パンツの日 伊地知潔高は困惑していた。
「あの、五条先輩……」
「………………」
「せめてなにか喋ってもらえませんか……!」
ただひたすらに無言でじっと自分のことを見つめてくる特級呪術師。
先程までは夏の暑さで汗をかいていたはずの体が、緊張やら恐怖やらなんやらで冷や汗を流す。
キラキラと青く光る六眼はとてもきれいだが、それがまばたきもせずに自分をじっと見つめているのはあまりにも圧が強すぎて単純に怖い。
泣き虫は卒業しようと決めたのに。
じわりと目の奥が熱くなっているのを感じながら、伊地知は自分がいったい何をしてしまったのかと自分の膝を見つめるのだった。
さて、実際のところ伊地知が何か変なことをしたのかと言えばなにもしていない。
まだまだ夏の盛りの続く今日この頃。体力不足を少しでも改善するために、伊地知は日の暮れ始めた夕方を狙って高専内でランニングを行っていた。
とはいえ、夕方とはいっても夏であることに変わりはない。
三十分も走ると全身汗だくになるし、一時間ともなればそれ以上だ。
それ故、ランニングを終えた伊地知はいつも汗が引くまで寮の入り口の近くにある木陰で水分補給も兼ねて休憩をしている。
汗が引いたらそのままシャワーを浴びてしまおうとの算段で、着替えなども詰め込んだバックを傍らに風通しのいいそこで体育座りで涼んでいるのだ。
ほんの十数分前も、ランニングを終えた伊地知は大きく呼吸しながらスポーツ飲料を少しずつ口に含んでいた。
木陰を作ってくれている木の幹に寄りかかりながら小さく息を吐く。ひやりと、わずかに夜の匂いをまとい始めた風が火照った体を冷ましてくれるこの時間が伊地知は嫌いじゃなかった。
あともう少し休んだらシャワーを浴びにいこう。そんなことを考えていたとき、彼はやってきたのだ。
何の気なしに、膝にできた瘡蓋をぽりぽりと爪先でかいていたとき、ザッと地面の擦れる音が聞こえて伊地知は顔を上げた。
「……五条先輩?」
見上げた先にいたのは、二つ年上の特級呪術師。尊敬はしているし憧れてもいるが、それと同じくらい苦手でもある先輩の登場に伊地知は思わずひくりと頬をひきつらせた。
あからさまに怯えた態度をとる伊地知に、常の五条ならば『かっこいい先輩に対してなんだその態度は』といちゃもんをつけながら伊地知にうざ絡みするのだが、今日の五条は様子が違った。
今日は何を言われるのかと戦々恐々としている伊地知をただただじっと見つめている。
いや、性格には地面に座る伊地知の足、特に膝の辺りをじっーっとよく見ているような気がする。
どうかしたのかと伊地知が声をかけようとしたとき、五条はばっとその場にしゃがみこんだ。
「ひっ!」
今まで自分を見下ろしていた相手が突如その場に座り込み、さらに無言で自分を見つめ続けるものだから伊地知は思わず小さな悲鳴を上げた。
けれど、五条はそんな伊地知に反応することもなく、その長い足を巷のヤンキーのように雑に折り畳みながら無言でサングラスを外し、六眼をさらしはじめるのだから伊地知はいったい何事かとさらに困惑するのだった。
「……あの?」
「五条先輩?」
「どうかしましたか?」
ポツポツと声をかけても五条がまったく反応しないものだから、伊地知は思わず五条がじっと見つめている自分の下半身を見つめた。
といっても、伊地知から見た自分の体にはなんの異常も見られない。
中学時代の体操服に身を包んだ自分のからだ。三年のはじめの頃に買った少し大きめのそれは、ウエストはひもで縛っているから大丈夫なものの、裾のところはがばがばで暑い日は風が入りやすくて涼しいからよく愛用している。そんなズボンの裾から覗く日に焼けにくい白い肌は今は運動後ということもあって少し赤くなっていた。初めて五条と会ったときには『なにこの細っちいからだ!?』と驚かれもしたが、最近は少しずつましになっているはずだ。
わからない、何が五条をこうしてしまったのか。
伊地知がべそりと半べそをかきはじめたとき、伊地知のもとに救世主が現れた。
「あれ、悟に伊地知?そんなとこで何してるの」
「夏油先輩……!」
やった、やっとこのよくわからない空間から抜け出せる──!
現れたもう一人の先輩の笑みに、後光すら感じながら伊地知が立ち上がろうとしたとき。五条の大きな声が辺りに響く。
「───しゃっ!!見えた!!」
「えっ!?」
「は?」
今まで黙り込んでいた五条が突然叫んだことに驚いた伊地知がバランスを崩し尻餅をつく。夏油もいきなり訳のわからないことを叫んだ親友に怪訝そうに眉をしかめていた。
いったい何が見えたというのか。ぽかんと目を丸くしたまま地面に座り込む伊地知をよそに、夏油が五条の視線の先を探るように彼の隣に座る。
そして、すぐになにかに気づくと大きな大きなため息をついた後五条の頭に勢いよく拳骨を落とした。
ゴツンと固いもの同士がぶつかった音が辺りに響く。
「いっってぇぇぇぇぇ!!!!」
「無下限すら反応しないなんてどんだけ集中してるんだよ……」
立ち上がった夏油が蔑むように五条を見下ろす。そしてそのまま五条の首根っこをつかみズルズルと引きずりはじめた。
「ちょっ、おい傑!なにすんだよ!」
「うるさい黙れ喋るな息をするな」
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?」
「えっ、あの、夏油先輩?」
目の前で起きた出来事についていけず、伊地知がおろおろと慌てながら夏油の名前を呼べば、顔だけをこちらに向けた夏油が同情した表情で伊地知に告げた。
「伊地知、余計なお世話かもしれないけど今後そういう短パンは着ない方がいいと思うよ。それと、下着もトランクスじゃなくてボクサーかブリーフにしときな。頭のおかしい変態がつれてしまうからね」
「……え?」
変態?トランクスはダメ?ボクサーの方がいい?
言われた言葉が理解できず、ぽかんとはてなマークを頭の上に浮かべる伊地知を置いて夏油は五条を連れてどんどん離れていってしまう。
本当に、なんだったのか。
伊地知は何もかもがよく分からないままフラフラと立ち上がると、着替えのはいったバックを手に取った。
「……とりあえず、シャワー浴びよう」
典型的な逃避行動だったがそれを咎めるものは誰もいない。伊地知はどっと疲れた体を引きずって寮のシャワー室に向かって歩きだしたのだった。
それから数十秒後、遠くから五条の大声が響く。幸か不幸か、その大声はすでに寮の中に入った伊地知のもとには届かなかった。
「伊地知のはみチンだぞ!?じっくり見るに決まってんだろうが!!」
そしてそれから数秒後、『ガッデム!』という怒声とともにガツンとなにか固いもの同士がぶつかる音が続いた。