拒否はしたくなかった話「俺…もう、子どもじゃないんだよ…」
迫りくる甥の顔面に、ひく、と頬を引き攣らせた。
いけない。これは、いけない。
「なっ……え?……え??、ちょ…」
ずいずいと近づいてくる甥から逃げようとするが、行き止まりだった壁に押し付けられ、体の横に両腕をつかれているので逃げ場がない。そのまま、ずるずると下へ下へと下がっていってしまう。
ドサ、という音とともに、とうとう仰向けになってしまった。転がった床板が冷たくて心地よい。
混乱した頭のまま、どうしたら穏便に逃げられるかを画策する。可愛い甥を傷つけずに、しれっと躱す術は無いものか。
そんな江澄を知ってか知らずか、金凌は請う。
「ねえ。名前で呼ばせてよ」
「はぁ?……だっ、だめだ……不敬だぞっ!」
強く跳ね除けたつもりだったが、少し声が上ずってしまった。それを聞いて、金凌は呆れたような口調になる。
「不敬って………」
「あ、当たり前だ!!」
金凌の肩を両手でグイと押そうとするが、体勢もあってあまり力が入らない。ましてや、目に入れても痛くないと可愛がってきた甥っ子に押し倒されているという状況に、頭も心も、まだ追いついてはいなかった。
「また世間体の話?もう。今はやめてよ」
「今しなくていつするんだ!」
なんとか脱出しようと試みるが、変な汗が止まらない。
すると、肩を押していた左手を捕まえられ、床板に縫いつけられた。次いで右手も絡め取られ、両手とも顔の横に押さえつけられてしまった。
「ね、いいでしょ?叔父上」
「…だめ、だ…」
なんだこれは。なんなんだこれは。
ドクン、と心臓が変な鼓動の打ち方をする。
「ねえ、許してよ」
だいすきだから。
そう掠れた声で囁かれれば、全身に痺れるような感覚が走った。
江澄は恥ずかしさからできるかぎり顔を背ける。なんと答えたらよいのか、分からなくなってしまった。
無礼だぞ、馬鹿者!と一喝すればよいのか。
お前は間違っている、と諭せばよいのか。
今の状況を無かったことにして、しれっと抜け出せばよいのか。
――今の状況を、無かったことに…?
忘れてやるから、お前も忘れろと。
己に向けられた愛を。
それがどんなに歪な形であっても、それを、忘れてしまえ、と。
言えるはずがない。
愛に飢えているのは、――自分だ。
正面に視線を戻せば、金色の双眸に捕えられる。
強い決意を現した色が、その実は不安そうに揺れている。
縋るような瞳を、今まで何度見てきただろう。その度に手を差し伸べ、時に叱咤し、支え合って生きてきた。
何が正しいのかなんて、分からない。
分からないけれど、今の江澄には、間違っているとも思えなかった。一般的にいえば、もちろん間違っている。お互いに宗主であり、叔父と甥という親戚関係であり、それぞれが家の存続を背負っている。
けれど、そんなことはどうでもいいという想いが、頭の片隅をチラリと過ぎってしまうほど。
江澄の心の深い深いところで、金凌という蓮の花はたった一輪、咲き続けているのだ。
単純に、無下にできないわけではない。ただ、金凌という存在があることが、生きる糧となっているのだ。
それは、金凌にとっても、同じこと。
江澄は、金凌の想いを、拒否――したく、なかった。
ぐるぐるとした心の内を、この短時間で言葉に表すことなど到底できず。きゅ、と唇を噛んで、睫毛を伏せる。
その様子に、金凌は嬉しくなって額に唇を落とした。
「澄…」
ぐ、と変な呻き声を出す叔父がかわいくて、つい口元が弛む。
「…澄……阿澄…」
阿澄、と呼ばれて思わず目を見開き、江澄の頬がカッと紅くなった。それは怒りか、照れか、はたまた違う何かか。
キッと睨みつける藍色の瞳は水分を多く溜めていて、ほの暗い室内でキラリと輝く。
「調子に乗り過ぎだ…!」
「だって、叔父上が許してくれたでしょ」
金凌は幸せそうにはにかんで、ちゅ、とその薄い唇に口付けた。
ジジ、と蝋燭の火が揺れる。
黒と橙のコントラストの中。金凌の煌めく金色の瞳が藍色のそれを射抜いていて、江澄の背をぞくぞくと何かが込み上げてくる。いたたまれない。目を逸らしたいけれど、年長者としての意地があるので正面から見返す。
が、結局睨めつけることしかできず、口をぱくぱくとさせてしまった。
再び、愛らしかった甥の美しい顔が近づいてくる。
閉じられた睫毛の長いこと、などと心の中で呑気に感想を述べていると、ちゅ、ちゅ、と唇を啄むように吸われていた。
ぱちり、と音がしそうな睫毛が上がると、くすりと笑われる。
「…目、閉じないの?」
馬鹿にされたような気がして、フン、と顔を横に逸らす。
もっとあれこれと文句を言ってやりたいと思うのだが、中々どうして言葉が出てこない。
不思議な、酷くふわふわとした感覚に襲われる。
江澄が横を向いたことで目の前にさらけ出された白い首筋に、金凌は吸い込まれるように顔を近づけた。
ふわりと薫る蓮の香。それとは別の、甘くて、まるで熱さが伝わるような、芳しい匂いが鼻孔をくすぐってくる。
金凌は、首筋から浮き出た筋に吸いついた。
「っ!?」
一瞬ビクッとした江澄を無視して、ぢう、と強く吸えば白い肌に朱い花が咲く。
「なっ、お、お前…!いい加減に…!」
本当は、痺れるような気持ちよさで腰が浮いたのだが。甥っ子にそんなことを知られたら、恥ずかしくて、情けなくて死にたくなってしまう。
「これじゃあ見えるだろうが!」
「いいじゃん。見せてよ。俺は見せびらかしたい」
「ばっ……これだからお嬢様はッ」
「またそれ?はぁ…そのお嬢様に押し倒されてるの、だれ?」
そう笑った口元が。優しく下がっている眉尻が。よく見知ったそれだというのに、何故だかくらくらしてしまう。
否、そうではない。
江澄は自覚した。
まだ愛らしさが濃く残る溺愛する甥から漂う、強いくらいの雄の雰囲気にあてられているのだ。
…いい歳して、こんな子どもに流されてしまうなんて。
それもいいか、と思ってしまったことは、墓まで持っていくことにしよう。
床に縫いつけられたままの手を離してくれたら、その背に回してやるのに、などと思いながら。
その若くて甘い唇を、金凌が飽きるまで、ただただ受け入れていた。
おわり!!