俺っちに免じて信じて〜」
    「なんの特権で!?」
     口喧嘩をほどほどに駐車場までの長い道をやり過ごした。車に乗って見届けたら好きな子とお別れ、なんてこともない。好きな子との今日がまた続いてゆくことを嬉しく思ったし、来年もまた同じように笑っていたいな、また綺麗な花火を見に来たいな、と思いながら燐音くんとくだらない話をし続けた。その間に燐音くんは3回僕のことが好きって言ったし、僕も同じくらいそう言い返した。
     やっと駐車場に着いて、昼間に借りた車に再度乗り込んで、ホテルに向けて夜道を走らせた。ラジオをかけると、『若者のすべて』が流れていて、思わず口ずさんでしまう。燐音くんはまた少しどこか上の空で、口数が少なかった。運命なんて、便利なもの。寝ててもいいよ、と言ったけど、燐音くんは眠っていることもなかった。
     そういえば、いつもキスをする前、先に目を閉じた燐音くんの瞼をじっと見つめてしまう。そこには星がある。目を開けているときには見えない、燐音くんの瞼の黒子。おそらく僕だけが把握している燐音くんの秘密。そしてそれを長く見つめることができるのは、燐音くんとともに眠り、口付けをかわす間柄の僕くらいなものだろう。
     今日もホテルに戻ってきて、ようやくふたりきりになれたことや、部屋で既に敷かれた布団にはしゃぎながら、荷物を畳に乱暴に置いて、堰を切ったようにお互いがお互いの肩に手を伸ばしたとき、僕はまじまじと瞼を眺めて燐音くんに怒られた。
    「……ンだよ、お返しまだ?」
    「なはは、すいませ〜ん」
     燐音くんに拗ねられて、謝りながら燐音くんの頬に手を添えて唇を重ねた。燐音くんが酔っているのか、寂しさから抜け出せていないのか、僕の輪郭がぼやけないように、縋るような手で僕の肩を握り続けていた。今更どこにも行かないし、まだ食べたいものも行きたい場所もあんたと話したいこともたくさんあるから、まだまだ生きる予定だし。それを願うように、何度も角度を変えて口づけを交わした。そして目が合って、僕は思い切り燐音くんに抱きしめられる。この酔っ払いが。
     それから、ふたりで大浴場に行って、いい感じに温まりつつ今日の移動の汗を流して、浴場のとなりの休憩所で牛乳を買って飲んだ。それはそれは美味しかった。そして部屋に戻って、持ってきた避妊具は結局ひとつだけ使った。顔が見たくて、向かい合って身体を預けあって、融かすように。
    「……ね、燐音くん」
    「ん?」
     事を終え、浴衣を直して、同じく隣で息を整えながら僕の隣で横たわっている燐音くんの腰を撫でながら話しかける。燐音くんは声をがんばって我慢したら少し喉が変になったらしく、ちょっと掠れた声で返事をしてくれた。
    「来年もまた来ましょうね」
    「お、気に入ったの?」
    「うん……。まあ、どこでもいいんすけど。またこういうところ一緒に来たいなって」
    「どうしたニキきゅん、今日やけに素直じゃん。酔ってンの?」
    「僕ジュースと牛乳しか飲んでませんし、ひとの本音をアルコールのせいにするの酷くないっすか? 怒った、もう言わない……」
    「え〜、あと百回言って!」
    「それはそれでどうなんすか、あと百年生きるおつもりで?」
    「意外といけそうじゃね? 俺っちが血筋の歴史を変えてみせるっしょ」
    「そっすか、がんばって〜」
    「塩対応? おめェも百年生きるンだよ」
    「え〜、百年は自信ないっす。きっと栄養失調で途中でリタイアっすよ」
    「そのぶん食えばいいっしょ? 俺っちが食わせてやるから安心しな」
     燐音くんは温度調節の下手な猫のように僕の腹部に抱きついてきた。僕は燐音くんの顎の下や首のあたりをわしゃわしゃと撫でた。燐音くんは満更でもない顔をしていた。
     波はこの星が生まれた時から今まで、絶えず寄せて返してきた。これからだってきっとそうだ。時々荒れたりすることはあっても、止まることは決してない。波が波である限り、止まらず、ずっとそうして揺蕩うもの。終わりのないもの。僕たちだってそうでありたい。ただ好きな子の隣にいる。そこに特別ドラマチックなことが起こらなくたっていい。もちろん、あってもいいけど。ドラマチックなことなんてなくたって、あんたのことを見捨てない、なんて言葉が溢れてしまうほど。
    「そろそろ寝ましょ。明日、お馬さんの温泉に行くんでしょう?」
    「そうそう、競走馬のリラクゼーション施設」
    「マジであるんすか? 世の中にはいろんなものがあるんすねえ……」
    「そう。だから見て回れるもんは見てまわりたいっしょ? 人生いちどきりだからなァ」
    「そっすね。この世の贄を食べ尽くすまで僕は死にません」
    「悪役の台詞すぎるンだよ、それ」
     寝るかあ、と言った燐音くんは僕のお腹から離れて、自分の布団に戻った。僕は立ち上がって灯を消した。そういえば、大事なことを思い出して、僕は布団には戻らずに窓辺に寄った。
    「部屋から海見えるって言われてたの、忘れてました。夜の海も見てみたかった」
    「お、そうだったそうだった」
     自分の布団に戻ったはずの燐音くんも、のそのそと起き上がってくる。窓を開けると、少しひんやりとした海風が頬に当たった。
    「……海っすね」
    「海だなァ……」
    「たまや〜」
    「それは終わった」
    「アロハ〜」
    「チキルーム」
    「ターキーレッグ食べたいっすねえ。ユカタンのチキングリルも……。ああお腹空いてきた、ちょっとおやつ持ってきます」
    「転ぶなよ」
    「ひとを子どもみたいに……燐音くんはなんか食べます?」
    「いや、要らない。あ〜、やっぱ水ちょうだい。冷蔵庫に入ってる」
    「了解っす〜うわっ!」
     燐音くんに心配されたのも束の間、僕は布団と布団の間の隙間にちょうど足を踏み入れてバランスを崩して転んだ。部屋に鈍い音が響き渡ったあと、燐音くんの笑い声が余韻のように暗闇に響いた。
    「ぎゃはは。ばーかばーか」
    「笑いすぎっすよ!もう!」
    「痛っ、ペットボトルだって時に凶器だろうが!」
    「水飲みたいっつったのはあんたでしょうが!」
     冷蔵庫から取り出したエビアンのペットボトルを燐音くんに向かって投げたら燐音くんの脛にクリティカルヒットした。暗闇で狙ったにしては上等だろう。僕は座って買い込んだカロリーメイトを貪っていると、燐音くんが音もなく近づいてきていたことに気がつかなかった。
    「ブチ転がすぞこの野郎♡」
     燐音くんは暗殺者のように僕にそっと近づき、僕の首に腕をかけた。僕は思わず食べかけのカロリーメイトを取り落とした。
    「怖っ! 忍者の末裔っすか!?」
    「足音消さねェと獲物に逃げられちまうからなァ」
     耳元で燐音くんが囁く。死ぬ、と本能的に思った。このひとは殺意のこもった声音で話す演技が非常に上手い。
    「痛たたたたギブギブ! すいませんでした!」
    「おいデカい声出すな、隣室に迷惑だろうが」
    「燐音くんだってさっき僕のことめっちゃ笑ったじゃないすか!」
    「あんまりにも楽しくてつい笑みがこぼれちまったンだよなァ」
     僕を煽るために燐音くんから発せられた言葉だったけれど、その笑顔は本当に『僕と話していると楽しい』という顔で、憎むに憎めなくなってしまった。あざといなあ、と思いながら。
    「むぐ……。食べ終わったんで歯磨きしてきます。そしたらほんとに寝ましょ。明日そのお馬さんのところと、あと展望台でしたっけ。昼過ぎには車返し…て、夕方のバス」
    「うん。寝坊しないように」
    「どうせ僕はお腹すいてすぐ起きますし、あんたはラジオ体操みたいな時間に起きるじゃないっすか」
    「お? 人のことおじいちゃんだと思ってンのか?」
    「いや小学生だと思ってます……」
    「小学生に手え出す悪い大人だ」
    「風評被害すぎません!?」
    「ま、秘密にしててあげっから存分に手ェ出してくれよォ」
    「言い方……」
     燐音くんのけらけら笑い声を聞き流しながら、僕は洗面所に、燐音くんは布団に向かった。歯磨きを終えると、燐音くんは僕のと定めた布団で眠りこけていた。はあ、とため息をついて、燐音くんの瞼にある黒子を確認してから、燐音くんに寄り添うように眠った。もうアパートの狭い一人用のベッドじゃなくて、ひとりぶんずつの布団が用意されているにもかかわらず、今日もわざわざ狭苦しく一緒に眠ってしまうのが、滑稽ながら幸福かもしれない。燐音くんの匂いがする。
     こうしているのも、僕が燐音くんをひとりにはできないと思ってしまっただけなんだけど。こうして燐音くんに寄り添って目を閉じていても尚、今日のあの横顔が目に浮かぶ。あんたが途切れた夢の続きを取り戻したくなったなら、僕はいなくならないから、あんたもいなくならないでほしい。あんたが僕にくれているものがありふれた愛だとしても、あんたが生きてきた道のりはたったひとつだって、僕はちゃんとわかっているつもりだ。そして、僕がこの先生きていく道もひとつで、その道はきっと狭くて、せいぜいふたりで並んで歩くしかなくて、そのなかで並んで歩きたいひとが燐音くんなんだって、いつかうまく伝えられますように。そう祈りながら、僕は寝入ったのだった。
     翌朝。燐音くんは僕にひっつかれて眠っていたことに驚いていた。もともと僕の布団で寝た自分が悪いのに。起き抜けに、まだ寝転がっている燐音くんが起きれるように、いつものようにキスをした瞬間に僕のお腹が鳴って、燐音くんが大笑いしていた。僕は色気も食い気も大事にするタイプなだけだ。
     旅館で提供される朝ごはんはなんだろう。僕も燐音くんも中身を知らない食べ放題の朝食、こんなにテンション上がるとは思わなかった。僕は一目散に着替えて朝食の会場へ向かった。燐音くんも眠たそうにあとからひょこひょこついてきた。少し立ち止まって振り返り、おいで、と言うと燐音くんの歩行スピードがほんの少しだけ上がる。この後は展望台に行こう。ちょっとだけ浜辺も歩きたい。お土産も買って、ラーメンも食べて帰ろう。帰ったら、あのめずらしい茄子を探して、あんたに麻婆茄子を食べさせたい。燐音くんとやりたいことばっかりだな、と自分で思って笑えてきた。
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