その言葉覚えておけよ 月並みな表現だけど、真っ白なドレスを身に纏ってはにかみながら笑うその人はこの世の何よりも綺麗だった。女神様なんてものが本当にいるのなら、多分こんな姿をしているんだろう、たぶん。
本当なら今日このウェディングドレスを着て俺の隣に立つ女の人はあんずさんではなく、今回の仕事で初めて名前を耳にしたような駆け出しのモデルの人であるはずだった。渋滞だか体調不良だか知らないけれどやんごとなき理由で突然撮影に来られないという連絡が入ったのが数時間前。代役を今から手配するほどの余裕はなかったため、撮影の様子を見学していただけのあんずさんが急遽モデルを務めることになった。女性のモデルは手の先や後ろ姿しか映らない撮影で良かったと思う。たまたま現場にいる丁度いい歳の女性があんずさんくらいしかいなくて良かったと思う。本当に。
「ちょっと恥ずかしいね」
困ったように笑う彼女は終始あまり乗り気ではなかったようだった。長いドレスの裾を何度もそわそわと確認しながら、早く脱いでしまいたいと言いたげである。顔は映らないからってメイクはそのままいつも通りの質素なビジネス用だけど、髪も指先も無頓着な普段の格好からは考えられないくらいかわいくしてもらったのに。アップにして編み込んでもらったヘアスタイルも、控えめなラメグラデーションに飾られた爪もとっても綺麗なのに。
「え〜、すっごく綺麗だよ? 惚れ直しちゃいそうっ」
冗談だと受け取られたらしいその言葉にも控えめに微笑むだけだ。表舞台に立つことをあまり好まない人だからこういう仕事に気が乗らないのはわからないでもないけど、可愛く着飾っているときくらいもう少し浮かれていればいいのに。
「お仕事放っぽっちゃった」
「今日はただの見学でしょ? そんなやらなきゃいけないことあったの?」
「挨拶回りとか色々……」
モデルの代理だって今この場で一番必要とされている重役だというのに、それでは満足できなかったらしい。プロデューサー意識が高くて何よりである。ウエディングドレス、一生に二度も着れるなんてお得じゃん——そう言いかけて、ようやくあんずさんの表情の理由を察する。
「……もしかして、お嫁に行くのが遅れちゃう〜って気にしてるの?」
「そ、そんなんじゃないもん」
当たりらしい。撮影で腕を組んだときも両手で頬を包んだときも変わらなかった顔がぱっと赤く染まる。
「ふ〜ん、あんずさんお嫁に行きたいんだ?」
「そ、それは私だって……、ああでも、ううん、どうなんだろ……」
「だいじょ〜ぶ、あんずさんが行き遅れたら俺がもらってあげるよ」
「ひなたくんにそんなことさせないよ」
なんだよそんなことって。在庫処理じゃあるまいし。このESにはそのドレスを着たあんたの隣に立ちたいって思ってる男が腐るほどいるんだって、この人だけが知らない。行き遅れるはずがない。いつだってあんずさんが望めばすぐに指輪と婚姻届を持って飛んでくるアイドルがいるだろうに。
そんなことを考えているうちに写真のチェックを終えた監督とカメラマンからOKの声がかかる。撮影スタッフのお疲れ様ですの合唱が始まって、隣のあんずさんはわかりやすく安堵の表情を浮かべていた。
「私着替えてくるね。せめてご挨拶だけでもしたいし」
いそいそとスタジオを離れようとする態度に腹が立って。思わずレースのグローブに包まれた手首を掴んだ。もうちょっと堪能させてほしい。こんな機会、きっと二度目はない。俺はそのままあんずさんの腕をぐいぐい引っ張って、あんずさんのサポートとしてESから出向いていたもう一人のプロデューサーに声をかける。
「スマホ持ってません?」
俺のは控え室の鞄の中に入れっぱなしだった。いつもスマホを手放さないあんずさんだってさすがに、ウェディングドレスじゃあそれを入れておくポケットもないだろう。
ありますけど、と彼は答える。せっかくだから写真撮りたくて、でも俺のスマホ控え室なので一枚だけ撮ってくれませんか? と首を傾げた。こういうとき天真爛漫な少年っぽいキャラは得だ。大抵の大人は微笑ましいなあって顔をして、いいよってにこやかな顔をしてくれる。いかめしい顔をしたおじさんとかが相手だとちょっと難しいときもあるけれど。案の定お兄さんはしょうがないなあって笑いながらジャケットの胸ポケットから取り出して、「俺が撮る? 自分で撮りたい?」とまで聞いてくれた。今日はツいてる。このお兄さん、名前と顔を覚えておこう。
彼の好意をありがたく頂戴して、ロックのかかったままカメラが起動したスマホを受け取る。逃げ腰になったあんずさんにさっきも散々撮ったじゃんとその腰を引っ掴んでスマホを掲げた。インカメラの画面に困り顔のあんずさんの顔が映る。
「ちゃんと笑ってくれなきゃ撮れないよ? 挨拶回りの時間なくなっちゃうけど」
「で、でも」
いつまでもあんずさんが渋っているのでムッと眉が寄る。何を気にしているのか知らないけど、この人は時々頑固だ。腕が疲れてきたので強迫の方向性は諦めて、密着した体を離そうとぐいぐいと押し返してくるあんずさんの腰をぐいと引き寄せた。
「ウェディングドレス着たかわいいあんずさんとの写真、欲しいなあ〜。朝早くから撮影頑張ったのになあ」
耳元に甘えた声を吹き込めば、あんずさんは体をびっと硬直させてから渋々といった様子で「……一枚だけだよ」とカメラを見上げた。結局この人は面白いほどに、年下のおねだりにはとことん弱い。形作られた笑顔は少々ぎこちないけれど、この辺りが落とし所だろうなあとシャッターボタンを押す。
ブラウンのアイシャドウのビジネスメイク。背景に映り込んだ撮影機材。バストアップだけが写った自撮り。ちょっと困ったように眉の下がった笑顔。俺が撮れるのは、せいぜいこれが限界だ。
「それ、そのうちちゃんと消してね」
スマホの壁紙に設定したその写真を眺めていると、不意に隣に座るあんずさんから声がかかる。運転中だからこっちは見ていない。横顔はちょっと不満げに唇を尖らせているのがわかりやすかった。ドレスもヴェールもとっくに脱ぎ捨てて、いつものグレーのスーツでハンドルを握っている。髪はいつものひとつ結びに直してもらったみたいだけど、ストレートに戻してもらえなかったくるくるの毛先だけ違和感があってなんだか可笑しかった。
「……みんなに見せびらかして満足したらね」
「そんなの見せないでよ……」
そんなのってなんだよ、失礼だな。前撮りしてきましたってデマも一緒に言いふらしてしてやろうか。
「行き遅れるってまだ気にしてるの?」
「してない」
「じゃあなんでそんなに拗ねてんのさ」
前の信号が黄色に変わったので、車はゆっくりと停車した。あんずさんがじろりとこっちを一瞥する。
「……だって」
「だって?」
もごもごと言い淀むあんずさんに早く、とせっつきたくなるのをどうにか堪える。そのうち信号は青になって、あんずさんは正面に顔を戻した。心なしか顔がちょっと赤い。え? 照れる要素なんかあった?
「なんで照れてるの?」
「だって……」
だって何、と口をついて出た。あんずさんの口がきゅっと惹き結ばれて、それから諦めたようにおずおずと唇を開いた。
「メイク、いつものままだったのに」
「……メイク?」
「せっかくドレスなのに」
あんなの、写真に撮らなくても、と続く声は消え入りそうだ。
「……ふ〜〜〜〜〜ん」
「な、なに」
「せっかくかわいいウェディングドレス姿なら可愛くお化粧して撮りたかったんだ?」
「だって、それは」
「へ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
じわじわと赤く染まる顔を、背けることも隠すこともできないから運転中とはなんとも都合がいい。そうだよねえ、やっぱり一番可愛い顔で写真撮りたかったよねえと続ければ小さな肩がぷるぷると震えだす。
「じゃあ次はもっと綺麗にして撮ろうね」
別にお化粧なんかどうだってあんずさんはわりと綺麗だけれど。でもせっかくなら満面の笑みの写真が欲しい。あんずさんの一番綺麗な姿で、今度は堂々と笑って腕を組んで欲しい。
「……次があったらね」
「あんずさんが行き遅れてくれないかなあ」
「ひ、ひどい」
「やっぱり気にしてたんじゃん」
ケラケラと笑ってやればまた口を尖らせて、ついでに頬も膨らませた。いらない心配ばっかしやがって。腹立つなあ。するとあんずさんは一瞬だけこっちを一瞥して、勝ち誇ったように笑ってこう言い放った。
「……じゃあひなたくんが四十歳とかになっても彼女いなかったら責任とってもらおうかな」
「…………………………………………言ったな?」