バレンタイン「ついに、これを使う時が来たか」
中原中也は、眉間にシワを寄せながらひとり呟いた。今日はバレンタインデーだ。それも、元相棒の太宰治と恋人になってから初めての。何がどうなったのか、あれほど嫌いあっていたはずだったのに、気付けば恋人などという関係になっていた。恋人になってからまだ1ヶ月程しか経っていないので、いつまでこの関係を続けられるのか皆目検討がつかない。中也にも太宰にも、「恋人」という実感がまだ湧いていないのだ。そんな状況の中、バレンタインデーは恋人になってから初めて何か出来るイベントだった。だから、中也は張り切っていた。自分たちが「恋だの愛だの口に出すことは似合わない」と思っているものの、こんな関係になってしまった以上、嫌いな気持ち以上に「好き」と思っているのは間違いなかった。お互いそれが分かったからこそ、この関係を受け容れたのだ。恋人になってふわふわした気持ちの中、目前に迫っていたのはバレンタインデーだった。今思えば、通常であればこんなものは買わなかっただろう。恋人になりたてで、あり得ない程浮かれていたのだ。そしてあれこれ迷って、購入してしまった。ハートの形をした、陶器のマグカップを。
「気持ちが落ち着いてから他のを買えば良かったよなァ」
中也は手元のカップを洗いながら見つめる。何度見ても、いかにも「恋人同士で使ってください」と云わんばかりのデザインは変わらない。このマグカップは当然のことながらペアで、色は赤と黒だった。
「ぜってぇ、馬鹿にされる」
普段であればもっと品の良いカップを選んでいたに違いない。中也の趣味を太宰も理解はしているので、こんな、あからさまにハートの形をしているだなんて思いもしないだろう。それでも中也がこのカップを使おうとしたのは、「恋人気分」を味わいたかったからだった。恋人になったからと云って、彼らの生活が劇的に変わったかと云えばそうではなかった。そもそも、お互いが所属する組織の活動時間がズレているのだ。文章でのやり取りは出来ても、中々会える時間はなかった。
今日はホットチョコレートを作る。元々今日は太宰が中也の家に来ることになっていた。先程太宰から最寄り駅に到着したと連絡があったので、チョコレートを刻んでおこうかと思ったのだ。中也は普段から自炊をしているので、包丁さばきはスムーズだった。牛乳も温めてしまおうと鍋に牛乳を注ぎ、火にかけた。
その時、インターホンが鳴った。ポートマフィアの中でもこの家のことを知っているのは五大幹部と首領だけで、唯一の例外は太宰だった。「武装探偵社は今は協力関係の組織にあたるから大丈夫だ」と、太宰に半ば無理矢理中也は説得された。無理矢理と云っても、そうでもしないとすぐに音信不通になって、この関係を続けられなくなると中也は思ったからそうしたのであって、組織の秘密を漏らすつもりは毛頭ない。今までは事務仕事を自宅に持ち帰ってする時もあったが、太宰が来る可能性を考えて、今では仕事を家に持ち帰らないことにしている。待っていた太宰が自宅に来てくれたことを嬉しく思いながら、中也はキッチンから玄関に向かい鍵を開けた。
「ただいま、中也」
「お、おかえり」
照れ臭さが未だに消えなくて、どうしてもぎこちなくなってしまう。それを誤魔化すように中也は「早く手洗ってこい」と云った。太宰は頷いてふふと笑いながら、素直に洗面所へ向かって行った。
中也がキッチンに戻ると、牛乳が沸騰し始めていた。泡立て器で混ぜながら完全に沸騰するのを確認すると、刻んだチョコレートを少しずつ鍋に入れながらかき混ぜた。
「ホットチョコレート?」
手を洗い終えた太宰がキッチンにやって来た。
「おう。カカオ70%のチョコレートにしたから、飲めると思うぜ」
中也は鍋をかき混ぜながら云った。お互い甘すぎるスイーツは苦手だった。
「……他のが良かったか?」
甘いスイーツが苦手ならば、チョコレートでなくても良かったかもしれないと中也は瞬間的に思ってしまった。
「いいや。中也が作ってくれたなら、有り難くいただくさ。嬉しいよ。私が気になったのはこっち」
太宰が指さしたのは例のカップだった。
「笑いたきゃ笑えっ!」
「ははっ、君がこんなあからさまなデザインのカップを選ぶなんてねぇ」
「買っちまったもんはしょうがねェだろ。嫌なら飲むな」
完成したホットチョコレートをカップに注ごうとしていた中也は、その手を止めた。
「怒らないでよ。私も一緒に飲みたいからさ。そのために買ってくれたんだろ?」
「当たり……前だろ」
中也はゆっくりと2つのカップにホットチョコレートを注いだ。
♡♡♡
「うふふ、甘いねぇ」
「……甘い、な」
2人はキッチンから移動し、リビングのソファに腰掛けた。ソファはいつも通りのはずなのに、なぜだかいつもよりフカフカしている気がする。中也はソワソワしていた。2人してハートのマグカップを手にしているし、座る時に太宰は中也を引き寄せたものだから、太宰の体温がいつもより近くにある。おまけに肩を抱き寄せられて、ホットチョコレートの効果も相まって甘い雰囲気が漂っていた。
「これがコイ、ビトってやつなのか」
中也は柄にもなく緊張している。仕事で女性をエスコートするのはよくあることだった。必要ならば、こういう甘い雰囲気を仕組むことだってあったのだ。なのに、太宰相手にこの経験は全く役に立たないらしい。
「そうだよ中也。それにしても、恋人になってからすっごくぎこちないよね。可愛いけど」
「可愛く、なんかねぇし」
中也はもう一口ホットチョコレートを飲んだ。甘い液体が喉を通り過ぎて行ったけれど、緊張は解れそうになかった。むしろ、心拍音がうるさくなっている。これは、どういうことだ。
「中也」
「なんだよ」
「緊張、解してあげるからこっちにおいで?」
太宰は微笑みながらカップをローテーブルに置いて、膝をポンと叩いた。
「何、するんだよ」
「何って、キスだけど」
「なっ、そんなことしたら!」
ただでさえこんなにドキドキしているのに、この男は恋人をどうするつもりなのか。
「緊張する余裕がないくらいに、ね」
こんな時に限って、太宰は真面目な顔をするからタチが悪いのだ。しかも、決定権はいつだって中也にある。太宰は無理に中也を動かそうとはせず、手を差し伸べるだけで止まっていた。
「私とのキスは嫌?」
これは、甘い誘惑だ。キスをしたのは、恋人になった時に一回きり。物理的に会えなかったのも大きいが、太宰も無理に関係を進めようとはしなかった。だから中也は余計に、「自分から一歩踏み出さねば」と思っていたのだ。
「嫌、じゃねぇ」
もう一口ホットチョコレートを飲んでから、カップをテーブルの上に置き、中也は太宰の手を取った。ゆっくり優しく引き寄せられて、太宰の膝の上に乗る。そして、そっと唇を塞がれた。一度だけ触れた唇は、それから一瞬だけ離れる。
「もっと頂戴?」
その言葉に、中也の血が沸騰したように体が熱くなった。相変わらず心臓は今にも破裂しそうだ。馬鹿野郎、と一瞬中也は思ったが、太宰が云った通りすぐに考えられなくなった。角度を変えながら太宰に口付けられる。時々わざとリップ音を立てられて、中也はますます余裕がなくなっていった。下唇を優しく食まれて緩んだ所に太宰の舌が入り込んで来た。口内のチョコレートを全て舐め取るように、歯列をしっかりなぞって行く。中也も余裕がない中、太宰の舌を追いかけた。チョコレートとミルクの香りが鼻に抜ける。終始甘ったるさを感じながらも、気付けば中也も夢中になっていた。
唇を離した頃には、ホットチョコレートの甘い香りが部屋中に広がっていた。
「慣れた?」
「確かに慣れたけどよ」
「進むの早すぎた?」
「いや、大丈夫だ」
中也とて、女性経験はあった。肉体関係まで進んだことだって、実はある。逆に、太宰と恋人になってからがおかしかったのだ。
「どうしたのさ」
「……もっと、キスしたい」
太宰は一瞬ポカンとしたが、すぐに切り替えた。恋人になってからの中也の状態を見て、相当時間が掛かりそうだと覚悟していたのだ。
「ウブな中也も良かったんだけどな。甘いのがお気に召したのかい?」
自分のマグカップを中也に取ってもらい、残りの甘い液体を飲み干した。そして再び、甘い時間が始まった。