その背中のあたたかさを 外が暗くなったな、とふと思い時計を見やると、意外とそこまで遅い時間ではなかった。このところはずっとそれくらいの日暮れなのに、毎日新鮮にまだそんなもんか、と思ってしまう。そしてタイミングよく室内に機械音がピーと響き渡る。炬燵で本を読んでいた俺の隣で同じくお菓子をつまみながらテレビを見ていたニキが、音の発生源を注視する。
「あちゃ、暖房もお腹ぺこぺこっすか」
「入れてくるよ」
俺が先に本を閉じて、暖房から灯油タンクを取り出した。油の匂いがふんわりと漂う。
「おお、ありがとうございます。身体冷やさないようにね」
「うん」
腹をすかせた赤子のようにそれを抱きかかえながら、俺はリビングを出て玄関に向かった。暖房の入らない玄関は一気に外かと勘違いするほどに冷えている。冷蔵庫に入れられなかったビール缶も玄関付近に置いておくとそれなりに冷えてくれるのは、この季節の数少ない利点だ。
コンビニの駐車場にいる非行少年のようにどっかりとポリタンクの前にしゃがみ込み、灯油タンクの蓋をくるくると回して開け、灯油ポンプの吐出パイプをポリタンクから出して素早くタンクに挿す。それでも灯油がすこし垂れて床にこぼれてしまった。灯油の匂いがまたさらに鼻を擦った。手の表面はあっという間に冷たくなり始めている。
カーディガンのひとつでも羽織ってくりゃあよかったと思い始めたが、既に手にも少し灯油の匂いがついてしまったから、この手で衣類を触るのも嫌だなと本能的に感じてこのまま給油を続行することにする。目盛を睨みつけながら、赤のポンプ部分をひたすら握っては離し握っては離し、の繰り返し。だんだんと音を立ててタンクに灯油が溜まっていく。聞こえてくる音から渇いた喉を潤す想像をしてしまい、俺もビール飲みたいな、と思い始める。暖房機にも給油がないと動けないように、俺にだって給油は必要なのだ。今日は朝から雪かきをがんばったし。でも朝からビールなんて飲むわけにはいかないから、ここまで心の中でアラームを鳴らしながら過ごした。
どうでもいいことを考えている間に、給油メモリは間もなく満タンを示すところまで来ていた。そろそろ終わるか、と思ってパイプを灯油タンクから取り出そうとしていると、玄関の冷えや埃っぽさ、灯油の匂いなどが複合的に起因して鼻がむず痒くなった。次の瞬間には思いっきりくしゃみが出た。そして、くしゃみの反動でポンプを持つ手が震えてしまい、また数滴の灯油が床にこぼれた。やっべ、と独り言を言いながら、パイプをポリタンクに戻した。
「大丈夫っすか? ってか、座り方こわ」
さらに間髪入れずにニキが心配そうな顔で玄関に出てきた。俺はニキの指摘のとおりの治安の座り方のままニキのほうを振り返る。
「ちょっとこぼした」
「でっかいくしゃみのほうっすよ。冷やさないようにねって言ったのに……」
「さあ。埃でも入ったんじゃねェの、たぶん」
「カーディガン着ます?」
「もう終わるからいいや〜」
心配してくれたことにそれなりに喜びを感じているのを隠しながら、俺は灯油タンクのキャップをきつく閉めて、乳飲み子のように抱えた。
「……床、拭いたほういいかなァ」
「ぽたぽたぐらいだったらいいんじゃないっすか? 放火されないことを祈って」
「なんでこわいこと言うの?」
「やだなあ、冗談っすよお。燐音くんが喫煙者ならまた話変わってくるっすけど、玄関に火の元は来ないでしょうし。またくしゃみ出ちゃいますよ、ほら」
ニキは俺を急かして部屋に入れた。そこそこ冷えた玄関とは打って変わって、ふわっと暖気を皮膚で感じ取る。タンクをひっくり返して暖房に戻すと、灯油が機内に染みていく音がした。
「いい飲みっぷりっすね。燐音くんみたい」
「俺っちも給油してェなァ……。朝から身体張って疲れてンだよなァ」
台所で手を洗いながらそう答えると、ニキが普通に引いた顔で俺のことを見てきた。
「えっ、人間やめるんすか? いよいよヤバいひとじゃないっすか、灯油なんて飲んだら。僕、流石にもう付き合いきれないっすよ」
「ちげえよ馬鹿。麦とホップで出来てる人間用の燃料」
「そういうことっすか。そうっすね……。もう6時なりますし、鍋もあと煮るだけにしてあるんで、飲みはじめちゃってもいいっすよ。がんばったんで、ご褒美」
「マジで? そりゃどうも♪」
そう言ってニキも俺の隣のコンロまで戻ってきた。俺は冷え切った水道水で洗った手をタオルで拭いて、冷えたままの手をニキの頸に触れさせた。
「ひっ!? やめろぉっ!」
ニキは反射で俺の背中を思い切り叩いた。腕力がそれなりにあるニキの殴打はそこそこ強く、思わず俺は少し咳き込む。
「げほげほっ。痛えンだよ馬鹿力……。さっきの優しさは何、偽善?」
「燐音くんのこと、甘やかさないっすからね。ダメなことはちゃんとダメって言わないと、燐音くんにも伝わらないでしょう」
「言う前に振るっちまってるンだよなァ、拳を」
「だれに似たんでしょうね、本当」
「ふうん、ひとのせいにするんだ」
「当たり前じゃないっすか〜。責任取ってもらいますからね」
「……」
「何ニヤニヤしてんすか、キモい……。しなくていいんすか、給油」
「する〜」
「じゃあコンロとか出して。あとは、給油しながらお利口さんにしててください」
「は〜い」
俺は冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを、棚からガスコンロを取り出して食卓に運んだ。責任かあ、と心の中で呟きながら。ビール缶を開ける前に、鍋を仕込んでいるニキの横顔を少し覗き見た。もちろん、答えなど書いてあるはずもないんだけど。
*
渇きという最高の調味をされたビールに、ニキが仕込んだ本当に美味しいみぞれ鍋で胃も心もかなり満たされ、風呂で身体も温めた万全の夜更け。ニキは俺をベッドに座らせて自分も隣に腰掛け、俺の肩を掴んではため息を吐いていた。
「う〜ん……」
「何ひとのこと押さえつけながらメランコリってンだ」
「夕方くしゃみしてたひとを果たして脱がすべきなのかどうか……」
ニキは心底悩んでいる表情でそんなことを言ってきた。中身が俺の頭に入ってくるのに少し時間を要した。突然降り注ぐ容量オーバーの愛情に耐えられるほど、俺はまだ強くはなかった。
「……別にここ寒くも埃っぽくも油っぽくもないし大丈夫じゃねェの。さっき1回くしゃみしただけだし。元気だよ、今日も」
「でも油断は禁物っすよ。あんたわりと意味わからんタイミングで風邪ひきますし、暖房つけてるとはいえあったかくもないんで」
「つうか、いきなりなんなのニキきゅん。昨日も一昨日も普通にしたっしょ」
「昨日も一昨日もくしゃみしてなかったっすもん……」
「それはニキだってそうっしょ。まあ、ニキが抵抗あるンだったら俺っちは自分で脱ぐから気にしなくていいよ」
「ひとの心配をなんだと思ってるんすか。それじゃ意味ないっす」
「うーん……。ニキが今日はしたくないっつうんだったら俺っちは仕方なくこのまま寝るけど。ちょっと残念ではあるけど。準備もしたのに……。そうじゃねェんだったらまあ、何も心配しなくていいよ」
本音を言うと、いまは少しも寒くない。むしろ、ふいに与えられた無自覚の愛に反応して、あちこち汗ばんできているくらいだ。ニキは俺の肩を掴んだまま、俺の顔をじっと見た。
「……しなかったら残念?」
「残念だなァ」
「本当に大丈夫? 熱もないっすか?」
ニキは昼間俺の背中を勢いよく叩いた同じ左手を、今度は俺の額に当ててきた。
「大丈夫そうっすね」
「だから言ってンじゃん。おめェは過保護と乱暴が両極端なンだよ」
「心当たりないっすよ〜。いちおう着たまましますけど、寒かったら言ってね」
唇を重ねるとふいに鼻と鼻が少し触れて、先端の冷たさになんとなくふたりで笑い合った。寝転んで、背中側から俺の衣服の中に手を器用に入れて触ってくれるのが、ふつうにしてくれてるときより気恥ずかしくて声も上手く出せなかった。寒さとかどうでもよくなってしまった。声を抑えるのがやっとで、窓の外を見る余裕なんて少しもなかったから、明日の朝にまた肉体労働が待っていることに気づくことも当然できなかった。
*
翌朝。まだ日の昇らない時間にも関わらず、また室温の異常な低さで目が覚める。布団から出ていた鼻先がひんやりとしているのが触らずともわかる。やだなあ、と心の中で思った。空気が澄んでいると感じられるのはいいことだけれど、それ以外の利点がこの寒さにはあんまりない。ニキは「食べ物が傷みにくくていい」と言っていたけれど、俺は食べ物じゃないから、冷蔵庫みたいな室温なんてすこしもうれしくない。ふう、と息を吐くとぼんやりと息が白くなる。それがまた寒さを強調させるのだ。室内っしょ、といつも思う。朝に自動で暖房が入るようにタイマーをセットしておくことも出来なくはないが、恋人らしいことをしっかりと行ってしまえば、うだうだスリープタイマーだけセットしてしまって、朝のことまで気が回らずに眠りに落ちてしまう。
それにしても、日の昇らない時間ではあるものの想定より外がなんとなく明るい気がした。明るさ、というよりは景色の白色の度合いでそう見えているようで、なんとなく嫌な予感がした。そういえば夜中に除雪車が来たような来ないような。昨晩だってしっかりすることしてからそのまま熟睡したからあんまり覚えてないし。カーテンを開けて外の様子を確かめて、暖房を入れてからまた二度寝しようと思って布団から出ようとした矢先に邪魔が入る。身体がずん、とくくりつけられたように重く動かないのだ。
それの正体は俺の背中から腰に回された恋人の両腕だ。ニキは世の中の汚れたものをひとつも知らないかのような顔で先ほどまでの俺と同じように熟睡している。そして、昨日俺の背中を思い切り叩いたその腕力をもって、しっかりと俺の背中と腰を抱き締めている。昨日抱かれたときと同じ体勢のまま寝たのだというのがわかる。そして、そのホールドの腕力が経験としてわかるだけに困った。寝ぼけた恋人が離してくれないという、ある種の幸福の象徴のようなシーンだが、この腕力となると最早それを超えてホラーゲームのワンシーンですらある。そうなるとフラグ的に死ぬんだけど、俺。
すこし悩んだ俺は、片腕ずつ解いてゆくことにした。そっと、しかし力をこめてニキの腕を掴んで外側に広げようとしたけれど、俺の予感は的中。動かない。だんだん自分の気遣いが馬鹿らしくなってくると同時に、とある危機感も覚え始める。
「……トイレ行きてえ」
ちょっと考えて思った。俺とニキはお互いを甘やかして優しくして気遣うばかりの関係性じゃないはずだと。いろんなもので自分を縛ってしまってきた俺たちにとって、愛はお互いを結んだり繋いだりするものではあっても縛るものであってはいけないと、誓ったはずだと。お互いに、お互いの前では何も気にせず足を伸ばして生きていけるような愛し方をしようと決めたはずだと。そして俺は決断した。一瞬起きていただこうと。寒いのは別にいいんだけどトイレに行きたいのは少しも良くない。
確か寝ている人間の睫毛を擦ると大体の奴は起きると聞いたことがある。現にニキに何回かそれで起こされたことがあるし。「やっと起きたっす。にしてもまつ毛意外と長いっすねえ〜」みたいなこと言われながら。俺はやったことないから試すなら今、と思ったものの背後にひっついている人間の瞼を触るなど、流石の俺でも無理があって断念してしまった。次の手を打つべく俺は枕元のスマートフォンを軽く操作して動画サイトを開いて、『食べ物 音』で検索した。適当に目に入った、焼肉を焼いている音が流れる動画の再生ボタンを押す。すぐに背後から動きを感じる。期待以上の即効性だ。
「……今月は29日がない!?どうしましょう!?」
そういう夢を見ていたのか、はたまた俺の流した音声がレム睡眠に影響したのかわからないが――ニキは妙な寝言と共に飛び起きたと思えば、慌てた勢いで俺の腹部をそのまま思い切り抱き締め付けた。
「痛ってェなァ! 2月9日があンだろ!」
「へ!? 夢……? 猫……」
「ああもう離せってば、俺っちをトイレに行かせろ!」
「はい? べつに勝手に行けばいいじゃないすか、こどもじゃないんだし
「おめェの腕が邪魔なンだよ!」
「腕? あ、ほんとだ。すんません無意識……」
ようやく解放された俺は、先程腹部に力を入れられたことで少し駆け足でトイレに行く羽目になった。慌ててスリッパも履かずにベッドから出ると、空気と床の冷たさに思わず「寒っ」と声が出た。
戻ってくると、ニキが俺のスペースを開けてまだ微睡んでいた。昨日灯油を足した暖房のスイッチを入れて、温まるまでのためにニキの隣に潜り込む。自分のだからニキのだかわからなくなった体温で温められた布団が暖かい。気が落ち着けば悪戯心が芽生え始めてしまい、少し歩いただけでしっかり冷え込んだ爪先をニキのどちらかの足の脛にぴたりとくっつけてみる。んぎゃっ、と隣から声が聞こえてきて思わず笑った。
「一回起きてほしかっただけだからまだ寝てていいよ、ぜんぜん早いし。つうかなんの夢?」
「ん〜、燐音くんがなんか猫になっちゃったんすけど、元に戻すには肉の日限定のなんかを買ってきてって言われて、曜日を確認しようとしてカレンダー見たら2月は28日までで、びっくりした夢……?」
「こえ〜よ」
「いや〜よかったっす、9日に行けばいいんすね」
「俺っちが元に戻ってよかったって話じゃねェのかよ」
「ああ、それもそっすね。あんなに口先から生まれてる燐音くんがニャアしか言わなくなって、マジでビビったんすよね。あとはあんまり覚えてないっすけど……。夢ってけっこう忘れちゃうし」
「……だなァ」
さっきまで背中を向けていた相手と、今度は向かい合ってうつらうつらしている。やがてニキがうとうとし始める。それを見ていたら俺もまた眠くなってくる。二度寝の幸福は食欲や性欲では補えない独自のものだ。眠る、というひとりでもじゅうぶん味わえるはずの満足をこうして共有できるのは、決して当たり前のことじゃない。だからこういう地続きのものは、大切にしたいなと思うけれど、貴重だと煽て続けるのも違うんだと思うし。むずかしい気がするけど、意外と単純なことでもある気もする。むずかしく考えることではないよな、と考えたのを最後に俺もふたたび恋人のとなりで意識を手放した。