※含光君があのまま夷陵老祖と逃避行してたらif 番外編「藍湛、俺が死んだらちゃんと金を燃やしてくれよ?それも、大金だ。約束だぞ」
「魏嬰、そんなことは言っては駄目だ」
断崖絶壁の山で、細い道を慎重に歩いていた。ひゅぅぅぅと冷たい風が頬をなでる。この山では不思議な力が働き、修士の力が制限される。
場所によっては霊力は強く抑えられ、御剣もできない。谷底へ落ちればぐしゃりと体は即座に潰れてしまうだろう。道は細く、体はぐらぐらと揺れる。しかし進まなければならない。
「藍湛、落ちたら一貫の終わりだ。もしそうなったら…。死ぬ前に口づけをしてくれ…」
魏無羨がウルウルと目に涙を溜めて訴えた。
「わかった。しかし、君は私が守る」
「藍湛…」
「魏嬰…」
「遊んでいないでさっさと来んか!」
魏無羨が小さく舌打ちした。藍啓仁と藍曦臣はもう先を進んでいたので少しくらいなら遊んでも大丈夫かと、魏無羨はこの「落ちたら死ぬ」という背景を楽しもうと思ったのだ。落ちたとしても、彼らには霊力に頼らずとも助かる手だてはいくつもある。
魏無羨の場合は呪符を使うなり、笛を吹いて死鳥を扱うなり、なんとでもなるのだ。
「魏嬰、先を急ごう」
「はーい」
藍啓仁に叱られ、二人は細い道をなんなく進む。魏無羨が腹の中で絶対にさっきのやつをもう一回やってやると決意していた。
ある依頼が来た。治癒に特化した修士を山から降ろしてほしいと。簡単な依頼だったが、その修士というのは少々やっかいな人物だった。
依頼人は藍啓仁の友人だ。
その友人の娘が幽鬼に目を攻撃され盲人になってしまった。目自体はまだ体内にある。
皮膚のように目が修復されればいいが、金丹を持っていない常人にそのようなことはできない。
そこで、体の修復に特化した修士がいると知り、娘の目を治すため、旧知である藍啓仁にその修士を山から降ろしてほしいと頼み込んだのだ。その修士は大変な変わり者で、できることなら藍啓仁は断りたかった。しかし事情が事情だけにそうもいかない。
藍啓仁は甥と莫玄羽――魏無羨を見る。これだけの美男が揃っていれば、苦労なくあの女修士を山から引きずり降ろすことなど容易だろうと、ヒゲをさすって祈るように目を閉じた。
過去に数回、藍啓仁はこの山に住む女修士を山から降ろしたことがある。今回のように、体の修復をしたいという依頼でだ。以前この山に来た時のことを思い出し、身震いする。もう二度と、藍啓仁はあんな思をしたくなかった。
――――昨日。
「はぁ、はぁ、なあ、今日はできるだろう?」
「だめだ、できない。傷に触る」
「そんな事言って、お前のここは我慢できるのか?」
良からぬ会話が聞こえ、どうしたものかと藍曦臣は腕を組んで少し考えた。そうだと藍曦臣は携えていた笛を吹いてみる。ドタドタと中で騒がしくする音が聞こえた。
弟が静室から出てくる。服が少し乱れていた。まだ昼時なのに…と藍曦臣はひっそり頭の隅にそんな事がよぎったが、不要な事は言わずに笑顔で言う。
「叔父上が呼んでいる。莫--魏公子。君も来なさい」
少し頭をずらして藍忘機の肩ごしから魏無羨に目を送る。魏無羨は服を着ている途中だった。
「忘機、魏公子の傷は浅くなかったはずだ。私が言うのもなんだが…ほどほどに」
「………ハイ」
江澄から受けた紫電の傷はまだ魏無羨の背中に残っている。とはいっても、今は少しばかり火傷のような痛みを感じる程度だ。もうそろそろ傷の具合も大丈夫だろうと夜の営みをしようとしたが、魏無羨が泣くほど受けた傷あたりを痛がってしまった。中断し、その日は痛みが和らぐよう魏無羨をさすり続けるという夜を越した。
それからというもの、藍忘機は魏無羨の傷が完全に治るまで触れないよう、大事にしていた。しかし魏無羨はもう大丈夫だと言って誘惑ばかりしてくる。強く抗う事もできず、藍忘機は大変困っていた。
「藍湛、服着たよ。行こう」
「うん」
「俺、なんかした?」
藍啓仁に呼ばれて良かった思い出など一切ない。魏無羨は右上を向きながら、この雲深不知処で何をしたかを思い出していた。弟子達の食事を必要以上に辛くしたり、藍湛を襲った記憶しか出てこない。藍忘機の少しズレた抹額を整えてやり、言った。
「祝言について聞かれるのかな?」
にこにことしながら魏無羨が冗談を言う。魏無羨をあまり良く思っていない藍啓仁が祝言など気にするはずがない。
藍忘機が魏無羨の両手を掴む。
「いつがいい?」
魏無羨はヒャ、と変な声が出てしまった。生前より、藍忘機は甘い事を簡単に言うようになっている。魏無羨はつい照れてしまった。目の下を少し赤くして、「い、いつでもいいよ…」と答える。
藍忘機の顔が近づいてきたので、魏無羨は自然と瞳を閉じて受け入れようとした。
ポーーー……と笛の音が聞こえ、二人の肩がびくりと揺れる。藍曦臣は少し離れた場所で待っていてくれたのだ。
「祝言の話ではないよ。それはまた時期が来たら話し合おう。行こうか」
怒られるのではないかと魏無羨は様子を見ていたが、藍曦臣はいつもの柔らかい笑顔を崩さなかった。
依頼はとても簡潔なものだった。美形好きの女修士を山から降ろし、盲目の少女が受けた傷を修復させるというものだった。
* * *
頂上にたどり着き、魏無羨は簡素な家を指さした。
「藍先生、あれが女修士の家ですか?」
「そうだ。…話をつけてくる。曦臣だけ私についてきなさい」
突然ふたりきりの時間ができた。魏無羨はふらりと藍忘機に寄りかかる。
「ああ、藍湛、なんだか傷が痛んできちゃったよ。俺の体を支えてくれる?」
「うん」
まったく痛みなど感じていない。藍忘機に寄りかかるための嘘だ。藍忘機が魏無羨を包み込むように抱き寄せる。
魏無羨は藍忘機の胸の中を楽しんだ。これだけで十分だったのだが、藍忘機が肩をさすり始めた。「大丈夫か?」と身を案じてくる。魏無羨は嬉しくて、すりすりと藍忘機の胸に頭をつける。
「うーん、もう少しさすってくれたら大丈夫かも」
きっと心配そうな顔をしているだろうなぁと魏無羨が顔を上げてみる。魏無羨は余裕の笑みを崩した。同時に、ドキドキと鼓動が少し早まる。
藍忘機は魏無羨の嘘を見抜いていたのだ。ほんの少し微笑みを魏無羨に向けていた。胸がぎゅっと締まる感覚がする。
「藍湛、好きだ」
もう今の魏無羨には場所など関係ない。一度死んでいる。後悔しないよう、言いたいとき言うともう決めたのだ。
「うん」
好きなだけ口づけをしていたら、藍曦臣が家の中から出てきて二人を呼んだ。魏無羨は修士を見て驚いた。
「まだ子どもじゃないか!」
どう見ても10歳にも満たない少女だった。
魏無羨はしゃがんで「こんにちは」と得意の笑顔を少女に振りまいた。少女は「うむ、悪くない」と言った。子供らしからぬ言動だなと魏無羨が感想を持った時、藍啓仁が言った。
「そちらは今年140歳になる方だ。失礼のない話し方をしなさい」
「え?!どう見ても……」
皺ひとつない。どこから見ても、まだ大人の女性にもなりきっていない小さな女の子だ。
「結丹した時から見た目を変わらないように維持しておるのだ」
ふふんと胸を張る。もし140歳だと知らなかったら、きっと魏無羨は「そーかそーか」とあやすように頭を撫でたに違いない。
少女が言った。
「しかし駄目だ。そこにおる奴もいい男だが、駄目だ」
甥二人も駄目となると、もう藍啓仁に残された道は一つしかなかった。
「阿仁、お前がヒゲを剃った顔が見たい」
藍啓仁は嫌だった。このヒゲは自慢のヒゲだ。若い時、魏無羨の母親、蔵色散人にばっさり剃られるというイタズラを受けたことがある。直後にこの幼い見た目の修士、云雀(ユンチェ)を山から降ろすという依頼を受けた。云雀は藍啓仁のヒゲの無い姿を大層気に入り、依頼を受ける代わりに美男子か藍啓仁のヒゲの無い姿を見せろと所望するようになったのである。
「嫌なら下りぬ」
云雀がプイと背を見せる。ぐぬぬ、と藍啓仁は歯を食いしばり、苦渋の決断をした。「鏡を借ります」と言った藍啓仁に云雀は喜んだ。ヒゲを剃っているのを待っている間、云雀は魏無羨に尋ねた。
「お前、人を何人殺した?」
藍啓仁と云雀が話している間、背中で藍忘機とコソコソと手を繋いで楽しんでいた魏無羨は緊張が走る。藍忘機の手をパっと離した。
「な、なんの事でしょう?」
外では莫玄羽という顔をかぶっている。魏無羨はとぼけた。
「私に嘘はつけぬぞ。お前、大量に人を殺しているはずだ。何をした?人を殺す趣味でもあるのか」
魏無羨の顔が蒼白になる。事実ではあるが、人の命を奪う事に快楽を覚える狂人だと思われるのは耐え難い。魏無羨が反論する前に、藍忘機が言った。
「彼は己を犠牲にし、人を守る事を優先する男です。あまり悪く言わないでいただきたい」
藍忘機が一度放した魏無羨の手を握る。
「藍湛…」
「いい性格をしているのはわかる。ただ、お前の魂を見ていると……そういった悪癖もあるのか気になっただけだ」
まだ何か聞きたそうにする云雀に、魏無羨は「何か?」と聞く。
「お前、人間ではないだろう。どこでそうなった?」
魏無羨の頬がこわばる。彼女は巫女として代々長く続いてきた家系の生まれだ。故に目に見えない事柄を簡単に見通す力を持っている。珍しい修士だと聞いてはいた。魏無羨の背中に汗がつたう。
藍曦臣が笑った。「何を笑っている」と少女に聞かれ、藍曦臣は答える。
「いえいえ、おや。叔父上が戻ってきました」
つやっとした顎を撫で、藍啓仁が姿を現す。
「おお!いい男だ!ずっとそのままでいろ」
大満足した少女は山を下り、娘の目を治してやった。
その日の夜、寝所で一緒に横になっていた魏無羨が聞いた。
「なぁ藍湛、あの可愛い修士が言ってた事について、何も聞かないのか?」
”人間ではないだろう”
藍曦臣はただの冗談だと受け流していたが、藍忘機はどう思っているのか魏無羨は気が気ではなかった。
「君は、君だ」
不安そうな顔をする魏無羨をひっぱり、自分の体の上に乗せ、髪に手を差し込む。
兎を撫でるように触られた。心地よくて、魏無羨は頭を胸に預けて目を閉じる。
「自分を犠牲にしてでも他人を守ろうとする。なのに敵を作りやすくて、とても危うい」
魏無羨は顔を上げる。
「君は優しく、情に熱い」
魏無羨はなんだかこそばゆくなってきた。
「なんだ、急に。褒め殺しをされたって、なんにも出ないぞ」
魏無羨を撫でる手を止めず、続ける。
「そんな君が好きだ。もし君が人間でなかったとしても、私は愛せる」
カァァ、と魏無羨の頬が熱くなった。
「お、お前ってやつは………」
ぐりぐりと魏無羨が藍忘機の胸に頭をこすりつける。しかしこの恥ずかしさは一向に冷めない。
「傍で一生、守りたいと思う」
藍忘機は魏無羨の墓にずっと愛を語りかけていた。これくらい、藍忘機にとっては恥ではない。
「わかった、わかった、俺の負けだよ。俺は人間だし、お前の道侶で、ずっとお前に守られる。もうそれでいいだろう。その綺麗な口を閉じてくれ」
グイッと魏無羨の体を上に引き上げた。お互いの顔の位置が重なる。口を閉じたければ、力ずくで閉じろと目線が訴えていた。魏無羨はクク、と笑って、愛しい相手の顔を両手で包んだ。
「愛してるよ。俺の可愛い白菜ちゃん」
ーーーー翌日。
魏無羨に剣が与えられた。あの妙齢の女修士からだ。
少しばかり失礼なことを言い過ぎた。悪かった、という手紙が添えられている。魏無羨は喜ばなかった。
「魏嬰、この剣は気に入らなかったか?」
随便は蘭陵金氏にあるらしく、今の魏無羨の武器は藍忘機から送られた笛だけだ。剣があれば、御剣の練習もできる。なぜ嫌そうな顔をするのだろうと藍忘機は顔を傾ける。
「御剣ができちゃったら、お前とくっついて空を飛べなくなるだろう?」
藍忘機は魏無羨をきゅっと抱きしめた。
「一つやってみたい事がある」
「やってみたい事だって?なんだなんだ」
藍忘機がやってみたいことには大変興味がある。魏無羨は食い気味で聞いた。
「手を繋いで御剣をする夫婦を見かけた事がある」
「お前もそれをしたいのか?」
うん、と頷く道侶が可愛くて、魏無羨はわしゃわしゃと藍忘機の頭をめちゃくちゃに撫でまわした。
「わかった!練習しよう。もう明日には飛べるようになってるから、待ってろ!!」
後日、雲深不知処で手を繋いで御剣するべからずという家君が追加されたのだった。
fin.