オセロゲーム⑤ その日は部活の稽古が終わったあと、土方は独り残って道場を片付けていた。格子状の窓からは、鈍いオレンジ色の光が差し、道場に長い影をつくっている。昼間は初夏の陽気だが、陽が傾くと涼しい風が吹いた。稽古の後の汗ばんだ身体には、これくらいの風の方が心地良い。
そろそろ帰るかと入り口の方へと振り返ると、すぐ目の前を人影が遮った。扉の向こうから西陽が差し込み、逆光になって顔は見えなかったが声ですぐに誰か分かった。
「遅くまでご苦労!土方殿ッ」
後ろに立っていてのは4年生の先輩、村田鉄男だった。4年生と言っても2年留年しているらしい。留年の理由は、家業の武具屋の手伝いに身を入れすぎたからだと聞いた。そのせいで勘当寸前だとも。剣道部でよく利用する武具屋だが、土方は村田とはあまり話をしたことはなかった。
まるで土方を待っていたかのような村田に、少々訝しげな声がでる。
「お疲れ様です、村田先輩。一体……」
「妹と会ってはくれないかっ!」
何か用かと訊く前に、村田の声が土方の鼓膜をキンと貫いた。思わず手で片方の耳を押さえる。この男やたらと声がデカかった。その声のデカさは試合中に遺憾無く発揮され、他の大学の剣道部でも有名だ。
土方は村田の言っている意味がわからず、片耳を押さえたまま聞き返した。
「妹にって…、何で俺が」
「うむ。妹が先日の対抗試合で貴殿を見て、どうも気になっているらしいのだ。すまぬが、一度会ってやってくれないか!」
村田の言葉から察するに、どうもただ会うというわけではなく、色恋事のようだ。
失恋してからの土方はさすがに恋愛なんぞする気になれず、大学では剣道と勉強一色だった。
近藤さんは相変わらず志村妙にアタックを続けているが、実る気配は微塵も見られない。あそこまで拒否されているのに、よくもまあ向かっていけると呆れるが、そんな近藤が土方は少しだけ羨ましいとも思う。これまた女っ気のない沖田と3人で、穏やかな大学生活を過ごしている。
今のところその生活に不満はなく、もうしばらくは心穏やかに過ごしていきたい。
「無理です。色恋事に構ってる余裕はないので」
そういうことかと土方は間髪入れず断った。こういうのは、最初からハッキリとさせといた方が面倒事が少ない。銀八には発揮できなかったが、幼少期からなぜか女が寄ってくる土方は、経験から学習していた。
「ナニッ!? 情人でもいるのか!」
「は?」
思わず不穏な声が漏れる。
情人って……、いったいいつの時代だ。しかもそんな事一言も言っていないだろ、と土方は脳内で溜め息を吐く。村田は人の言うことを聞かない事でも有名だった。
「いえ、そんな人は居ませんが…」
「よし、じゃあ決まりだな、いつがいい?」
「いや、だから…」
「明日か、あいわかった!」
「だから、人の話を聞けよッ!」
なぜか勝手に話を進める村田に土方は思わず大声を上げた。しまった、仮にも先輩だってのに…。だが、会うこと事態が面倒だなど言うわけにもいかない。どう言い訳しようかと土方が考えを巡らせていると、甲高い女の声が割って入った。
「兄者ッ!」
階段の踊り場に、銀色の髪でショートカットの若い女が、顔を真っ赤に染めて肩を震わせている。
「やめてくれっ。だから、そういうのじゃないって、言ってるだろ!」
若い女性は、村田に近づくとそう訴えた。
「何を言っているのか、全く聞こえんわ!いつも言ってるだろ、もっと腹から声を出せと!」
さらに声を張り上げる村田の声が、道場の空気を震わせた。ほう、イイ声だ…土方はなぜか村田の声に感心した。この声を試合で生かしてくれたらいいのだが、残念ながら村田は剣の腕はからっきしだ。いや、そんな事思ってる場合じゃねえだろ俺、と土方は入り口の前に立つ女性に目を向けた。
女性は村田に怒鳴られ萎縮したように顔を歪めている。
「あ、兄者…」
「見苦しい所を見せてしまって済まない、土方殿。こいつが妹の鉄子だ。シャイなあんちくしょうだが、根はいいやつだ。鉄子、紹介はしたぞ! あとは二人でゆっくり話をするといい」
村田はそう言い切ると二人に背を向け、階段を降りて行く。土方は呆気に取られていたが、ハッとして「お、おいっ!」と村田に声をかけるも、聞こえないのか村田は振り返らずに校舎の向こうへと歩いていく。村田の妹を振り返ると、何も聞いていなかったのか、顔を青くして俯いていた。
――妹を置き去りにするなんて…あの人、鬼か!?
村田の妹には同情しか湧かないが、こんな状態で二人きりにされても、いったいどうすればいいのか。土方は思わず嘆息する。
妹がさらに表情を歪め、しまったと心の中で舌打ちする。
「いや、すまねえ。あんたにじゃねぇんだ。今聞いたばかりで、正直頭が混乱してて…」
「いや、いいんだ。こっちこそ…すまない。兄者が迷惑をかけてしまって。違うと言ったんだが、聞き入れてもらえなくて…」
「そうなのか?」
てっきり妹の鉄子が頼んだのだと思っていた。だが、どうやら本当に違うらしい。鉄子は少し諦めたように漏らした。
「兄者から用事があるから、大学に来てくれと言われて、来てみたらこんなことになっていた」
年齢は土方とさほど変わらないようだ。トレーナーにジーンズとサッパリとした服装で、髪も短くボーイッシュな印象だ。
土方は一応、念のため釘を差しておこうと自分の気持ちを説明した。
「その…すまねェが、俺は剣道と学業に手一杯で。付き合うとかそういうのは……」
「ああ、分かっている。私もそういうつもりはない」
妹が慌てて両手を振って、やんわりと否定する。でも、と言葉を続けた。
「あんたのことは、試合で見かけて剣の筋がいいなって。兄者にその事を言っただけなのに、誤解したみたいだ。あっ、私も剣道をしてるから。…そんなに、強くはないけど」
「ほう、剣道を」
「ああ。紹介して欲しいと言った覚えはないのに、兄者が勝手に勘違いしたみたいで、すまない」
顔を真っ赤にして俯く姿に、土方は何となく察した。どうやら村田は家族間でもあまり意思疎通がうまくいっていないようだ。人柄は悪くないのだが、村田は人の話を聞かないところがある。部内でも、それが原因で何度か問題が起きているから容易に想像できる。
「まあ、その…、あんたも大変そうだな」
思わず言葉に実感がこもる。村田の妹は、少しだけ笑った。
「…本当に、すまない。兄者がご迷惑かけて」
「事情は呑めたが、後はどうやってあの人に納得してもらうかだな」
二人でそんな気はないと言ったとしても、あの村田がすんなり受け入れるとは考えにくい。説得するのはなかなか骨が要りそうだとうんざりしてくる。
土方は暫く考えてから、提案なんだがと妹に向き合った。
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