ふわり、とキッチンから漂う香りに尾形は顔を上げた。初めて嗅ぐその香りは、茶のようでもあり、花のようでもある。どこかで既知だったような気がするそれに、思わず後ろを振り返った。
「どした?」
尾形の視線に気付いた杉元が小首をかしげる。端麗な顔立ちに反して時折混じる幼い仕草は、アンバランスなはずなのにやけに似合っていた。
「なんか淹れてんのか?」
香りの正体が気になってキッチンへ近付くと、ガラスのティーポットには茶葉と鮮やかなオレンジ色が浮いていた。
「桂花烏龍茶だよ」
「ぐい……?」
「桂花烏龍茶」
杉元の指が空を切って、文字を書き記す。
「金木犀か?」
「そう。会社の人からの旅行土産」
台湾行ったんだと――と口元にやわい笑みを浮かべながら茶を入れる。
――どうりで。
既知だと思った香りは秋によく香る花。茶葉と混じって気付かなかったが、言われてみればたしかにそうだった。
「はい」
杉元から差し出されたそれに困惑していると、「いらない?」と眉尻を下げられる。以前――明治の頃――のときより警戒心が抜けて丸くなった杉元に、尾形は未だに振り回されることが多い。惚れた弱み――という言葉が脳裏を過ぎるが、それだけでは無いだろうと内心で否定する。
悄然とし始めた杉元からマグカップを受け取ると、途端に相好を崩した。手元からは馥郁とした香りが湯気と共に昇る。
口元に浮かんだ笑みはそのままに、杉元は空いている尾形の手を取った。その笑顔に、僅かに嫌な予感がする。
「百之助。俺とちょっとお話しよっか」
――俺は何をやらかした?
杉元が尾形を名前で呼ぶときは、怒っている場合がほとんどだ。一瞬のうちに脳内で杉元を怒らせる可能性があるすべての出来事に思いを馳せるが、それらしい記憶は残念ながら見つからない。
尾形の焦燥を感じ取ったのか、杉元は可笑しそうに笑い声を上げた。
「そんなに怒ってないから、そう身構えるなよ」
ほら――と杉元に手を引かれて、尾形は二人がけのソファに腰を降ろされる。こういうときに距離を空けて座れないのが、このソファの欠点だ。
気分を落ち着けるために淹れてもらった烏龍茶を飲む。鼻腔を抜ける花の香りが心地よい。烏龍茶を嚥下する度に、肩の力が抜けていくのを感じた。
尾形の表情が多少和らいだのを確認した杉元は、そろそろかと口を開く。
「回りくどいのは嫌いだから単刀直入に聞くけど、いつ手出してくれんの?」
「――!」
飲んでいたお茶が噎せたのか、尾形が青い顔をしている。
「大丈夫か?」
「これが大丈夫そうに見えるのか?」
尾形は心配そうに背をさする杉元に恨めしそうな視線を向けた。
「大丈夫じゃなさそうだな」
杉元はあっけらかんと言ってのけて、自らもマグカップに口を付ける。
「おま――」
「三ヶ月」
「……は?」
杉元の口元は相変わらず笑みが浮かんでいるが、目は笑っていなかった。
「正式に付き合ってから三ヶ月経つんですけど、そろそろ次の段階に進んでもいいんじゃないかと思いまして」
なぜ敬語――と思いながら、三ヶ月という単語でふと我に返る。
――もう三ヶ月か?
尾形と杉元が今世で出会ったのは二年ほど前。その時はお互いに前世の記憶を保持したまま、最悪の再会を果たしている。紆余曲折の末、尾形からの執拗なアプローチで正式に恋人関係へと進展を遂げたのが三ヶ月前の事だった。
「……っあー」
地を這うような声を上げて、尾形は顔を覆う。しくじった――と思った。キスや手を繋ぐ程度の触れ合いは当たり前にしてきたが、恋人になる前の二年間の密度があまりにも高くて、その延長線上のような心持ちのままこの三ヶ月を過ごしてしまっていた。
「朴念仁とはこのことだな」
「自覚はあるのか」
楽しそうに杉元が笑う。指の間から覗き見ると、先程とは打って変わって瞳から剣呑さが消えていた。
「まあ、誘わなかった俺も悪いし」
お互い様な、と杉元に頭を撫でられる。それを引き金に、触れたいという欲求が尾形の腹の中で鎌首を擡げた。
「キスしてもいいか?」
「それはご機嫌取り?単にしたいだけ?」
「どっちもだ」
尾形は許可を取る前に触れるだけのキスをする。微かにただよう金木犀の香り。
「良いって言ってない」
「本当に嫌ならその前に殴ってるだろう」
「お前のそういうところ、腹が立つ」
文句を言うわりに、杉元の眦はずっと下がったままだ。許されていると自分勝手に解釈して、尾形は再び唇を寄せた。触れて、角度を変えて、啄むように食んでは柔らかな感触を堪能する。しばらく楽しんでいると、もういいと言うように杉元が尾形の下唇を軽く噛んで引っ張った。
「機嫌は直ったか?」
んー、と杉元は思わせぶりに返事を焦らす。
「今後の出方次第かな」
婀娜っぽく笑って、指先が焚きつけるように尾形の顎をなぞる。どこで覚えてきたんだと己の中で獣が吠えた。