隣町の河川敷で花火大会があるらしい、と僕が職場のひとに聞いたのを燐音くんに教えたときは燐音くんは間伸びした返事しかしてこなくって、あんまり乗り気じゃなさそうだった。まあ隣町だと見に行くのも帰りも大変だし、この間は遠出して港町でちゃんと泊まりがけで花火見たし、別にいいんだろうな、と僕は思った。
しかし開催時間が少し近づいてきて、燐音くんはふいに立ち上がった。
「んじゃ、行きますか」
「え、行くんすか」
「嫌?」
「嫌じゃないっすけど、なんか燐音くん乗り気じゃなさそうだったんで、どういう風の吹き回しかなって。行くならぜんぜん行くっすよ」
「んー、現地まで行くのは微妙に面倒臭え距離だから迷ってたンだけどよォ……。ニキが前に言ってたっしょ、昔はベランダからも見えた、って」
「あれは今日より近場のとこっすよ。今日のは流石にタワマン増えなくてもこのアパートの2階からじゃ無理っす」
「でも会場の場所的にうまく狙えばどっかから見えンじゃねェかなって思って、ひとつ思いついたンだよな。どうよ、見れたら二人っきりのドキドキ花火鑑賞。見れなくてもドキドキ肝試し。乗るっしょ?」
燐音くんは得意げにそう言って、僕に親指を突き立てながらウィンクしてきた。僕のほうがあんまり乗り気になれそうになかったけど、特別断る理由もないというのも事実ではあった。前者であれば、の話だけど。
*
「よくこんな時間にこんなとこ来ようとか思ったっすよね!?ガチの肝試しじゃないっすか……!」
そして今に至る。僕は燐音くんに連れられて真っ暗な山道を歩いている。スマートフォンの懐中電灯機能で足元を照らしていると虫が集まってくる。蜂の僕らにとっては仲間かもしれないけれど、今の僕らは2人足りないしただの年頃の男だから虫さんには邪魔をしないでいただきたい。
おそらく僕らが向かっているのは、森というか林というか山というか丘というか。頂上には何かの史跡があるけれど観光地としてそこまでしっかりと整備されているわけではなくて、確かに穴場といえば穴場。手軽なハイキングコースと言えば聞こえはいいし、実際ちょっとこうして自然を味わいたいみたいなひとが定期的に散歩に来ていることもあるけれど、そもそも何の史跡かよくわからないのもあって、春の桜の季節と秋の紅葉の季節以外はあんまり人が集まっているイメージはない。予想通り、ここまですれ違った人はいない。時間も時間だし。
「やっぱり星がよく見えるなァ、ここ。今日か明日ってペルセウス座流星群っしょ?花火終わったらここでそのまま見るのもアリじゃね?」
「今もう流星群流れてるんすか?」
「いちばんよく見えるのは日付変わるころだよ」
「花火終わるの20時過ぎっすよ!? いるならあんただけ残っててほしいっす。僕はお腹空くんで帰るっす」
「すっかり鈍っちまったってのかァ。食える雑草に詳しいンだろォ、見渡してみろよこの生い茂る雑草」
「よく見えないっすもん。緊急事態でもあるまいし、帰ったら何かしらふつうの食べ物あるし帰れるなら帰れるに越したことないっす。燐音くんはなんでそんなに暗闇でもよく見えるんすか、もしかして猫?」
「故郷の夜もこんなもんだからなァ」
「え〜、怖……。置いてかないでくださいねマジで」
僕はそう言って、ずんずん進んでいく燐音くんの左手首を自分の右手で握った。燐音くんは当たり前のようにそれを僕と燐音くんの掌同士が重なるように握り直してくれる。それをさらに僕はお互いの指の間に指が絡まるように握り直す。最初からそうすればよかった。ここまでこう暗ければ、僕らも外で堂々と手を繋いでいられるというもの。暗くなくても繋いでいいんだろうけれど、いちおう職業柄。顔が見えないし周りも風と虫の音しかしないから、燐音くんのいつもより落ち着いた声がやけに耳に残る。
「よくこんなとこ知ってたっすね、小学校の遠足とかでもあんま来ないっすよ」
「ニキがなんか栗拾うっつったとき来たろ」
「覚えてないけど僕ならやりそうっすよね」
「覚えてねえのかよ、つまんね」
「んじゃ今年は拾いましょう、モンブランにするっす」
「よっしゃ」
そんな会話を繰り広げながらふと時計を見ると、時刻はすでに花火の開始まで5分ほどに迫っていた。
「もう始まっちゃうっすよ」
「プログラムがっしょ。たぶん最初はなんかアナウンスとか流れて打ち上がるのは数分後だからまだいける。それにもう着くし。このへんがベスポジだと思うけどなァ」
燐音くんの歩く速度が少し落ちるのに合わせて僕も足を遅める。そこは小高い林の頂上ではなく、その少し下にある広場みたいになっているところだった。確かにこのあたりは街を見渡すことができる。僕らがいる林の真っ暗闇に比べて、見渡した街は灯りがともってキラキラと輝いている。燐音くんが僕の手を握ったままあたりをきょろきょろすると、ドン、と音が聞こえた。
「あれ始まってる!?」
「音がしたっつうことはもう光ったンだなァ。いまの時間で月があの高さに出てるから会場の方角はたぶんあっちだと思うけど……」
燐音くんが指差す方向を凝視する。ドキドキ花火鑑賞になるか、ドキドキ肝試しになるかがこの一瞬で決まる。すると、指差した方向の木の影の間から見える空に、光の粒がすっと昇っていくのが見えた。
「おお、見えたっす」
「ビンゴ」
「……ちっちゃ」
「うるせえ」
「でも意外と見えるもんっすね。たまや〜」
「だろォ?」
現地では大きく花開いているであろう花火の光は、僕らの目には手のひらサイズになって飛び込んできた。周りにも誰もいなくて、僕たちだけで世界を二人占めしているみたいな優越感がある。なるほど、と思った。
「かわいいっすね」
「え、何が」
「花火。ちっちゃくて」
「花火まで口説き始めた」
「屁理屈すぎっすよ流石に」
「俺っちのほうがかわいいっしょ」
「ちっちゃくないからちょっと……痛い痛い痛いっ!手ぇ潰れるっす!」
燐音くんは無言で僕の手を握る力をぎゅっと強めた。攻撃の規模はちっちゃいなとは思った。もっと力を込められる余地もあるだろうし、力加減されてることには僕は気がついている。ずっと前から。
「せっかくふたりきりでいいもの見てるんすから、仲良くしましょ」
「悪くないっしょ、これも」
「そっすね。せっかくだし写真撮っとこうかな」
僕が左手でスマートフォンをがさごそしていると、燐音くんが空気を読んで繋いだ右手を離してくれた。むしろ道中に何気なく繋いだ手をここまで離さなかったことをふいに意識しては少しだけ恥ずかしくなる。燐音くん相手に今更恥ずかしがっても仕方ないのに。
「あ、今の綺麗だったっす。青いの」
「そういうの撮っとけよ」
「流石にこうちっちゃいとなかなか上手く撮れなくて……拡大すると画質落ちるし」
「動画のカメラのほうが性能いいんじゃね?」
「あ、なるほど。動画撮りながらシャッターも切ればいいんすね」
そういう燐音くんは撮らないんだ、というささやかな疑問を抱きながら、動画の録画ボタンを押す。しかしタイミング悪く、なかなか次の花火が上がらない。
「ええ、もう終わりっすか」
「切り替わりのタイミングっしょ。ほら下のほうでちっちゃいのわちゃわちゃやってる」
「え〜、流石に見えないっすよぉ」
「ちゃんと見ろちゃんと。ほら」
燐音くんは僕にだけ聞こえる声で、僕の頭を両手で押さえながら言った。僕はカメラを構えながら燐音くんに言われた方向を見つめ続ける。
「流石にカメラには映んないっすね。またおっきいのきたら撮るっす」
僕は諦めて録画停止ボタンを押した。燐音くんは僕の頭を押さえていた手を僕の肩に回してきた。たぶん会場では音楽に合わせて打ち上げているんだろうけど、僕たちはよく知らない。この花火の正しい姿を知らない。正しさなんてそもそもないのかもしれないけれど。
それから特にそれ以上なにもなく、僕は謎に燐音くんに肩を抱かれながら小さな花火を見続けた。風と虫の音に包まれて他愛もない話をたくさんした。いつも騒がしい僕らが声を落ち着けて話し込むのも珍しかったと思う。やっぱりいつもより燐音くんの声がやけに耳に響いて、しばらく忘れられないかもしれないと思った。あの下で小さくわちゃわちゃいろんな方向に飛び散っていく花火にはちゃんと蜂という名前がついているのだと、燐音くんは僕に真面目に教えてくれた。ひとからしてみれば雑学というか蘊蓄というかだけれど、知識をひけらかしたいわけでもなく、燐音くんはただ僕に聞いてほしかったらしかった。僕もそれを黙って聞いていた。その蜂とかいう花火の、一気に花開いてあちこちバラバラに輝いてパチパチと飛んでいく姿は、確かに僕らにふさわしいかもしれない。
そんな話を聞いたり聞き流したりしながら――あの頃と違って、僕らはふたりでしかいられないわけでもないけれど、それでも時々こうしてふたりきりになるのは、僕はけっこう好きかもしれない。ふたりじゃなくてもいいけど、たまにはふたりきりもいい。
「――故郷に戻ったら、俺っちはまたこんな山ん中で生活するわけだけど」
燐音くんがふいにぽつりぽつりと語り出した。燐音くんに肩を抱かれ耳元で話をされている僕は、比較的見える大きな花火のために少し前からカメラを回していた。それを撮影しながら耳を傾ける。
「そんときたぶん、今日のこと思い出したらちょっと元気になれるわ」
「なはは、なんすかそれ」
「灯りもなんにもなくて道も見えねえし、お先も真っ暗だけどよォ、だからこそニキの声がよく聞こえるし、星や花火が綺麗に見えるんだろうし。実際こうして見てるし。こんなとこにも案外いいとこあんだな、あの頃幸せだったな、って思い出せるかなって」
「……急にそんな寂しいこと言わないでくださいよ、僕のこともう思い出にしちゃうんすか」
「したく無えけど、人生なにがあるかわかんないっしょ……」
燐音くんの僕の肩を抱いている手が、縋るように少し弱々しくなった。花火が打ち上がっては小さく消えてゆく。寂しさのようなものをかき消すように、燐音くんは言葉を紡いでいく。僕はそれにずっと耳を傾けていた。
そのあと燐音くんが僕の頬にキスをしてきたときには、花火に集中するかちゃんと口にするかしてください、と言ったら燐音くんがあからさまに困っていた。仕方ないから僕から直接してあげた。いじらしい夏の虫。それは僕もなんだけど。
僕がバイトで出店を出すから一緒には見られなくて、帰宅してからふたりで細々と手持ち花火をした日。数日あったオフで少し遠出をして港町で見た大きなたくさんの花火と燐音くんの泣きそうな横顔。しょうもない理由で結局ベランダからも見ようともしなかった近場の花火の日。人気のない山中で遠くの小さくなった光をふたりの宝物みたいに大切に眺めた今日。今更ロマンチックに、恋に恋して、みたいな生き方を燐音くんとしようなんて思ってないけれど、こうして振り返れば振り返るだけの思い出がこの夏にもきゅっと詰まっているみたいだ。来年はどんな夏になるんだろう。燐音くんは、どんな夏にしてくれるんだろう。
*
「かゆい……」
一夜明けて、昨晩の内緒話みたいなデートは最終的には虫刺されという形になって僕の首筋に残った。不本意だ。燐音くん以外にも僕の首を狙っていた奴がいるなんて。貴重な血液を持ち逃げしやがって。
結局あのあと――帰宅してから、燐音くんはちかくの公園で流星群を見る気でいたんだけど、花火が終わってからどんどん曇りはじめて、日付を越えるころにはすっかり星は見えなくなってしまった。燐音くんはそれにすっかり落ち込んでいた。やっぱり見れないかなあ、俺っちもっかい外見てくるわ、と言ってアパートを出た燐音くんを待てずに僕は寝入ってしまったらしかった。
いつのまにか帰ってきて隣に寝ていた燐音くんの寝顔を見つめながら僕は首を触る。かゆい。よく見ると燐音くんの肩にも虫刺されと思しき腫れを見つけた。同じ犯人だろうか。むしろ犯虫とでも呼ぶべきだろうか。僕じゃないからね。
枕元に置いているスマートフォンの写真フォルダを開いて、昨日の写真を見返した。やっぱり花火は小さくしか映っていなかった。動画のほうが綺麗に撮れていたかもしれない、と思って適当にひとつ再生すると、画面の中では昨日僕らを心地よく包んでいた自然の音とともに花火の玉が空にのぼっていってはキラキラと花開いており、燐音くんのいうとおり確かに静止画より綺麗だった。すると、小さく「おお〜」と燐音くんの声が入っていた。僕は思わず笑ってしまった。声まで入っちゃう、なんて昨晩はまったく気にしていなかった。
これはもしかして別の動画も怪しいかもしれない、と次の動画を再生してみた。まだ何も聞こえない。動画の中の打ち上がった赤い花火が青い光に切り替わって、綺麗だな、と思った次の瞬間だった。動画の音声に僕は思わず息を呑んだ。
『――故郷に戻ったら、俺っちはまたこんな山ん中で生活するわけだけど。そんときたぶん今日のこと思い出したらちょっと元気になれるわ』
『なんすかそれ』
『灯りもなんにもなくて道も見えねえし、お先も真っ暗だけど、だからこそニキの声がよく聞こえるし、星や花火が綺麗に見えるんだろうし。実際こうして見てるし。こんなとこにもいいとこあんだな、あの頃幸せだったな、って思い出せるかなって』
『そんな寂しいこと言わないでくださいよ、僕のこともう思い出にしちゃうんすか』
『したく無えけど、人生なにがあるかわかんないっしょ……なにが』
動画はここで途切れた。燐音くんの話を聞くことに専念するあまり自分が動画撮影中だというのをすっかり忘れていた僕が慌てて録画停止を押したのがここだったのを思い出した。
あー、びっくりした。耳に残った燐音くんの声が、しばらくどころではなく忘れられなくなってしまった。燐音くんは自分の声が僕の動画に一緒に入ってしまったことに気づいていなかったんだろうか、それとも気づいててわざと話し続けたんだろうか。どちらでもいいけど。
急に全身が熱くなってきた。録音はされず途切れていた言葉のつづきを思い出したからだ。ただ僕の真横で語られた、どんな表情で言われていたかもわからない、僕の耳にだけ残る言葉が。
『なにがあるかわかんねえけど――この先なにがあっても、俺は都会に出てきて、ニキに拾われて、一生かけて幸せにしたいぐらい好きになれたこと、生涯の財産だって、胸張って言えるから。これはマジで確信してる。誇って生きてくっしょ、どこに骨を埋めることになってもさ』
きっとこの先、風の音を聞くたびに思い出してしまうのだ。録音しておくべきだったような、僕だけが知っていればいいし、しなくてよかったような。とにかく、この花火の動画は消せないけれど誰にも見せられない、あの蜂のように一瞬確かにきらめいた僕らだけの秘密。ひとに見せてうっかり聞かれる前に見つけられてよかった、と僕は胸を撫で下ろした。隣で寝ている好きな子の顔をもう一度見た。