譲介くんの素敵なバレンタイン道路脇のベンチに背中を預けて、和久井譲介は息を吐いた。
視線を上げると、爽やかな水色の空を形どるように地面から生える数多の背の高いビル陣。夜勤明けの目に沁みる鮮やかな景色である。
道ゆく人々から聞こえる話声は異国の言語で、大通りを走る車やバイクも母国とは違う勢いがある。
アメリカに住んで半年ほど、驚くことも大分減ったが、少し気を抜くと『ここはロサンゼルス。初めて住む異国の街』という、渡米したての頃の感覚が五感を介して蘇る。
「ンッ」
固く縮こまった肩をほぐすべく、譲介は長い手足を空へ向け、身体を伸ばした。
昨晩から今朝にかけて、長時間の手術があった。緊急性も難易度も高い症例で、気を張る仕事だった。手術自体は明け方には終わったが、術後管理等々している間に昼近い時間になり、退勤時間になった。
譲介には『自分のために留学させてもらっている』という意識があるから、任される仕事があればあるほど謝意が湧く。だから、夜勤からの日勤などは望むところである。しかし、休むのも仕事なのだそうで、譲介の気持ちとは関係なく、長時間の勤務のあとは解放されて街に出されてしまう。そういうところだった。
この街に来て半年になるが、遊び仲間もいなければ金を使う気もない譲介にとって、休日というものは未だに持て余しがちなのである。疲れた身体を伸ばすのは良いが、そんなものに1日も要らない。結果、下宿先に帰り医学書に向き合うことが多いが、1人の時間というのはまあ余計なことを考えてしまうものだ。
…譲介が座るベンチの向かいに、お菓子を売るキッチンカーが来ている。赤いキッチンカーは大小様々のハートで彩られ、甘い香りを放っている。チョコレートの香りだった。男女問わず客が集まっている。キッチンカーのサイドには「2/14 valentine」と書かれた看板がある。
譲介は瞬きする。
「バレンタインか…アメリカはこんな感じなのか?」
呟いてから、今までの幸せなバレンタインの記憶を思い出す。イシさん、麻上さん、N県T村の人…自分にチョコレートをくれた人達。バレンタインのような、気持ちの交流が目的のイベントに縁ができたのは、ある程度大人になってからだ。その思い出は温かいものばかりだ。嗜好的には甘いものは決して好きではなかったが、気持ちがこもった贈り物は、本当に嬉しかった。その思い出の味だけでしんみり出来るくらい、嬉しい思い出である。
…男女ともに集まるキッチンカーを見ていて、譲介の頭に『日本だと女性から男性にチョコレートを贈るイベントだが、外国は性は問わない』という情報が浮かぶ。胸がほわっとした。男である自分が贈ってもいいのかも知れない。自分が贈ったら、喜んで貰えるのだろうか。自分がとても嬉しかったように、贈った相手にとても喜んで貰えたら、自分はどんなに嬉しいだろうか。
…そこまで考えて、「誰に贈る?」という疑問が湧く。黒い死神のような男が頭にちらつく。譲介はフンと鼻で息をして、ちらついた想像を振り払おうとする。
あの人はダメだ、贈り方がわからない。郵送するにしても住所がわからない。
次に、自分を優しい気持ちにしてくれた、イシさんや麻上さん、村の人達。譲介は難しい顔をして腕を組む。アメリカでチョコレートを買ってN県T村にまとめて贈るのか?悪くはないが、そこまでする必要があるか?なんだか違う気もする。
でも…と考えると、またぼわんと、黒い初老の男が頭をよぎる。
譲介は苦虫を噛み潰したような顔をする。隙があるとすぐに、あの男のことを間髪おかず頭に思い描いてしまう。そんな自分に歯痒さを感じる。想いたくなんかないけれど想ってしまう、いつも、どこでも、どんな時も。それが、TETSUという男だった。
譲介は、TETSUには複雑な気持ちを抱いていて、この気持ちは他に喩え難い。認めてほしいし捨てないで欲しいという衝動に似た強烈な感情があってそこは譲介自身も否定はしないが、一緒にいて良い気分になる人物かというとそうとも言えない。面倒だしずるいし、嫌なところをたくさん知っている。そこまでわかっていながら、TETSUのことを誰よりも心配しているのは自分だし、誰よりも幸せになるべきだと願っているのも自分だと思いたいところがある。譲介より強くTETSUのことを想っている人間は、あの世を入れても他にいない…と、譲介は思いたいだけで言い切れない。TETSUへの想いは自分が世界一と『確信している』…とは言えないのである。
譲介は自分に自信がなかった。そして、TETSUには自分の知らない世界があって、そこで自分よりも強くTETSUを想っている人がいてもおかしくはないから。でも…。
…ぐるぐるする。TETSUのことに考えが及んでしまうと、自分の抱えた大きすぎる気持ちを言語化したくなってもやもやとして、結局正解が出ないまま消化不良になる。考えている間は世界が止まってしまう。譲介の頭の中にTETSUだけがいて、それが世界の全てになり、時間だけが過ぎてしまう。だからあまり、TETSUのことを考えたくないのだ。なのに、TETSUは勝手に譲介の脳裏に出てくる。アメリカという異国の地でも、TETSUとは縁遠そうなバレンタインというイベントの日でも。
…頭の中のTETSUを振り切ろうと、譲介はキッチンカーでチョコレートをひとつだけ買った。甘党ではない。だが、ここは祭りに乗っかりたくなった。紙幣と引き換えに甘い香りがする紙袋を手に入れ、譲介は帰路につく。
鉄筋の大型のマンション。古いが手入れが行き届いており、清潔感がある。クエイドの社宅であり、譲介の今の住居である。
エレベーターで自室のある階まで上がり、部屋に向かう。
と。
自室のドアの前に、黒い影がいた。
譲介は驚愕し、目を見開く。歩みを止め、息を飲んだ。
『黒い影』とは、印象の話だ。禍々しい空気をその人物は纏っているから、黒く見える。
長い黒い前髪に、少し丸まった太い首筋。襟が立った白衣、黒いシャツに白いパンツ。筋肉質だが痩せており、片手に杖をついている。髪に隠れた精悍な顔立ちは、忘れたくても忘れられない。
「よォ」
「な、なんで」
口端を曲げてニヒルに笑うその男。
「どうして」
息が詰まって、譲介はその名を呼べなかった。
TETSU…譲介がどんな時でも考えてしまう、その人がそこにいた。
「相変わらず腑抜けた顔してやがる」
「あ…あなたこそ。相変わらず失礼だ」
譲介は動揺しながらやり返す。
大きな気持ちが溢れそうになりながら、口からは刺々しい言葉が出る。会えば必ずそう。譲介は、自分の中の大きな気持ちに振り回されて、言いたい言葉をいつも話せない。それが、つらい。
「今度は何をしに来たんですか」
「ツレねぇなぁ。仕事ついでにお前ェのツラ見に来ただけだぜ?」
TETSUは髪を靡かせて、にやりと笑う。
譲介は胸がドキンとして、顔に熱が籠る。怖い顔をして口を尖らせた。言いたいことを言いたいと思いながら。
「か、からかっているんですか!!」
「さァ、どうかな…ッと!」
譲介は突然TETSUの身体に抱きついた。TETSUの胸に顔を埋め、背中を両手で包み込んだ。TETSUは言葉を失う。
「なんだよ、てめ」
「嘘でもからかいでもなんでも良いんですけど」
譲介はギュッとTETSUを抱きしめ、顔を見せないようにして話し始める。
「僕はあなたの道具じゃない。僕はやりたいようにやります。あなたの意図なんか知りません、どうでもいいです」
言いながら、譲介は涙声を出す。
「何が言いてェんだ、てめぇ」
譲介は目に涙を溜めながら、TETSUを見上げる。
「こうしたかったんです。捕まえたからにはもう離しません」
「は?いや、鼻水出てんぞ、汚ねえな譲介」
「もう離じぜ。うう゛…あの」
譲介は涙と鼻水を自分の手で雑に拭ってから、顔を上げる。片手に持ったままのチョコレートの紙袋を掲げる。
「今日バレンタインらしいですよ」
「はン?」
「あなたにチョコレートをあげます」
「あ?なんだと?」
譲介は目を閉じてから、カッと目を見開き、TETSUを見た。
「あなたには!言いたいことがたくさんあって。でもいつもうまく言えなくて、つらいです」
譲介は顔を赤くする。
「あなたに言いたいことを話すのは、勇気が要ります。いつもと違うことをするわけで」
「譲介…?」
「その…チョコレートをあげますから!僕がどれだけあなたのことを考えで、あなたに困惑しているか!聞いてくださいよ、僕の家の中で」
「お前がやりたいことってそんなことなのかよ」
譲介は頬を膨らます。
「そうです!僕が満足するまでは僕の傍にいて僕の相手をしてください。それが、僕があなたに今一番言いたいことです!」
そこまで譲介はまくしたて、言い終えてから頬を真っ赤に染めた。
呆気に取られるTETSUの手を引いて、譲介は自室に入る。
譲介の素敵な休日はこれからである。