夜半、心地よい睡魔の波に揺蕩っていたはずなのに、意識が浮上する。尾形は身体から眠気の波が引いていくのを感じた。
嫌な予感が飛来して、瞼は閉じたまま隣に寝ているはずの男に触れようと手を伸ばす。しかし手を伸ばせど掴むのは空ばかり。不承不承に瞼を持ち上げると、隣はもぬけの殻だ。
――どうりで寒いわけだ。
こうして杉元が夜中に起き出すのは今に始まったことではない。そう多くはないが、数ヶ月に一度の頻度でベッドから抜け出す。原因は大抵決まっていて、夢見が悪かったから。いなくなる度に尾形の心拍が跳ね上がるが、杉元はさして気にした様子もなく眠気が来るまで外出したりする。
「今日はどこまで行ったんだ?」
溜息混じりに呟いて、尾形もベッドを抜け出す。フローリングに触れた足裏には突き刺すような冷感。冬のフローリングは芯まで凍る冷たさで、僅かに残った睡魔も逃げ出した。これはしばらく自身も眠れないだろうと諦めた尾形は、厚手のジャケットを手に取りリビングに繋がる寝室の扉を開けた。
「――!」
扉を開くと、リビングから全身に鳥肌が立つような冷気が這ってくる。尾形が思わず出処はどこかと暗い室内を見渡すと、カーテンが僅かに揺れている場所があった。ベランダに通ずるサッシだ。注視すると、風に押されて揺れたカーテンの間隙から、杉元の後ろ姿が見える。
――今日はどこにも行かなかったのか。
尾形は安堵しつつそっとサッシを開くと、レールを走る音に気付いた杉元が振り向いた。
「あれ。起きたの?」
「お前がいないとベッドが冷える」
「湯たんぽ代わりか俺は」
杉元が呆れたように笑うと、白い息が闇夜に滲む。よく見ると暗いせいで分からなかったが、鼻先や耳が赤い。
尾形は杉元の隣に立つと、そっと手を握った。いつもは熱いくらいに思える体温が、今は冷えきって温かさの欠片もない。
「冷えてんな。どのくらいここにいたんだ」
尾形の声に意図せず怒気が含まれる。
「あー……どんくらいだろ?分かんねーや」
尾形の眉根が寄ったのが見えた。しくじったな――と杉元は胸中で独りごちた。
本当は尾形なりに杉元を心配していることくらい、本人が一番分かっている。こうして起き出す度に、律儀に迎えに来るくらいだ。
申し訳ないと思う気持ちがあるからこそ、せめて今日くらいは――と、妥協してベランダに出てみたのだが。
――裏目に出たなぁ。
尾形は先程から何かを言い募ろうと口を開けては閉じるを繰り返していたが、やがて諦めて後頭部を搔いた。
「もう中に入れ。これ以上は風邪をひく」
杉元は握られたままの手を引かれて、室内へと入る。中はずっと窓を開けていたせいで、外とさほど気温差がない。ようやっと杉元は寒さを自覚して、身震いした。
「ちょっと待ってろ」
尾形はそう言い残すと、空調の電源を入れてキッチンに向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出している。おそらく、ホットミルクでも作るつもりなのだろう。
「……悪かった」
杉元自身ですら驚くほどすんなりと言葉が出た。
何に対してと聞かずとも、言わんとしていることが分かったのか尾形は黙って手を動かしている。つかの間の静寂が降りたが、それを破ったのも尾形だった。
「……次からはメモくらい残していけ」
「うん」
「あまり遠くにも行くなよ」
「……うん」
「間を空けるな」
間髪入れずに釘を刺す尾形に、内心で過保護め――と杉元は苦笑する。
「だって、眠れないとついさぁ……」
バツが悪そうな表情をする杉元の前にマグカップが差し出された。湯気立つ乳白色から甘い香りが漂う。
「気休めにしかならねぇが、それ飲んで体暖めろ」
「ありがと」
ホットミルクを口にすると、牛乳だけじゃない甘さが舌の上をなめらかに転がる。おそらく蜂蜜が入っていて、普段杉元が好んでする飲み方を覚えていたのだろう。
「……今日はなんだってベランダにいたんだ?」
「今日はすぐ眠くなりそうな気がして」
杉元はカーテンの隙間から外を見る。空はまだ濃紺のまま。
「――ていうのは建前で、誰かさんが心配するからな」
「分かってるなら黙って家にいてくれ」
尾形はいたずらっぽく笑う杉元に小言を言いながら、ついでと用意した自らのホットミルクに口を付ける。
――甘い。
飲み慣れない味に胸中で不満を吐露した。
「……なんかさぁ、もっとこう、簡単に眠くなる方法とかねーのかなぁ」
「それはこっちが聞きてぇな」
「だよなぁ……」
杉元はだらしなくテーブルに伏して唸りながら聞き取れない独り言を呟いている。
「あっ」
何かを閃いたような表情の杉元が顔を上げた。
「煙草ってさぁ、気分落ち着くの?」
「……は?」
「いや、だってしょっちゅう吸いに行って……」
杉元はそこまで言いかけて気付いた。ここ最近、尾形が煙草を吸ってないことに。
「持ってると思って言ったんだろうが、やめたからない。それに逆だ。煙草は目が冴える」
「マジ?」
明らかに落胆した表情をした杉元を一瞥して、尾形はぬるくなったホットミルクを全て飲み干し立ち上がる。杉元の空になったマグカップも持ち去り、シンクへと運ぶ。
「ありゃ中毒性があるから吸いたくなるだけだ。体に悪いしやめとけ」
へぇ、と気の抜けた返事をする杉元は再びテーブルに伏した。
「なあ」
僅かにくぐもった声が尾形の鼓膜まで泳ぐ。
「なんだ」
「なんで煙草やめたの?」
杉元の何気ない質問に二人分のマグカップを洗う手が止まる。
「受動喫煙の悪影響について熟考した結果だな」
杉元の指が僅かに跳ねた。
「……すげー回りくどい言い方だけど、つまり俺のためで合ってる?」
表面張力で盛り上がるカップの水面から視線を上げると、少し得意げな顔をした杉元も目が合った。
ここまで来たら否定も意味は無いだろうと尾形は諦める。
「そうだな」
一瞬の沈黙。
「……そう」
肯定されると思っていなかったのか、意表を突かれた表情のまま杉元は固まった。けれど耳や頬は徐々に朱に色付く。気恥しそうに瞼が伏せられると、長いまつ毛の影が下瞼に落ちる。日頃の凛々しさがなりを潜めたその表情は、尾形に一抹の加虐心を芽生えさせるには十分な効果を発揮した。
無意識のうちに洗い物を放った尾形は杉元の側へ歩み寄る。からかわれると思った杉元は体を強ばらせた。
「……んだよ」
尾形は未だ朱色を保つ頬に触れた。なめらかな肌は見た通り熱を発している。上がった体温が冷えた指に温度を分けた。
「そんなに眠れないならちょっと付き合え」
「付き合えってなに――」
不意打ちとばかりに杉元の唇が塞がれた。言いかけた言葉は飲み込まれて霧散する。キスをされたことによって「付き合え」の意味を理解した頭は瞬時に茹だった。けれど触れた唇は案外呆気なく離れて、二人の間にまだ暖まりきらない空気が割って入る。
「その気があるなら部屋に戻って来い。ないならいつも通り外出してくればいい」
少し乾燥した尾形の親指が杉元の唇を掠めていく。
寝室に入っていく尾形の後ろ姿を見送った杉元は、逡巡した後、未だ火照る頬を恨めしく思いながら寝室の扉を開いた。