トロイメライアンコール昔、砂漠で男を助けたことがある。
まだ自分も幼かった事もあり、あまり多くを覚えていないが倒れていた男に食事と水を分けた。最初は宝盗団やエルマイト旅団の一員かもしれないと冷や汗をかいたが、そんな僕を気遣ってか助けてくれたお礼と渡されたものがある。
「はいこれ、いい子の証だ。」
大きな手から渡されたそれは、金色のシンプルなピンキーリングであり、装飾品を人から貰った事の無い僕は手放しで喜んだ記憶がある。
どの指もサイズが合わず困っている僕のために、どこからか革で出来た紐を取りだして勲章のように首にかけてくれたことも鮮明に思い出せる。
その日の夜は、あのころの僕にとって短い夜だった。
会話も酷く弾んで、今思えば彼もどこかで学者として名を馳せた人だったのかもしれない。
しかし結局、名前を教えて貰えないどころか顔すら見せず夜明けと共に僕に背を向け去ってしまった。
それから僕は思い出と共に、リングを肌身離さず持ち歩き続けた。後に出会ったアルハイゼンに何度か邪魔では無いのかと何度か外す事を薦められたが、僕は『いい子の証』を手放す気にはならなかった。それはあの頃の僕にとって誇りであり、支えだったからだ。
しかし、色々あって服の内側へ隠すようになった。
それでもアルハイゼンは、どこか不満げにしていたけれど…僕があの夜の事を話せば仕方無さげに話を切り上げていたっけ。
そんな、僕と共に生きてきたリングを今日も首にかける。
通して貰った紐は何度が切れてしまってチェーンに変わってしまったが、自分の胸元であの頃と何一つ変わらない輝きを放っていた。
「君のそれは装飾過多では?
シャツと揃いの首の飾りの邪魔だろう。」
そう、何年も経ったのにも関わらず今になってもアルハイゼンはまだこのリングが気に入らないらしい。カーヴェは一週間のうちに何度か耳にするその不満に、クスクスと笑いをこぼす。
「全く君ってやつは……しつこいぞ、どうしてそこまで僕の装飾品に興味があるのか検討がつかないな。」
アルハイゼンは言葉に、カーヴェの首にかかったリングに視線をやれば顔を顰めた。
「見るからに高価そうな物を見せびらかすのは、トラブルに繋がると教えてくれていると思ってくれて構わない。
それに、君は学生だった頃に何度か先輩達に呼び出され生意気だとつめられた事を忘れてしまっているようだ。今ここで思い出せる様に親切心で思い出す事をおすすめする。」
カーヴェは嫌な記憶を掘り起こされ、怒りの拳を握りながらも何とか歪な笑顔を浮かべたままアルハイゼンに反論した。
「ふんっ、今の僕は大人だ。それに、何度もじゃない一度きりだ。それからは僕だって隠してたさ。
書記官ともあろう君も記憶が曖昧になるんだな、新しい発見だ覚えておくとしよう。」
「酒を飲む度に記憶を失い、自分の醜態を忘れる先輩には敵いませんよ。」
言葉の応酬というより、売り言葉に買い言葉だ。
カーヴェは朝から最悪だと悪態をつきながら、アルハイゼンに背を向けた。
誰だって気分を害してくる相手がいるのなら少しでも離れたいと思うはずだ。ましてや朝という一日の初めを飾る時間は誰だって強くそう望むだろう。
歯を食いしばりながらそんな事を考えつつ、カーヴェはドカドカと大きな足音を立てリビングへ向かった。
ソファーの後ろの棚に飾られたドライフラワーを見てホッと息をつく。窓を開け、形を崩さないように埃を慎重に払っていけば、ゆっくりと心も落ち着きを取り戻していく。
しかし奇妙な話ではあるがカーヴェは、このドライフラワーを見るとどうしてもアルハイゼンが憎みきれない。
アルハイゼンは覚えていないだろうが、この花をドライフラワーにするにあたってカーヴェは初めての挑戦に夢中になっていた。しかし、仕事でかなりの日数を空ける出張が入ってしまい、半ば諦めつつも心苦しく思っていたのだ。
だが、家に帰ってみればどうだろうか?
綺麗に完成したドライフラワーがカーヴェの部屋に置いてあったのだ。アルハイゼンに聞けば「勝手に枯れていた」「邪魔だから君の部屋に置いた」と言い頑として認める事は無かったが、彼が毎日のように窓を開け、風を入れ面倒を見てくれていたのは、何よりも明確にドライフラワーのその出来栄えこそが教えてくれていた。
「またその枯れた花か。」
思い耽っていたカーヴェは、覗き込んでくるアルハイゼンとの距離の近さに驚きつつも、ドライフラワーを枯れた花と呼ぶそのアルハイゼンの幼さに可愛らしさを覚えてしまい笑いが止まらなくなってしまいそうだった。
「これはドライフラワーだ!
全く、君って奴は……仕方が無いな。リューカデンドロンっていう花でつくられたものなんだ。そうだ今度、咲いてる時に二人で見に行こう……とても綺麗だから。」
正直アルハイゼンが花に興味があるとは思わないが、少しでもその約束がきっと以前のようにとは行かないが二人の関係もより穏やかに……そして思い出がアルハイゼンの人生の彩りとして添えられるかもしれないと、ドライフラワーを男に見せながらカーヴェは、アルハイゼンの顔を覗き込み笑みを浮かべた。
それに対してアルハイゼンは、昔から太陽よりも眩しい笑顔に弱く、花には少しも興味が無かったが...美しい物に心を踊らせるカーヴェが見たいと、二つ返事で了承した。
「……うん、いいよ。」
なんて気の抜けた返事だと、アルハイゼン自身もおもったが、自分がただ子供のように頷き、受け入れる。それをさせられる相手が、この世界でカーヴェ以外にいない事を当の本人は知る由もないのだから、アルハイゼンの方こそ笑ってしまいそうになるというものだ。
「本当に?約束だぞアルハイゼン!」
アルハイゼンはカーヴェが見たいと言っていた花が、その笑顔よりも美しいとは思わない。
何よりも彼の全てが美しく、眩いばかりの光を放っては自分の世界を照らし続けている。だからこそ、守らなくてはならない。いつか自分の手を離れると理解していても、彼のこの輝きを少しでも...。
「あぁ、いつか君がツケで酒を飲まなくなったらな。」
カーヴェの表情は一転し、口元のあがっていた口角はぎこちなくなっており顔には「君って奴は」と既に書いてあるように見える。アルハイゼンはすぐさま踵を返し、玄関へ向かう。ヘッドホンをしているとはいえ、耳元で大きな声を出されてはたまらないからだ。
「ア〜ル〜ハイゼンッ~!!君って奴はッ〜!!!!!」
追いかけてきそうな勢いだと、アルハイゼンは笑い声を押し殺しきれないまま玄関から家を飛び出した。
もう少しからかっても良かったが、何事もやり過ぎは良くない事をアルハイゼンは理解している。
帰ったらきっと、小言をいわれるに違いない。何年もこうしているというのに、アレも俺も飽きないものだと自分の口角が小さく上がったのを感じた。
閉じた扉を見つめる、相手も笑いを堪えているかもしれないと少し間が空いてから閉まった鍵に思わず耐えられず僕も笑ってしまった。
きっと帰れば小言でもいわれると思っている相手に、何を話そうかと考える。アルハイゼンが買ってきたコーヒー豆がやっぱり合わない話か、それとも朝話してた花の話……考えれば存外にも二人には話す事が多い気がする。不思議なものだ、あんなにも傷つけ合って突き放した相手だというのに、こうして心を許してしまいそうになる。存外、それも悪くない気がする。
嗚呼...人生とは、本当に先の見えない旅みたいなものだ。
その旅の終わりをなんと呼ぶかは人それぞれだが……僕はそれが家と呼びたい。心を温め、身を包むような優しい帰る場所....僕という人間はそう願ってやまない。
「なぁメラック、あいつに……アルハイゼンにごめんって伝える事が出来たら僕達は何か変われるのかな。」
カーヴェを手伝おうと近くを浮遊していたメラックへ、そう問いかける。言葉を持たないメラックだがカーヴェの言葉に答えるようにピポピポと嬉しそうに彼の周りをクルクルと回った。
「いつか、言えるといいな...
僕とアルハイゼンが仲直り出来たら、それこそ皆で旅行でもしようか。見て欲しい景色も、食べて欲しいものも、沢山あるもんな...」
カーヴェは、メラックを抱き締めた。日差しで温められた体は金属の冷たさに触れ、少しずつ高揚した気分を落ち着かせていく。今日のような時間を過ごすと、こうして少し期待してしまうのだ。
「いつか、いつかな……」
自分に言い聞かせるように、カーヴェはメラックに話しかける。胸の中で小さくピポ……と響いたが、カーヴェはまだその冷たさを必要として手放そうとはしなかった。
しばらくして、カーヴェは深く深呼吸をし出掛ける準備をした。特に用事は無いが、家にずっと篭っているというのはどうしても性に合わないのだ。
髪を整え、少しだけ顔に色をのせる。アルハイゼンの様に目立つものでは無いが、カーヴェのそれは顔色をよく見せクライアントへ良い印象を持たす為でもあった。もちろん、カーヴェの美への意識がそうさせるものもあるが。
最後の仕上げと言わんばかりに真紅の外套を羽織る。そして、外の音へ聞き耳を立てながらこそこそと家を後にするのだ。
シティを散策するのもカーヴェの気分転換のひとつだが、花の話をしたのもありアビディアの森辺りにでも行き、いくつかの種類を摘んで持ち帰ろうとカーヴェはシティに背を向ける。
歩みを進めれば喧騒は遠く離れ穏やかな空間が広がっていた。川のせせらぎ、子鳥のさえずり、風が草木を撫で愛でている。今なら太陽の燃える音すら聞こえてしまいそうだと、カーヴェは土の香りが濃くなる方へ足を運んだ。
ガンダルヴァー村を通り過ぎようとした時、カーヴェは背後から自分の名前を大きく呼ぶ声に気付き、振り向けば大きな耳が視界いっぱいに広がった。
「ティナリ?どうしたんだ、そんなに慌てて.....」
少し息を整えながら、呼び止めたティナリは眉をひそめながらカーヴェの腕を掴む。
「この先に行くの?」
切羽詰まる様子のティナリに、取り敢えず水を飲むように水の入った皮袋を渡す。
「あぁ、でもアルカサルザライパレスの手前まで行くけど...それがどうかしたのか?」
「子供が昨日の夜から行方不明なんだ、家族と喧嘩してそのまま飛び出したっきり帰ってこないって……」
カーヴェはそれを聞いた途端、渡した皮袋の存在すら忘れて走り出した。背中にティナリの何かを叫んでいる声が聞こえたが、カーヴェの耳には入らなかった。
それもそのはず、アルカサルザライパレスへの道はエルマイト旅団がよくたむろしている。彼らは常に、ドリーの積荷を狙っているのだ。そんな場所を子供が一人で出歩いて無事でいられる場所ではない事をカーヴェはよく知っている。
慣れ親しんだ道も何だか今日はどこか静か過ぎると、なんとか息を切らし道をたどっていく。
ふと忘れていた崖下も見なければと、道から視線をずらせば耳元で風を斬る音がした。恐る恐る耳に触れれば、まだ体についているものの少し切れ血が出ていた。
短く呼吸を繰り返しながらも、自らの剣を手に呼び振り向く。ニヤニヤと下品な笑みを浮かべる相手に思わず柄を握る手に力が入るのを感じる。
男に子供を知らないか?とは聞く事はしなかった、背後で脅えて動けずにいる子供と既に目が合っていたからだ。
「その子を家に返してやれ。」
カーヴェの言葉に男は答えることなく、品定めをするかのように手にした双剣をくるくると弄ぶのみだ。
つまり、従うつもりがないのだ。ならばこちらも、武力を行使するのみだと、カーヴェは先手を選び勢い良く地を踏み出す。
大剣をグンッと振り回し、その遠心力で相手の双剣を塞ぐ。火花を立てる押し合う刃から目を離すことなく「走れ!家に帰るんだ!」「誰にも捕まるな!!」と子供に叫ぶ。カーヴェの声を聞いた事で恐怖が紛れたのか、子供は地面を蹴った。振り返ること無く走り、真っ直ぐにその背中は遠くなっていった。
カーヴェは離れていく足音にそれでいいと、双剣を弾き男から一歩引いたが、男はその間をまるで瞬間移動でもしたかのような勢いで近ずき驚くカーヴェの腹を蹴り飛ばした。そのまま双剣の切っ先をカーヴェの太ももへ深く突き刺そうと、狙う。防ぐにはカーヴェの大剣では間に合わない。最悪な事に突き飛ばされた衝撃で、上手く避けることも叶わない。カーヴェはその刃を受け入れ次の反撃の為、歯を食いしばったが突然現れた緑の閃光が男の一撃を弾いた。
カーヴェは第三者の訪れに驚きつつも、激しい刃のぶつかり合う金属音が戦闘への集中力を保たせる。
どうしていいか分からないまま、剣に身を潜めるように構えもう一人を観察する。それはボロボロのマントを頭から被り、顔は見えることがなかったがカーヴェは一瞬見えた草元素の神の目と男の戦い方、それに手にしていた武器でそれが確かに自分と朝別れたルームメイトだと気づく。
「アルハイゼンなのか、」
だが突然現れたアルハイゼンの出で立ちは、過去に一度...確かに別人としてカーヴェの記憶にあるものであった。
そう、砂漠で昔助けた礼にリングを渡してきたその男の姿そのものだったのだ。
「カーヴェ油断するな、剣を持ち直せ。」
聞き馴染んだものより深みのある声が、カーヴェにもう一度剣を強く握らせた。前を向き、アルハイゼンが双剣を押し止めているのを見た瞬間、カーヴェは勢い良くアルハイゼンの背中めがけ走り出し、メラックの力も借りながら高く飛び上がる。
途中アルハイゼンの背中を蹴ったような気がしたが、カーヴェはそのまま男の頭部を大剣で叩きつけた。
ガァンっと金属特有の音が響き、男は膝から崩れ落ちた。倒れたまま砂になる男に微かな侘しさを感じつつも、状況を切り抜けた事に安堵した。
「まさか踏み台にされるとはな。」
アルハイゼンが目元以外を布で覆い隠した顔を近づけながらそっと覗き込む。カーヴェは距離のその近さからわっと驚き、思わず尻もちを着いた。
「驚かすなんて酷いじゃないか!」
愉快そうに肩を揺れを隠す事もせず、アルハイゼンはカーヴェに手を差し出した。
しかし、カーヴェは仕返しと言わんばかりにその手を力いっぱい引きアルハイゼンと二人、地面へ転がった。それから二人の中には静寂だけが満ちた。何も口にしなかったのだ、ただ流れる雲を見つめ、風の音だけを聞いていた。
少しだけ指の先が当たり、カーヴェはアルハイゼンの指先が微かに震えていることに気がついた。なにかしてやれないかと、カーヴェは羞恥心を殺して、アルハイゼンの手をそっと握った。
カーヴェの行動が功を奏したのか、アルハイゼンの手の震えは止まり、手を握った時の氷のような冷たさは温かさを取り戻していた。
アルハイゼンは落ち着いたのか、ポツポツとこの奇妙な出来事について話し出した。
「俺が君の影を追うようになってから人生は酷く虚しくなった。君...いやカーヴェは、最後の力を使い夢の中で俺に会いに来てくれた。そこで俺達は約束したんだ。
結局、それを守ることは最後までできなかったが。」
カーヴェは彼が自分の運命を濁しながら話している事に気がついた。アルハイゼンらしくないバレバレな言い方であったが、それほどまでに自分の身に起きたそれが彼の人生を狂わせたと、まるで知らしめられるようであった。
「君は彼と、どんな約束をしたんだ?」
カーヴェは敢えて自分と彼のカーヴェを切り離した、彼がそうしたように。自分もそうしなくてはいけないと思ったからだ。
「最後まで、君の事を想い生きると。」
嗚呼、それは我儘で傲慢で、高望みで...僕が喜びそうな約束だ。彼はそんな身勝手な僕との約束を果たそうとしたのか。でも、確かに僕達がしそうな約束だとまるで他人事のようにぼんやりと鳥が飛んで行くのを眺める。
それでも、カーヴェは考えを口にする事はしなかった...出来なかったのだ。涙が溢れて、今にも嗚咽が出てしまいそうなのを必死で飲み続けていて。
「カーヴェは、俺を責めると思うか?」
迷子の子供の様なその問いにカーヴェは「責めるよ」となんとか口にした。そのまま何度か嗚咽を押さえ込み、必死に言葉を続けた。
「怒ってとにかく疲れるまで怒って、泣いて、君を強く抱き締めて、君を追い詰めたこと、世界を捨てさせたこと、数え切れないけど、全部にごめんって謝るに決まってる。」
アルハイゼンの手を強く握りしめる。もしここに彼の僕がいたら熱を分けてやりたいとそうするに決まっているからだ。
本当は抱きしめてもあげたいけど、それは僕の役目では無いと世界が、これ以上の干渉を受けないように僕の体は強く地面に縫い付けられているように動かない。
「俺の我儘に巻き込んですまない。
最後に君の姿が見たくなった俺の欲目だ。会わずに済む方法が他にもあった。
...きっとすぐに、俺が来る。
君の記憶は曖昧になるか消えてしまうかもしれないが、一つ賭けがしたい。」
アルハイゼンは上体を起こし、カーヴェの横に手紙を置いた。
「これを読まずに、土に埋めて欲しい。
結局全て俺の我儘なんだが、どうか最後の願いだ...叶えて欲しい。俺が...いや、俺達が生きた証を残したいんだ。」
カーヴェはその願いの重さに打ちひしがれながらも、口を開いたが、言葉は音にもならずなんとか短くうなづいた。
「話せなくなってしまったか.....という事は俺に待ち望んだ時間が来るという事だ。
ならば最後に先程の言葉を否定させて欲しい、君は世界を捨てさせてしまったと言っていたがそれは違う。
俺の世界は君なくして、成り立つことはない。
望んでいた世界こそが、俺の夢になった...それだけの話なんだよ。」
アルハイゼンがカーヴェに微笑む、彼の体は淡く光だし足先から小さな粒子のように空へ消えていく。
カーヴェはそれを見ているだけで済ましたくなかった。奥歯をかみ締め、止めるアルハイゼンの言葉を無視してなんとか体を起こす。体中からバキりと嫌な音がしたがそんなのお構い無しに腕を上げ力強くアルハイゼンを抱き締めた。
彼がそうだったように、カーヴェもアルハイゼンをひとり寂しく逝かせたくはなかったのだ。だから強く抱きしめる。
この後に、きっと彼の僕に抱きしめられると分かっていても、今目の前にいるアルハイゼンに対して少しの後悔も残したくなかったのだ。
「カーヴェ、あぁ...カーヴェだ。」
自分を呼んでいるのか、はたまた彼を呼んでいるのか分からないが...カーヴェと名前を呼ぶ声は次第に朧気になっていく。
男が最後の光になっとき、カーヴェはようやく息を精一杯の力を振り絞って声を上げて泣いた。
彼がこの日を迎えるまで、どんな禁忌を犯したのか今となっては知る事も出来ないが、彼の祈望は今日という奇跡を起こした。
その奇跡は、彼の夢を現実にし、彼を夢にしてしまった。
彼を愛していたと叫ぶように。
後ろから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。随分彼らしくない足音だ。
そんなことを考えながらもカーヴェは手元を探り何とか、手紙を掴み忘れることの無いように足音の主が来る前にメラックに持たせた。
「カーヴェ!」
あぁ、ほらやっぱりアルハイゼンだ。良かった、今とても君に会いたかったんだ。
カーヴェはそんなことを思いながら、意識を手放した。
アルハイゼンは、目の前で倒れたカーヴェに対してずっと名前を呼んでいた。何度肩を揺らしても目を覚まさないカーヴェを診るため、ティナリは「怪我人をゆらさないで!」とアルハイゼンとカーヴェの間に割り込むように入り諌めたが彼が本来の落ち着気を取り戻すことは無かった。
「ほらカーヴェは眠っているだけだから、安心して。」
ティナリはアルハイゼンの手をカーヴェの穏やかに上下する胸に置かせた。本当なら怪我人の体に触れさせる様な事はさせないのだが、アルハイゼンのあまりの取り乱しように今回は例外だ。
「...すまないティナリ、君の指示に従おう。」
取り乱していたアルハイゼンだったが、彼の心音に安堵し、ようやく普段の冷静さを瞳に宿した。
その様子にティナリもホッと胸をなでおろし、ようやく二人はガンダルヴァー村へと向った。
それからカーヴェが意識を取り戻すのは一日もかからなかった。ティナリは、診察をしていく中で彼の骨に所々ヒビが入っている事に気がついた。まさかと思い、ティナリはそのままカーヴェの口の中も診れば、やはり痛みに耐えようとしたせいか、奥歯が欠けボロボロになっている。
「うーん、暫くはここに居てもらった方が助かるかな...
君の骨の所々にヒビが入っているから、動いて欲しくないし、奥歯も治した方がいいからね。」
横たわったままのカーヴェがティナリに申し訳なさそうな顔を浮かべながら謝罪を口にし、そのまま不甲斐なさから目を伏せた。
「やめてよ、カーヴェが謝ることじゃないんだから...
それに謝るのは君をすぐに追いかけられなかった僕の方だ。」
ティナリは包帯が巻かれているカーヴェの体を申し訳なさそうに見つめる。彼の商売道具である手は折れてしまって頑丈に固定されていた。
カーヴェはそんなティナリの視線に気づき、笑顔を浮かべながら穏やかに話し始めた。
「それを言うなら、君の話を聞かずに飛び出した僕もだな?な、ティナリ...子供は助かったんだ。今はそれを心から喜ぼうじゃないか。」
カーヴェは、ティナリと目が合い励ましのつもりでウィンクを飛ばしたが、当のティナリは不服そうに言葉を続けようとした。
しかし、カーヴェは今度こそ確かな意志を持って首を振り最後までティナリの謝罪を受け取ろうとはしなかった。
「ティナリもよく言うだろ、僕達は友達で...助け合う必要があるって...だからもう、この話はおしまいだ。
それに、沢山話したら喉が渇いてしまった...ティナリ、飲み物を貰っても構わないかい?」
にっこりと笑うカーヴェに、やはり年の功という言葉があるように敵わないとティナリは両手を上げた。
「分かったよ...今取ってくるからカーヴェはそのまま休んでて。絶対起き上がっちゃダメだからね!」
ティナリが椅子から立ち上がり、カーヴェは一人部屋に取り残れぼんやりと天井を見上げる。
耳には鳥のさえずりに、下を流れる水の音すら微かに聞こえる。窓の向こうは日が沈み暗くなってしまったが、何一つ変わらないものばかりが体に重たくのしかかってくるのを感じて思わず泣いてしまいそうになる。
ここで泣いてしまえば、戻ってきたティナリを心配させてしまうとキツく目を閉じたというのに、涙が止まることは無かった。
せめて目元を拭う事で、誤魔化せないかと痛みに耐えながら腕をあげようとすれば、そっと誰かに止められる。
驚きから目を開ければ、どこか凪いだような表情を浮かべたアルハイゼンが顔を覗き込んでいた。
「君の大切なものだ。」
そう言葉にしてアルハイゼンが見せたのは、チェーンが通されたあのリングであった。
「君を運んでから気がついた。探すのに少し手間取ったが、やはり戻って正解だった。」
アルハイゼンは微笑みながらカーヴェの首にそれをかけてやる。カーヴェはそれよりも男の頭と腕に巻かれた包帯から目を動かせずにいた。
視線の先に気づいたアルハイゼンは、「気にするな。」とカーヴェの目を手のひらで覆った。
「俺で良かった、その状態の君だったらと思うといくつ心臓があっても足りない。」
だから大丈夫だと、アルハイゼンはカーヴェの頭を優しく撫でる。その手のひらの温かさに耐えられなくなったカーヴェは泣いてしまった。
現金なヤツだと思われてしまっても、アルハイゼンの愛を知ってからカーヴェはその全てに愛を感じ、優しさだと分かってしまうのだ。こんな答えから来るものが良くないと思っていても、それを抑えられる術を知らないまま、この身に注がれる愛に歓喜するように泣いてしまうのだ。
「アルハイゼン、僕、ずっと君に護られてたんだ...」
アルハイゼンはカーヴェがどうしてそんな事を言うのかが分からずにいた。自分は彼を守る事が出来なかった、だからこそこんな怪我を負っているのだ。
「ごめん、ごめんな。」
困惑するアルハイゼンにカーヴェは、ひたすら謝った。
アルハイゼンの愛を勝手に知ってごめん、ごめんと、カーヴェは言い続けた。
もしかしたらそうする事で、あのアルハイゼンにも謝っていると思いたかったのかもしれない。
「何故、謝る?」
珍しく顔に疑問の念を浮かべるアルハイゼンに、カーヴェはただ涙に濡れた顔になんとか笑顔をうかべる。
「どうしてだろう、アルハイゼン。どうしてだろうな...」
カーヴェは自分の身に起きたことを話す事が出来なかった。
「リング、ありがとう。」
アルハイゼンの瞳をじっと見つめそう言うことしか出来なかった。
「あぁ。」
アルハイゼンも、それ以上の追求はしなかった。
カーヴェの瞳に宿る寂しさが、冷たく暗いものというよりも、悲しげにしつつも温かさを感じるような、そんな気がしたからであった。
あの日から数週間が過ぎ、カーヴェはティナリに感謝を伝え、一人でガンダルヴァー村を後にした。
いつもの日常に溢れる音を聞きながら、色を眺めながら、変わらない全てを全身に受け止めながら歩きながら考える。
あのアルハイゼンは記憶が無くなってしまうかもしれないと話していたが、結局カーヴェの中からそれは薄れることも無かった。むしろ焼き付いたようにその全てをカーヴェは覚えていた。
「帰ったら、君の願いを叶えてやらなきゃな。」
独り言を言いながら手紙の入っているメラックを撫でる。
場所はもう既に見当がついている、その為の準備もティナリに手伝ってもらい万全だ。なんだかんだあのアルハイゼンも僕かどこへ埋めるか分かっていて手紙なんて渡したんだろう。
忘れると言ったのも、僕に釘をさしていただけなのかもと、カーヴェは悪態をつきそうになったが、そのぐらいの贅沢は許されなくちゃなと、ふぅと小さく息を吐いた。
僕の死という運命が変わってこれから先、本当の意味で誰も知らないまっさらな日々がやってくる。
だが僕達の今のしがらみがどうなっていくかは、僕達次第でしかない。
当然だけど、僕は彼の気持ちをカンニングした程度で態度を変えるつもりは無い。
それに、応える覚悟も何も持ち合わせてない僕が哀れみだけで彼の感情に寄り添うなんて...そんな事は許されない。それはあのアルハイゼンに対しても、今の彼に対しても侮辱するようなものだ。
それでも、ほんの少し素直になってもいいのかもしれないと思える。
僕の中の問題と向き合ってもいいと思えるのだ。それは確かに、アルハイゼンという存在がそうさせたことは認めてもいいと僕は思う。
だから、だから...君達が眠る場所は此処で良いと僕は思う。
ゆっくりとカーヴェは家の鍵を回す。
カチャリと心地の良い音がひびき、ドアノブを引けばコーヒーを飲みながら本を読む仏頂面のアルハイゼンと目が合う。
「ただいま」
「おかえり」
後ろに飾ってあるドライフラワーにホコリが被っている様子はない。カーヴェはもう、それだけで自分の選択が正しいと思うには充分であると思った。
部屋で作業するよりこちらのが早いと、リビングにリネン布を敷きその上に陶器で出来た白と柔らかな緑に彩られた植木鉢を置く。
麻袋に分けられた土を敷き、その中に封が閉じられたままの手紙と、あの日アルハイゼンから渡されたリングと共に入れてやる。そしてそれらを隠すように、植木鉢いっぱいに土を詰めた。
それを持ち上げようとすれば、アルハイゼンがわざとらしく音を立てながら本を閉じた。
「君が時折、俺の想像も及ばないような行動をする事は理解しているが...まさかここまでとはな。」
浅慮だと指摘された事に苛立ち言い返そうとカーヴェは口を開けたが、それはアルハイゼンが土の詰まった植木鉢をカーヴェの代わりに持ち上げたことで、大人しく口を閉じたのであった。
「君は病み上がりの自覚が無いと教えてあげているんだ。」
はぁと大きな溜息をつきながらも、アルハイゼンはカーヴェの指示を待っているようであった。
自分の覚悟をひっくりかえしてしまいそうだと、胸が逸る音を聞きながらカーヴェは書斎の日が良く当たる場所を指さした。
素直にアルハイゼンは机の横にそれを置き、カーヴェの代わりに散らかした床を片した。
「何を、埋めたか聞いても構わないか?」
アルハイゼンの言葉に、カーヴェはうんと答える。
「種さ、きっとすぐに芽吹くよアルハイゼン。」
その言葉にアルハイゼンは、真っ直ぐとした態度でカーヴェを見据えながら微笑んだ。
「あぁ、待ち遠しいな。」
すっと、カーヴェの土で汚れた手をアルハイゼンが掴んだ。
「気長に待ってくれてもいいんだぞ。」
その言葉にアルハイゼンの握る力は少しだけ強くなる。
「構わない、君が生きていてくれるなら...君が君らしくいられるのなら俺はそれでもいい。
ただ、俺は足踏みを続けて後悔するのが恐ろしくなった。」
カーヴェはその言葉に強くその手を握り返した。
「ちゃんと育つかな。」
カーヴェは自分の弱さに不甲斐なさを感じる。
カーヴェが「やっぱり、」と言葉を撤回しようとした時、アルハイゼンが手を引き、ゆっくりと包むようにカーヴェを腕の中に閉じ込めた。
背に回された腕の強さが、嫌になるほどカーヴェにアルハイゼンの想いの強さを教える。
「俺は諦めが悪いからな、何度でも種を用意するよ。」
カーヴェが今までの人生において感情に突き動かされて人を抱き締めたのは、二回。
あの日のアルハイゼンを抱きしめた一回と、今日の一回だ。
「僕も、咲くまで君といたいと思う。」
自分は幸せになっていいと、その確かな一歩をアルハイゼンと共に歩み出したい。
「あぁ、俺はいつまでも待つ自信がある。君に関しては、君が思ってるよりもずっと気長だ。」
いくつかの花弁は風と共に消え、また新たな季節と共にどこかで咲き誇るのだろう。
カーヴェは木の幹に背を預けながら、ぼんやりとその全てを見ていた。眠気に誘われるまま、少し眠ろうとまぶたを閉じようとした時、隣に誰かが勢いよく座った。
驚きのあまり勢いよく目を開け横を見れば、高い鼻に、キュッと結ばれた口元、忘れることのない月のような煌めきを放つ風に揺れる銀の髪…世界で一番、愛おしいアルハイゼンの横顔であった。
「君との約束を守れなかった。」
深く項垂れた男は、きっと泣きそうになっているに違いない。カーヴェはそんなところが放っておけないなと思いながら、アルハイゼンへ肩を寄せた。
「あぁ、知ってる。
まさかとは思ってたけど、君が僕の為にタイムマシーンなんてものを作った時は驚きのあまりひっくり返ってしまったよ。」
ふわふわとした触り心地の良い髪を撫でながら、カーヴェはアルハイゼンの言葉を待った。その間も、穏やかに流れる風を感じながら。
「……種は長い時をも越え未来に咲くことが出来る。ならば、人も時を越えられるはずだと思っただけだ。
君の亡くなった数年後に、ドライフラワーから芽が出た時は驚いた。だが俺には、それが希望に見えたんだ。」
「僕の処理が甘かった事と、君が面倒を見なくなった事が要因で起きたものだね。まさかそこから着想を得るとは、流石アルハイゼンだ。」
朗らかな声に褒められ、アルハイゼンは涙で濡れた顔を上げる。おずおずと手を伸ばしカーヴェを抱きしめ、彼が光のように消えていかないことを確かめながら少しずつ力を強めていった。
そのうちカーヴェの肩は濡れて冷たくなっていたが、アルハイゼンに背負わせた悲しみや虚しさを思えば、疎ましく思う事など出来ない。
「君は、本来ならあの場で終わっていた僕の運命を変えるために、あの指輪を通して身に降りかかる筈だった火の粉を払ってくれていた。運命が変わる事で、より早く訪れてしまう運命からも遠ざける為に……」
カーヴェはアルハイゼンの頭を抱きかかえるように、彼を抱きしめた。その為に一人ぼっちを選んだアルハイゼンに今できる精一杯であった。
「君の為なら、それでいいと思った。あの世界の全てが無かった事になったとしても、君と生きる未来が俺は欲しかった。
君の生きてる世界に生きたかった、帰りたかったんだ…。」
木から別れた枝の先を変える事は容易ではない。
また新たな枝の先を得る為には、今育っている枝を折らなくてはならない...そんな事をすれば折れた枝は地に落ち、土に戻ってしまう。
そう...アルハイゼンは、自分の世界の枝を折ったのだ。彼の生きている先を得るために。
「あぁでも、君はやんちゃ坊主だからな……またどこかで、人の話も聞かずまた飛び出してしまうかもしれない。
まったく、俺の人生がいくつあっても足りないな……。」
グズグズと泣きながら、照れくさそうに自分を突き放しながら悪態をつくアルハイゼンにどこか器用さを感じつつもカーヴェは笑った。
「それこそ大丈夫さ。
僕のアレはもう性格の一部で、癖のようなものだけど……
君の存在がきっと僕を臆病にさせる、その臆病さが僕を守ってくれるよ。」
カーヴェは目の前にあるアルハイゼンの頬を優しく手のひらでつつみ、ちゅっと音を立てながらアルハイゼンにキスをした。
「アルハイゼン、ありがとう。
君を待つ時間も悪いものじゃなかったけど、僕もやっぱり君がそばにいる日々を過ごす方が大好きだ。」
アルハイゼンもカーヴェの涙に濡れている頬に手を添え、コツりと額を当てた。
「あぁ、俺も……約束を破ってよかった。
君に逢いたかった...。」
ふくふくと柔らかそうな頬を持ち上げながら笑うカーヴェに、思わずアルハイゼンの口角も持ち上がる。
行き場を失った二人の意識は、二人だけの穏やかな夢の世界で朝を待つこと無く永遠の愛を描きながら揺蕩い続ける。