God only knows.
あなたについて私に知らないことなんてない。
私はあなたのことを、生まれる前から知っている。
あなたがこの世に生を受けたその日のことを、知っている。まだ閉じたままの瞼と、濡れたちいさい手のひらが光に向かって伸ばされた日のことを、ついこのあいだのことみたいに、覚えている。
あなたは、平凡だけど心優しい家庭にウマ娘として生を受けた。あなたの産声がとてもちいさいので、両親はとても心配していた。あなたのお母さんは、体質の弱いあなたのためにずいぶん苦労をしていたし、あなたのお父さんは仕事で忙しかったけれど、夜、家に帰ってきて、ゆりかごで寝息をたてるあなたの顔を見る瞬間が、この世でもっとも幸せな瞬間だと心から信じていた。
あなたはとびきりかわいくて、とびきり不器用な子どもだった。
人が一日でできるようになることを、同じくできるようになるまで三日かかった。あなたは自分の髪の毛が結べなかったし、ボタンをうまくとめることができなかった。あなたは人よりよく転んだし、よく泣いたし、よく叱られもした。
それでも私はあなたがかわいくてしかたがなかった。
私だけが知っていて、あなたが知らないこともある。
あなたに恋をしていた男の子がいたこと。それは小学校のときで、あなたはそのころにはすっかりおどおどした子どもになっていて、周りの子らによくからかわれては泣いていた。
あなたはその日、おろしたてのワンピースを着て学校に行った。空色の、ふわふわしたその服を、あなたはとても気に入っていた。おりから、天気は正午を境に崩れ始めて、そそっかしいあなたは、家の玄関に傘を置き忘れていた。
下校の時間になって、あなたはようやく傘のことを思い出した。外はどしゃ降りの雨だった。このまま傘をささずに帰れば、ワンピースは見る影もなく汚れてしまうであろうことくらい、あなたにも分かっていた。困り果てたあなたは、いつまでも昇降口で内ばきのまま立ち尽くすばかりで。ほかの子どもたちは、めいめいに黄色やみどりの傘を開いて、駆け足に校舎を出ていくのに、あなただけが、地面に縫い止められた影法師みたいに、そこに立ち続けていた。
彼が、校舎を出るとき、立ち尽くすあなたを怪訝そうに見ていたのを、私は知っている。彼には小さな弟たちがいて、こんな雨の日はとりわけ、子犬みたいにはしゃぎ回る彼らの面倒を見るために家路を急がなければならなかった。けれども彼は戻ってきた。長靴で水溜まりを踏み抜きながら、考えるのはあなたのことだった。重たい雨雲の下、場違いに明るい空色の裾をもう一度、捕まえるころには、彼は全身泥みずくになっていた。
膝をかかえて泣いていたあなたは、濁った色水を頭からぶちまけたような様子の彼を見て、涙を引っ込めた。泥まみれの人物の正体は、やんちゃな男の子集団に属する彼であることを知って、あなたは二重に驚いた。彼はあなたに、無言で傘を差し出した。あなたは意味がわからず、目を白黒させるばかり。焦れた彼は、あなたの腕を引っ張って、濡れた傘をその手に持たせた。そうして勢いよく開いてやった。
あなたはきゃっ、と、声をあげて、それから火がついたように泣き出した。
黒いこうもり傘にはいくつも泥水が乗っており、お気に入りだった空色のワンピースは、またたきの間にまだら模様の布きれに変貌してしまった。あなたは結局、帰りが遅いのを心配した母親から連絡が入るまで、下足箱の前にうずくまって泣き続けていた。だから、泣きじゃくるあなたを必死でなぐさめようとしていた彼が、あの時どんな顔をしていたのかを、あなたはこの先もずっと知らないままなのだろう。
小さくて、泣き虫で、いたいけなだけの生き物だったあなたは、それでも日ごとに大きくなって、いつしか両親のもとを離れて暮らすようになる。いつかテレビで観たあのウマ娘の、キラキラした背中を追いかけて、あなたはトレセン学園の門を叩いた。あなたは最後まで、トレセン学園に入学願書を出すか否かで迷っていた。あなたは後ろ向きな言葉を、身を守るための呪文のように繰り返しつぶやきながら、それでもあの日の輝きを追いかけることを諦めることができなかった。あなたの大いなる不器用さは、それと同じだけの強さを育む糧となった。入学式の日、あなたは緊張のあまり何度も電車を乗り間違えて、式場にたどり着くころにはすっかり気勢をくじかれていた。
そんなあなたに、人生を百八十度変えてしまう出会いがおとずれる。
彼女もまた、あなたと同じウマ娘だった。けれどあなたたちは、性格も見た目も、似ているところなんてひとつもなかった。いわば、ウマ娘であるというただ一つの共通点が、あなたたちを運命というターフの上に引き合わせたのだった。
彼女は、名前をテイエムオペラオーといった。
彼女は、次代のスターたちがひしめく体育館の中で、ひときわ目立っていた。明るい栗毛の髪に、同じ色の耳や尻尾が、高い位置から差し込む光をはじいて、きらめいて見えた。彼女は背丈のわりに、むやみに態度が大きく、発する声は人波をかき分けまっすぐにあなたの耳へ届いた。あなたはすぐに彼女から目が離せなくなって、新入生の列から身を乗り出して彼女の背中を追いかけた。
あとは、あなたも知る通り。マイクの配線に足を取られた彼女は、新入生、在校生、来賓の見守るなか盛大にひっくり返り、そして、高笑いとともに立ち上がった。あなたの両親は、あなたの不器用なところも愛していたけれど、あなたはあなた自身のことが好きではなかった。自分のことが好きになれないあなたは、代わりにキラキラと輝くものを愛した。瞬間、あのとき見た光と同じほどの、……否、それ以上の衝撃があなたをつらぬいた。彼女があなたにとってかけがえのない存在になるまで、それほど時間はかからなかった。
時の流れは矢のように過ぎ去り、あなたはとうとうウマ娘としてメイクデビューの日を迎える。とはいえ、あなたの身体はまだ本格化を迎えておらず、なかなか思うように結果を出すことができない。
けれどあなたは、実のところ、そんな煮え切らない日々にどこかで安住し、満足していた。結果にこそ結びつかないが、大きな怪我もアクシデントもなく、それなりの舞台でそれなりの走りができている。幸いあなたの周りには、あなたを理解し、支えてくれる仲間たちがいた。彼らと一緒にいられれば、あなたは幸せ。そもそもが、人前に立って自己主張をしたり、誰かを押しのけて注目を浴びたりするのが苦手なたちなのだ。だから、なるべく目立たないところで、舞台のすみのほうで、見苦しくない程度に行儀よくしていられればいい。あなたはあなたの作り出した偽りの安寧に腰かけるばかりで、その脚は歩みながら止まっているようなものだった。私はあなたの心の奥底に眠る、本当の願いを引っ張り出して目の前に突きつけてやりたかった。でも、できなかった。私はあなたのことをなんでも知っている。けれど、どうあっても私はあなたにはなれず、それゆえに、私にはあなたを見守ることしかできないのだ。
そんなあなたに、何度目かの転機がおとずれる。
あなたはいつものように、彼女——テイエムオペラオーの背を追いかけて、ついに捉えきれないままレースを終えた。ゲートインの前後から降り出した雨は、レースが終わるころには本降りになり、激走を終えて肩で息つくウマ娘たちの全身をあっという間に水浸しにした。
入着したウマ娘は、レース後速やかにライブ会場に移動してウイニングライブを行わなければならない。あなたは手の甲で、すっかり雨粒と区別のつかなくなった汗をぬぐいながら、地下バ道に足を向けようとする。向けようとして、立ち止まった。
彼女は軽く顎を上向け、両手をだらりと脇に落としながら、重たい灰色の空を睨みつけるようにしてそこに佇んでいた。あなたはそんな彼女を見て、きゅうっと胸を締めつけられたようになる。電光掲示板に映る表示は確かに一着を示している。今、ここで、彼女は文句のつけようもなく勝者なのだ。それなのに、彼女は、満足とはまるで程遠い表情で、悔しげに曇天を睨めつけている。
これでは駄目だ、こんな走りでは。口にこそしなかったが、彼女の横顔は彼女の不満足を如実に映して燃えるようだった。ざあざあと篠突く雨を全身に受けながら、あなたの中に萌していたのは、恥ずかしい、という感情だった。こみ上げてきた熱が頬を焼く一瞬の間、あなたは呼吸さえ忘れた。雨にけぶる視界の中、若木のように伸びた凛とした背中を、直視することができない。
思えば、あの日あなたは、ウマ娘としてもう一度生まれ直したのだと思う。あなたの小さな、けれど偉大な再生を、私はただじっと見つめていた。あなたの変化に気づいた人間はごく少数だったけれど、あなたの足取りは、以前よりもずっと軽やかで、力強くて、切実なものになっていた。そうしてまた、走り出す。
宝塚記念。
オールカマー。
ジャパンカップ、そして有馬記念。
日経賞に、春の天皇賞……。
あなたは走って、走って、走って、走ったけれど、そうするほどに、目指す輝きは足下から遠ざかっていくような気がした。
もがき、足をもつれさせながら、あなたは自問自答する。
私はなんのために走るのだろう?
憧れに追いつくためだ。たった一度のレースで、人生が変わることだってある。かつて、私がテレビの液晶の向こうに夢を見たように。この道の先に、目指す自分の姿が見つかるかもしれない。
でも、だけど。あの背中に追いつくなんて大それたこと、私にできるのだろうか?
きっと無理だ。このままでは、いくら走っても、走り続けても、憧れの後ろ姿を捕まえることすらできないだろう。
でも、それでも。諦められない。諦めたくない。
できない。捨てたくない。自信がない。届くはずない。私なんか。でも、だけど、それでも私は、私は、……。
あなたは走る。何度地に伏しても、そのたび立ち上がり、きっと前を見据えて脚を動かす。
走りながら、あなたは考える。
憂鬱な雨の日、灰色の倦怠を吹き飛ばすためにできることは何だろう?
空に向かって叫んでみる? どうか雨よ、やみたまえ!
私は英雄でも超人でもないから、降り出した雨を止めることなんてできない。
手を合わせて祈ってみる?
願いだけで現実が変えられるなら、誰だってそうしてる。ならば何か、雨をしのぐものが必要だ。
濡れないように、傘を差し出してみる?
あるいは、そこにいたら濡れてしまうと、軒下から声をかけてみたら?
——でも、きっと彼女は、それでは満足しないだろう。
あの日あなたが、雨に濡れた背中を見送りながら考えていたこと。
私は、あなたと同じ痛みを味わいたい。
同じ景色を、見ていたい。
…………そこを誰にも、ゆずりたくない!
勝利は格別な味だった。
ゴール板を駆け抜けたあなたの視界を遮るものは、何もない。
悔しげな、それでいて晴れやかな表情で近寄ってきた彼女を、あなたは力いっぱい抱き締めた。抱き締めている側の自分が、かえって苦しくなるくらいに、ひたすら、ずっと。
憧れを捕まえたあなたの胸にこみ上げてくるのは、清々しいほどにぽかりと透明な、愛しさだった。まるで雨上がりの空のようなそれを、けして手放さないように、あなたは腕に力を込める。輝くものが好きなのは、それを見上げている間だけは、自分もキラキラと眩しいなにかに近づけているような気がするからだった。
でも、それももう、必要ない。あなたはもはや、この先も永遠に、叶わない憧れに思いわずらうことはしないだろう。なぜって——
輝くものはみな、あなたの腕のなかに、すべて揃っていたから。
……私の知りうるあなたの物語にも、そろそろ終わりが近づいている。
トゥインクル・シリーズを駆け抜けたあなたは、同じだけの速さで残された学園生活を駆け抜けた。そうして季節がめぐり、あなたは次なるステージに進む。
思えば、あなたが自分の意志で生まれ直したその日から、私とあなたのつながりは少しずつ弱く、あえかなものになっていった。あなたが自分で選択し、進むべき道を定めることは私にとって喜びであり、かすかな痛みでもあった。
あなたはテイエムオペラオーというウマ娘を、この世界と自分自身におけるたったひとりを選び取り、そうして愛した。テイエムオペラオーもまた、あなたを力いっぱい愛し返した。
内気で、不器用で、泣き虫で、そのくせ変なところで図太くて、好きになる相手の趣味がいいとはお世辞にも言えなくて、苦しくなるくらい優しいあなたをひとりでいかせるのは、ほんとうに心苦しいけれど。
けれど、何かを決めるのが得意でなかったあなたが、大いなる勇気でもって一歩を踏み出したように、私も自分の意志で、自分の行くべき道を選び取らなくてはならないのだろう。
今がきっと、その時なのだ。
寂しい。離れたくない。もっとずっと見守っていたい。
私とあなたのためだけのゆりかごで、いつまでもまどろんでいたい。
だけどきっと、今のあなたなら、私が見ていなくても、ひとりでなんとかやってみせるのだろう。
私はそれが寂しくて。
悔しくて。
けれどどうしようもなく、嬉しいのだ。
スマホアプリに伝言を残して、あの人を呼び出した。
送信ボタンを押してしまってから、ぐんぐんと後悔がこみ上げてくる。
私はこれから、一世一代の告白をする。それは、これからの私と、彼女の人生を変えてしまうような、大きな大きな告白だ。
人気のない教室の窓際に立ち、そっと窓枠に手をかける。
窓の外では、膨らみかけの桜のつぼみが、どこか誇らしげに、淡い空へと手を差し伸ばしている。いかにも晴れがましい景色を眺めながら、私の心は浮き立つどころか、いっそう不吉な想像に囚われるばかりだった。
空の高いところに、ちぎれ飛ぶ浮雲がひとつ。
いかにも軽くて、頼りなげなその姿に、うっかり自分を重ねてしまい、私はまた深いため息をついた。
未定の未来が、ありったけの果てしなさで、頭上に立ちこめているような錯覚。今日、この学園を卒業すれば、私が子どもでいられる最後の猶予期間は、いよいよ終わりを迎える。心地よいゆりかごを後にしたなら、その先は、選択と決断の連続だ。無数に開かれた可能性から一つを選び取ることの、なんと困難で、足のすくむような思いのすることか! その先に待っている未来も、後悔も、絶望すらも、自分で引き受けて歩いていくのだ。
ぶるりと身体に震えが走る。ここに入学した時の私なら、想像の重さに押しつぶされて、何かを期待することもあきらめてしまっていただろう。
けれど私はもう、以前の私ではない。私は大きく息を吸い込んで、恐れを振り払うように顔を上げた。
自分でなにかを決めることは、とても恐いことだけれど、選択に値するだけのものが、必ずこの手のなかに残る。
失敗を引き当てたら、もう一度、何度だって、引きなおせばいいのだ。
諦めが悪いことだけが、私のたったひとつの取り柄なのだから。
窓も開いていないのに、不思議と温かい風が、ふわりと緑色のカーテンを揺らした。
教室の扉の向こうに、誰かが立っている。
私はその人に、私の決断を伝えるために、窓枠に置いていた手を離した。
それから、駆け出すように教室を後にした。