きっと、一緒だからだ「見て下さい、師匠。一面の……」
いわゆる、オーシャンビューと呼ばれるホテルをとった。
部屋にいながら海を見渡せるところが人気で、綺麗な景色を一望出来るらしい。浴場には露天風呂も備わっており、そこでもまた、広い景色を楽しむことが出来るのだと。
ただ、
「一面の――大雨」
それもすべて晴れていたら、の話だが。
霊幻と共に、ささやかな式を挙げた。
本当に小さな式だった。互いの両親と兄弟に、エクボと芹沢とトメ、あとはショウとテルだけ。ほんの少人数で挙げた式は、それでも、おめでとうの言葉で包まれて幸せいっぱいだった。
式の手配は、ほとんど霊幻がまとめてくれた。
モブだって勿論手伝いたかったのだけれど、丁度その頃は、仕事の繁忙期が重なってしまったのだ。連日遅くに帰宅をして、気力の糸が切れた途端にベッドへと倒れ込む毎日。休日出勤なんかも重なっては上手く物事も考えられなくて、どうにも疲労困憊だった。とはいえそんなのは言い訳に過ぎないと謝り、だけれどちっとも、霊幻は怒っていなかったことを覚えている。
だからせめてもの代わりに、新婚旅行の手配はモブが担った。
会社の人たちにおすすめを聞いてみたり、いくつものパンフレットとにらめっこをしてみたり。最終的に決まったこの宿は、我ながら良い選択だったように思う。これならば、きっと霊幻も気に入ってくれる筈。そうやって意気揚々と旅支度をした、までは良いものの。
「まあ、こればかりはしょうがない」
「うう……僕、ちょっと雨雲を吹き飛ばしてきます」
「こんだけ降ってて、急にここだけ晴れたら妙だろ」
真っ暗に空を覆う、重たい雲。ざあざあと、勢いよく降り続ける雨。ご自慢の窓からは綺麗な景色などちっとも見えなくて、モブはがっくりと肩を落とした。
「今日は、部屋でのんびりしておこうな」
「…………はい」
言って、霊幻がポットで茶を煎れてくれる。モブはそれを受け取って、テーブルにある茶請けの饅頭をひとつ開けた。
「何味?」
「あんこです」
「お、いいね」
霊幻もひとつ、饅頭を食べる。
部屋の中に入ってくるのは、ひたすらに降る雨の音。ざあざあとか、コツコツとか、それらがたくさん降っているんだぞと、嫌でもこちらへ告げてきた。
雨雲を吹き飛ばすという案は、少し本気だ。だけれど本当にそれをやってしまっては、霊幻から怒られるに違いない。観光地で誰が見ているんだか分からない、とかを口にして。
「こういうとこでテレビ点けると、全然知らないローカル番組やってるよな」
「ですね」
「俺、ああいうの見るの好きなんだよ」
テレビのリモコンを操作し、霊幻が番組の一覧を確認した。適当にチャンネルをいくつか回せば、モブも霊幻もまったく知らない番組で画面が止まる。先の言葉のとおり、あえてそれを見ることに決めたのだろう。
モブは一息ついて、霊幻の傍へと寄った。
「…………やっぱり、晴れてたら良かったな」
「ん。そうか?」
「だってせっかく、海の見える部屋にしたのに」
言いながら、そっと霊幻の左手へ指先を絡める。
自分のものよりも細く長い指に一つ一つ触れて――その薬指には、しっかり収まる銀色。数ヶ月前に、モブからプレゼントをしたものだ。一緒にお店へ行って、一緒にどれが良いかを選んだ。当然、モブの左手の薬指にも同じものが収まっている。
「……」
結婚、したんだ。
そんなの、当たり前だ。結婚したのだからこそ、式を挙げて新婚旅行に来ている。霊幻をとうとう捕まえられたからこそ、今ここでこうして、二人並びテレビを見ている。
もともと同棲はしていたけれど、それとはまた少し心持ちが違う。お互いの口約束だけでは決してなくて、周りからも誰からも正式に認められるというのは、やはり心強い。
ハネムーンに訪れて、二人で過ごす。温泉にでも浸かって、豪華な夕餉を食べて、それから。
「…………」
それから。
ちら、と視線だけで寝室を見た。今はドアが閉まっているが、開ければその先では、キングサイズのベッドが居を構えている。
新婚旅行なのだから、つまりそういうことも存分に期待してしまって良いのだろう。まさか早々に、じゃあお休みなどと眠りにつく筈がない、たぶん。モブはごくりと、息を飲み込んだ。
どうにも、いまだに慣れない。
初めて肌を重ねて、もう数年は経っているというのに。それでも毎回、どうにも気持ちが昂ってしまうし、落ち着いて冷静にエスコート、だなんて出来た試しがなかった。
もっと歳を重ねたのなら、落ち着けるのだろうか。いいや、どれだけ時が経ったとしても、その場、その歳相応に、結局心臓は跳ね上がってしまうような気がした。
「モブ」
意識がそちらの方へ向かい悶々としていると、霊幻から声をかけられる。
「……今、やらしいこと考えてたろ」
「か、考えてないです」
「嘘つけ、顔に出てる」
「えっ」
慌てて、首をぶんぶんと横へ振った。それで取れるものでもないのだが、とはいえそのままにしてもいられない。期待をしていないと言えば嘘になるけど、それが最大の目的で新婚旅行へと赴いている訳じゃないのに。
そんなモブの百面相を見て、霊幻は可笑しそうに笑った。先の指摘も、ほとんどが揶揄いを含めてなのだろう。
「さすがに、夜までは我慢な」
「は、はい」
じゃあ、夜は……そういうことだろうか。
モブの体は致し方なくずるずると沈み込んで、そのままごろりと横になった。昼寝の姿勢に入ったことへ気づかれたのか、その格好で寝たら首痛めるぞと、霊幻から座布団を一枚、枕の代わりで渡される。
「……」
外は相変わらず、雨が降り続いている。
ざあざあ降る音と、コツコツ窓を叩く音。加えてテレビから聞こえてくる、ローカル番組の音声を背景にぼんやりしていれば、少しずつ意識が遠退きそう。やがてモブは、うつらうつらとしたまま、瞼を閉じていった。
「モブ、雨止んだぞ」
「…………あめ?」
「そ。止んだ」
時間にして、一時間ほど眠っていたらしい。
霊幻に揺さぶられて、モブはやわやわと目を開ける。視界に入る眩しさは輝く日光ではなく、人工的な部屋の明るさだった。
「ほら」
「あ、本当だ」
窓から外を覗けば、先まで降っていた雨が止んでいる。
けれど快晴とはほど遠い。時間ももう夕方に片足を入れ始めている頃合いで、どう足掻いたって綺麗な景色というやつは明日に持ち越しだった。
「なあ、せっかくだし海行こう」
「でも、そろそろ夕飯ですよ」
「あと三十分くらいは時間あるだろ」
霊幻に促されて、結局はモブも腰をあげた。靴を履きロビーを抜けて、そして外へと歩き出す。ホテルの近くには防波堤があって、そこを越えると、
「海だ」
「海ですね」
辺り一面に、海が広がっていた。
「……綺麗ではないな」
「…………そうですね」
雨が止んだといっても、空はどんより曇って灰色ばかりがのし掛かり、それしか反射のない海もまた、くすんでいる。
たとえばこの瞬間を旅行のパンフレット用に撮ったのなら、間違いなく不採用だ。絵はがきにでもと収めたのなら、受け取った相手は首を傾げるに違いない。そういう景色が、ずうっと遠くにまで続いていた。
霊幻は防波堤に沿って、急ぎもせず止まりもせず歩いていく。モブもまた、その後ろをついて行く。
時折海風が吹いて、霊幻の髪の毛を撫でていった。するとその方向へ、霊幻が顔ごと向けるものだから、なんだか眺めていて眩しい。
「師匠」
「ん?」
「なんか、嬉しそうですね」
前を歩く霊幻が、こちらを振り返る。
「分かる?」
そう一言いって、そこらに落ちている枝を一本拾った。
「嬉しいよ」
「曇っているのに?」
「そう」
木の枝は、意味もなくぶんぶんと振られる。空気を切って、右へ。空気を切って、左へ。尾のように動いたかと思えば突然ぴたりと止まり、代わりに霊幻が、ニッとした笑みを浮かべた。
「おまえも、嬉しいだろ」
「えっと」
そうして、そろそろホテルに戻って夕飯を食べようと、少しだけ歩いた道程を二人で戻る。ふと立ち止まって視線を少し横にずらせば、沈み始めた夕陽と共に、くすんだ波が押し寄せては引いていた。
先に降り続いていた雨の音ではなく、ざざん、と寄せる波の音が聞こえてくる。
「……そうかも」
拍子に、波に運ばれた風が、こちらにまで届いてやってきた。たったそれだけのことなのに、モブは思わず瞳を瞬かせる。
「モブ、行くぞ」
「はい」
綺麗とはほど遠い景色の中で、だけれど二人きり。そんな中で並んで歩いていては、まるでそれらが、嬉しさの理由を、そっと教えてくれるみたいだった。