偽装婚カヲシン⑩「荷物が届いたら、また声をかけるから休んでいていいよ」
カヲルさんの言葉の通り、それから三時間後くらいに起こされた。寝る気はなかったんだけど、やっぱり疲れていたみたいでカヲルさんが部屋から出ていってからすぐに寝てしまったらしい。頬をつんつん啄かれる感触で目が覚めた。
ハッと目を見開くと真上にカヲルさんの顔があって驚く。だから距離が近いんだって……寝起きに超絶美形は心臓に悪すぎだよ。ドキドキしながら布団で顔を隠した僕を見てカヲルさんが笑った。
「よく寝ていたね。荷物が届いたんだけど起きれるかい? 手伝おうか?」
「じ、自分でっ! ……起きますから!」
「遠慮しなくていいのに」
急いで起き上がった僕に向かって、カヲルさんは残念そうに笑いながら手を伸ばした。過保護過ぎて恥ずかしい。だけど、悪い気はしなかった。だって身体が不調な原因の半分はカヲルさんだし……。差し出された手を取ると物凄く嬉しそうな顔をされたから。
「立てそうかな?」
「……たぶん」
前に起きた時よりも足の感覚は戻っている。股関節とお尻の違和感は相変わらずだけど。立てなかったらまたカヲルさんに抱っこされるんだろうな、と思えば何がなんでも立って歩こうと思えた。カヲルさんの手を支えにしてベッドから立ち上がる。一瞬よろけたものの、何とか歩けそうでホッとした。
それでもカヲルさんの腕に支えられながらだったけど。僕の気持ちを察してか「運ぼうか?」とは言われなかった。場所をリビングに移して、僕は近くにあったソファーに座ることになった。
その前のテーブルにある山積みになっているダンボール箱が物凄く主張するように視界に入ってくる。もしかして。違うと思いたかったけど、そうもいかないようだ。ダンボールに描かれているロゴは、昨日見たカタログに印刷されていたのと同じもの。
「あの、このダンボールは……?」
「もちろん、シンジ君の着る服だよ」
「数着って……言ってませんでしたっけ?」
僕の頭の中に浮かぶ『数着』は多くて三、四着のなんだけども。僕の目の前には巨大なダンボールが三箱積まれている。
あ、もしかして、この中の二着くらいが僕の服で残りがカヲルさんの服という可能性もなくはないはず。僕なんかが『TABRIS』の服を普段着にするなんて考えられないし。
「確かに、そう言ったね。やはりこれだけじゃ少なかったかな……」
「……えっ!?」
「外出着と部屋着と、明日着るスーツ。時間がなくて有り合わせの物を購入したけど、今度きちんとオーダーして作ってもらうつもりだよ」
「スーツ……オーダー……?」
「それから下着に靴下、靴。僕の物はサイズが合わないだろうから新品でも使えないしね。すぐに必要そうな物は用意したけれど、足りなければ教えて欲しいな」
ダンボールの中身を見るのが怖い。怖いけど、僕を喜ばせようとしてくれたカヲルさんの気持ちを考えたら開けない訳にはいかなくなった。こんなにたくさん、僕の物を用意してもらったのは初めてだったし、申し訳ないのと同じくらいに嬉しいと思ってしまった。
「シンジ君ならどれも似合うと思ったから数を絞るのに苦労したよ」
「数を絞っ……た……?」
「ああ、急だったからね。遅れてあと三箱くらい届くはずだから」
「ひっ、……そんなにたくさん。……似合うかどうかもわからないのに。……あの……でも、ありがとうございます」
僕が照れながら笑うと、カヲルさんも笑ってくれた。それが嬉しい。僕のことを考えてくれたんだと思うと、勘違いだとわかってるのに嬉しくなってしまう。いけないいけない。調子に乗らないように気をつけないと。
「明日着る服は、すぐに着れるようにしてるから」
これだよ、と言ってカヲルさんが袋に包まれた服を持ってきてくれた。僕の目の前で袋を外して用意した服を見せてくれる。濃い青のスーツ。よく見るとチェックの柄が入っている。滑らかな肌触りで、とても綺麗だと思う……けど、これめちゃめちゃ高そう。
「このスーツに身を包んだシンジ君の姿……とても美しいだろうね」
「そっ、そうかなぁ……僕には大人っぽ過ぎるような気もするけど」
スーツ姿の僕を想像したのか、カヲルさんはうっとりと目を閉じていた。
結局、僕の足腰の回復のため出掛けることは出来なくて、カヲルさんと一日中ゆっくり過ごした。一緒に居られるのは嬉しいけど、移動しようとする度に支えてもらって何だか申し訳ない。カヲルさんは「気にしないで」と言ってくれて、「頼ってくれて嬉しいよ」と微笑まれると何も言えなくなった。
カヲルさんが用意してくれた服を整理しながら、僕はふと思ったことを口にする。そう言えば、家政婦さんの姿を今日も見なかったなと思って。
「……あの、カヲルさん。家政婦さんって、いつも来る訳じゃないんですか?」
「家政婦? ……ああ、実は契約が切れたんだ。早めに次の人を探してもらっているんだけどね。見つかるまで片付けとか洗濯とか少し不便になるけれど、大丈夫かい?」
「そ、それなら! ……僕、簡単な料理とか掃除洗濯くらいなら出来ます……!」
これだ! と思った。お金がないなら、身体で払えばいいんだ。僕に出来ることと言えば家事くらいだし。そりゃ、プロレベルの家事を求められたら困るけど。
「お世話になってるので、僕がしたらダメですか……?」
次の人が見つかるまでの間だけでも役に立てたら良いのに。僕は祈るような気持ちで、じっとカヲルさんを見つめた。
カヲルさんは優しいから懇願すれば受け入れてくれるだろうと思ったりもしたけど。僕の目論見通りカヲルさんは心配しながらも頷いてくれた。
「とても助かるけど、無理はしなくていいからね。君を迎え入れたのは、家事をしてもらうためでは無いんだから」
偽の婚約者役以外で期待されてないことくらい知ってるけど、何も出来ないと思われるのも何となく嫌な感じがした。カヲルさんの役に立って驚かせたいし、褒めてもらいたいと思う。
「分かってますよ。家事も頑張るし、明日はカヲルさんの婚約者として、精一杯やってみます」
「……そうだね。ありのままの君でいてくれればいいよ。シンジ君は魅力的だから祖父も気に入るだろうし。君のことは、僕が必ず守るから」
本当は不安でいっぱいだった僕がその言葉に素直に頷けたのは、僕を見つめるカヲルさんの瞳がとても真っ直ぐで、美しかったからだ。全てを信じられるほど彼のことを知っていないくせに。どうしてか、信じたいと思った。
◇◇◇
物凄く緊張している。
カヲルさんが用意してくれた衣装に袖を通して、僕は鏡を見た。深い青色の立派なスーツはやっぱり僕には勿体ないくらいの代物で、身の程を知るって大切なことだと思った。
鏡に映る顔もいつも以上に冴えない。今日は大切な日だって言うのに。いや、失敗出来ない大切な日だからこそ胃が痛い。本当に痛くなってきて、胸の当たりを押さえているとノック音がした。
「準備は出来たかい?」
「あ、はい」
返事をするとドアが開いてカヲルさんが姿を現す。カヲルさんも着替えが終わったのかな。僕の格好を見てガッカリしないでくれると良いんだけど。鏡から視線を外してドアの方を向いた瞬間、時が止まった。
ネイビーのスーツに身を包んだカヲルさんの姿に見惚れてしまったせいだ。ストライプの浮かんだすらりとした細身のスーツはカヲルさんにとても似合っている。大人っぽくて、お洒落。足が長くてモデルみたいに格好良い。なんで、これで恋人いないの?
「シンジ君?」
「……え」
「どうしたんだい? ボーっとして」
心配そうな顔で近づいてくるカヲルさんにドキッと胸が高鳴った。思わず口から「格好良い」と飛び出そうになって慌てて口を塞ぐ。格好良いのは本当のことだから、褒め言葉が出てくるのは当然なのに急に恥ずかしくなった。するとその動きを見たカヲルさんが眉をひそめ、僕の方へと更に一歩近づいてくる。
「顔色が悪いようだね。もう少し休息が必要だったのに、無理をさせてすまない」
「い、え……大丈夫。あっ、歩けるので! 平気……です」
どうやら気分が悪そうに見えたらしい。確かに胃が痛いし、実は昨日もカヲルさんと一緒のベッドで寝たから、ちょっと寝不足ではあるけど。この前みたいな恋人がするような行為はなくて、ただ寄り添うようにして寝ただけで何も無かった。
本当に、何もされなかった。背中を撫でられたり、起きた時、また腕枕されてたりしたけども。何もなかったけど……あんなことしちゃった後なんだから側にいるだけで意識してしまうのは当然だと思う。
カヲルさんにとっては大したことないのかもしれないけどさ。他人との接触に免疫がなさすぎて、僕だけが常にドキドキしている気がする。俯きかけた僕の顔に向かってゆっくり伸ばされた指先が頬に触れた。今度は顔が熱くなる。青くなったり赤くなったり忙しすぎだ。
「……あの、本当に、大丈夫なので…………ん、っ」
頬を撫でる手が熱を持った耳朶に触れる。感触を確かめるみたいにふにふにと摘まれて肩がぴくんと震えた。何か、触り方のせいで色々思い出しちゃいそう……。一瞬このまま触られても良いかな、って思ってしまったけどチラッと時計が見えた。
「っ、カヲルさん……あのう……時間とか大丈夫なんですか?」
カヲルさんのお祖父さんと会う約束の時間は確か昼だって言ってた。時計の針はもう十一時を指している。待ち合わせ場所がどこかも知らないけど、急がないといけないんじゃないかな……。
「少しくらい待たせても問題ないと思うけどね」
背の高いカヲルさんを見ようとすると自然と上向きになる。お祖父さんに婚約を認めて貰わないといけないのに、失礼なことしてもいいのだろうか。じっと見つめているとカヲルさんが苦笑した。
「カヲルさん」
「……シンジ君は真面目なんだね」
「僕は、普通だと思いますけど」
出来れば行きたくないというのが本音。だけど、契約した訳だし……だったら嫌なことは早く済ませたいというか。僕が見上げた時計に視線を向けてカヲルさんが小さく息を吐いた。まさに渋々、といった感じで。カヲルさんも行きたくないのかな。
「……仕方ないね。準備は出来ているかな?」
「はい」
僕がこくんと頷くと同時にカヲルさんが僕の手を取った。左手を取られたまま目を丸くする僕の前でカヲルさんが微笑む。何? 何かあった?
出かけなきゃいけないのに、どうして僕は手を握られてるんだろう? カヲルさんの大きな手が僕の手を掬い上げるようにして自分の方へ引き寄せた。
「シンジ君。そのスーツとても似合っているよ。目が眩んでしまうくらいに素敵だ」
「そんな、大袈裟ですよ……。カヲルさんが選んでくれたスーツが立派だから」
「そんなことはないよ」
指を絡めるように握られてるドキッとする。指先に熱が集まっていくみたいで火照った。
「最後の仕上げだ。……本当はこんな形で大切な君の薬指を占拠するのは申し訳ないけれど、我慢して欲しい」
そう言ってカヲルさんがポケットから何かを取り出す。カヲルさんの指に摘まれたそれは、銀色に光っていた。それが指輪だとすぐに分かる。
左手を恭しく持ち上げられて、銀色の指輪が薬指に通された。きつくも緩くもない、誂えたようにぴったりサイズのシンプルな銀色の指輪には赤色の石がはめ込まれていた。それが光に反射してキラキラ輝く。まるでカヲルさんの瞳のような色。
「これって……?」
「婚約指輪だよ。僕達に必要な物だから、付けていてくれるかな」
「……は、はい……っ」
薬指でキラキラしている指輪を夢中で見てたのが恥ずかしくなって慌てて返事をする。僕は偽物なんだから、これは僕のじゃないのに。借り物の指輪にちょっと喜んだりして、バカみたいだ。
ギュッと手を握ると、いつもとは違う硬い感触がする。これは後で返さないといけない大切な物だから絶対になくしたりしないように気をつけなきゃ。
「シンジ君。一つ、お願いがあるんだけど……いいかな?」
「何ですか?」
カヲルさんから僕にお願いなんて、何があったんだろう。見つめているとカヲルさんがまたポケットに手を突っ込んだ。そして取り出したものを僕の掌に乗せる。銀色の指輪だ。
僕がしているのより少し大きいのと、はめ込まれている石が青色だという違いがあるくらいでデザインが全く同じもの。そうか婚約指輪は二つで一つだもんね……。
「これを僕の指にはめてくれないかな」
「わ、分かりました」
それくらいなら僕にも出来る。本当の婚約ではないから緊張なんてしなくて良い。ただ指輪をはめてあげるだけ。
頷いて目の前に差し出された大きな手を取った。銀色の指輪をカヲルさんの薬指にそっとはめる。こんな簡単な動作なのに、僕の手は汗をかいて震えていた。
「ありがとう、シンジ君」
カヲルさんが指輪のはまった手を眩しそうに見つめている。その嬉しそうな表情を見て、僕は嬉しいような寂しいような、不思議な気持ちになった。