偽装婚カヲシン④あったかい。ぼんやりとした意識の中で、僕は全身を包み込む温もりを感じていた。お風呂上がり、そのまま寝てしまったせいで冷えた身体。それを温めるようと丸くなる背中を誰かに撫でられている。
誰かって、誰? この世に僕を抱きしめてくれるような人はもういないのに。母さんも父さんももういなくて、親戚にも捨てられた。
……僕は独りだ。でも、辛くなんてない。一人でいることにはもう慣れたから。それなのに、どうしてか目の辺りが熱くなる。寝ているのか起きているのか、はっきりとしない意識の中。僕は溢れてくる涙の存在を感じた。
「……泣いているのかい?」
知らない人の声。それから頬を撫でていく感触に、僕は夢から現実にゆっくりと戻ってきた。重たいままの瞼を持ち上げると、仄かな明かりの中に人の姿が映る。僕を覗き込んでくる赤い目がきらきらして綺麗だと思った。
「…………だれ?」
「シンジ君、忘れてしまったのかい? 渚だよ。君の恋人だろう?」
「……な……ぎさ、さん?」
「そうだよ。ごめん、起こしてしまったね。……泣いていたようだったから」
噛み砕くように名前を呼ぶと、スリスリと頬を撫でられた。まだ頭がぼーっとしてるみたいで、状況が上手く把握できない。何度か瞬きをしながら、目の前の人物を見た。
美術の本で見るような綺麗な人だけど、誰だったっけ。そもそも僕に恋人なんていたことあった? 悲しいことにそんな事実は一度もない。じゃあ、僕に優しく触れてくるこの人は誰? そこまで考えてようやく目が覚め、思い出す。
「……なぎさ、さん。……僕、確かリビングで寝ちゃって……」
「うん。風邪をひくといけないから、僕がベッドに運んだんだ」
「えっと、ありがとうございます。ちゃんと起きてようと思ったんですけど、迷惑をおかけしてすみません」
「いいんだ。今日は色々あって、疲れていたみたいだからね」
自分がふかふかの布団に包まれてベッドで寝ている理由はわかった。だけど、どうして渚さんも同じベッドで一緒に寝ているのか。それは分からない。
記憶の片隅に、部屋を用意してくれたみたいな話をしたことは覚えている。ここがその部屋なのかなと思った。でもそれにしてはベッドが広すぎるような気もする。客室のベッドって普通はシングルとかだと思うし。
「君が眠ってから二時間くらいしか経っていないよ。まだ夜中だ。もうひと眠りするといい」
背中をそろりと撫でられている。普通に受け入れそうになったけど、ちょっと待って。なんで、こんなに近いの?!
眠気なんてすっ飛んで、僕は目を見開く。眼前に迫っていた渚さんの胸を軽く押しながら身動ぎした。
「……あの、聞いてもいいですか?」
「何かな」
「どうして、僕達は一緒に寝てるんでしょうか?」
特に理由もなく、他人と添い寝なんてしたくない。僕だったらそう思う。それだけじゃなく渚さんに抱きしめられていたのは、気のせいじゃない。バクバクと騒ぎ立てる心臓の音を鎮めようと、大きく息を吸った。
「ああ、実は布団が今使っている一組しかなくてね。客室用の布団を買うのを忘れていたんだ。今まで誰かを泊めたこともなかったから」
「そうなんですか……。あの、それなら僕、ソファーで寝ますよ」
「君をソファーなんかで寝させるわけにはいかないよ」
「でも、別に寒くないですし」
時期的にもうそんなに寒くないし、布団がなくても風邪はひかないと思う。元々公園で野宿する気だったのだから、ソファーの方が断然寝心地いいし。
それに、やっぱり渚さんと一緒に寝るのは緊張するというか。知らないまま寝ていられたら良かったんだろうけど、ばっちり目が冴えてしまった今、もう一度寝ろと言われても無理。心臓がうるさくて寝られるわけないよ。
「な、渚さんも僕と一緒より、一人の方がゆっくり休めるんじゃないですか?」
「…………そんなことはないけれど」「え?」
なんだろう今の間は。一瞬だけ渚さんの表情が固まったような気がしたんだけど気のせいかな。今はまた、心配そうな顔で僕を見つめている。
「シンジ君は、僕と一緒が嫌なのかな。だったら僕がソファーにいくよ。それならいいだろう?」
「は? いえ、それは……だめっ」
離れていく手を思わず掴んで引き止めた。早速ベッドから起き上がろうとしている渚さんに待ったをかける。だからどうして、居候の僕にベッドを譲ろうとするの。
「ここは、渚さんの家だから。渚さんがベッドを使ってください」
「僕は君に使って欲しい。シンジ君よりも僕の方が大人で、丈夫だからね」
「そんなの分からないじゃないですか。渚さんだって風邪をひくかもしれない、し」
どうしてこんなに必死になっているんだろうとも思う。子供らしく甘えさせてもらえばいいのに、僕にはそれが出来なかった。
他人の優しさに素直に甘える方法を忘れてしまったからなのだろうか。可愛げがない、と叔父家族に言われた記憶が蘇る。頑なな僕を見て、渚さんもきっとそう思っているだろう。
引き止めるつもりで手を伸ばした僕は、渚さんの腕を引っ張る。すると僕の肩からオーバーサイズのパジャマがずり落ちた。胸元が丸見えだけど隠さなきゃいけないものはないから気にならない。
「シンジ君、僕を困らせないで欲しい」
なかなか引き下がらない僕に渚さんが困った顔になる。僕は居候として当然のことを言っただけで、本当に困らせるつもりじゃなかったのに。渚さんが小さく息を吐いて、彼の手が僕の方へと伸ばされた。
僕は怒られるのかと思って、反射的に目を閉じてしまった。でも当たり前だけど、そうじゃなくて。渚さんは、ずり落ちた僕のパジャマを着せ直してくれただけだった。落ちた肩の部分を持ち上げて直すと渚さんは僕の額を撫でた。優しい感触に少しだけ緊張が解けていくような気がする。
「……困ったな。どうしても譲らないと言うんだね。だとすれば」
「だとすれば……?」
オウム返しに口にすると、渚さんがふと笑った。何かを含んだような笑い方に首を傾げる僕の短い前髪をするりと撫でていく。
「君も僕も、お互いに譲らないのだから、これはもう一緒に寝るしかないだろうね」
「…………う」
「……そんなに僕と眠るのが嫌なのかい? ……少し傷ついてしまうな」
「いやっ、ていうわけじゃ……」
本気で嫌だと言う訳じゃなくて、僕の気持ちの問題だ。目覚めた時、目の前にあの顔があることに心臓が耐えられるか。渚さんのことまだ全然知らないけど、他の人よりは信頼出来ると思っているし。
「本当に? なら、問題はないよね?」
「……は、い」
そうだよね。平行線の二人の主張を無理矢理擦り合わせたら、結局こうなってしまう。一晩だけ、我慢してもらえばいいだけのこと。
「それじゃ、横になろうか」
渚さんの言葉に頷いて、起こしかけた上半身を布団の中に戻す。ほどよい柔らかさの枕に頭を乗せると、布団の上からポンポンと身体を叩かれた。これは……小さな子を寝かしつける動きだ。完全に子供扱いされてる。……別にいいけど。
ちらりと視線を上げると、頬杖をついて僕の方を見ている渚さんと目が合う。どうして僕をじっと見ているんだろう。その眼差しがあまりにも強くて僕はぎゅっと目を閉じた。眠ってしまわないと、気まずい雰囲気から解放されないから。
目を閉じて眠気がやってくるのを待った。だけども、いくら待っても眠気がやってくることはない。思ってた以上に、さっきの睡眠が効いているのか。ただ単に緊張しているのか。
静かな部屋の中で、寄り添うように寝ているから、目を閉じていても渚さんの微かな動きを感じ取ってしまう。もう寝ちゃったかな。僕と一緒に寝ることなんて全然気にしてないみたいだったし。緊張してるのは僕だけなんだ。
ぎゅっと瞼に力を入れながら、羊を数えてみるものの効果なんてあるわけなかった。目を閉じて何分くらい経ったんだろう。もぞもぞと身動ぎすると渚さんの声がした。
「……シンジ君、眠れないのかい?」
「……っ」
急に話しかけられて驚いた。まだ起きてたんだ。このまま寝たフリを続けていても、眠気は永遠にやってこない気がする。僕は観念してそろりと瞼を上げた。目を開けると変わらず渚さんは僕を見ていた。
「……眠れないのなら、話をしないか」
「話って?」
「僕達はお互いのこと、何も知らないだろう?」
そう言えば、色々と教えて欲しいと言ったのは自分だった。演技をするうえで必要なことだと思ったから。だけど話を聞く前に僕が寝入ってしまってそのままだ。
「話したくないのなら、無理にとは言わないけれどね」
「別に、構いませんけど。……あの、渚さん? 何で……じっと見てくるんですか?」
じっと見つめてくる視線が気になって仕方ない。僕の顔に何か付いてる? さっき寝てたし、よだれとか付いてるかな……。ハッとして口元を拭ってみたけれどそうではないらしい。勝手に恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
「シンジ君、名前の呼び方なんだけど……少し変えてみないかい? 僕の名前は知っているだろう?」
「渚、カヲルさん……ですよね?」
歳上の彼を『渚さん』と呼ぶのは当たり前だと思うけど。他に呼び方があっただろうか。
「婚約者なんだから、他人行儀では怪しまれる可能性がある。言葉遣いもね。シンジ君の丁寧な話し方は好ましいけれど、もう少し親しみを込めて話してみてくれないかな」
婚約者ってそういうものなの?確かに仲が良い婚約者だとお祖父さんにアピールした方が効果があるかもしれないけど。どこまで求められているのか分からない。人前でイチャイチャするような恋人を演じろとか言われないよね?
「あの、渚さ」
「カヲルだよ」
「……カヲル、さん?」
訂正させられて呼び直すと渚さん、改めカヲルさんがゆっくりと目を細めた。深まる笑顔に喜びが溢れている。名前を呼んだだけなんだけど、こんなのでいいの。
「もう一度、呼んでくれるかな?」
「……ん、か……カヲルさん」
呼び慣れなくてまだちょっと緊張する。真っ直ぐに見つめてくる赤い目から逃れるように、視線を下に逸らした。すると視界に移動する手が映る。
シーツの上を滑るように移動したカヲルさんの手が僕の顎を撫でていく。長い指が肌を滑る感触に胸がきゅっとなった。これは嫌悪感、じゃなかった。もっと違う、ドキドキして身体が熱くなるような。
知らない人に触られるのなんか嫌なのに、どうしてカヲルさんは平気なんだろう。別の意味で平気じゃないかもだけど。
「もう一度」
カヲルさんが僕の唇を撫でて催促する。指の腹ですりすりと唇を撫でられるのが恥ずかしくて僕は肩を竦めた。何だか空気が変わったような気がして、背筋がざわつく。上手く表現出来ないけど変な感じ。
「……カヲルさん、もういいで……」
唇を触られながら視線を向けると、赤い瞳が目の前に迫っていることが分かった。でも、もう遅い。血のような深い赤が綺麗だな、なんて呑気に考えている時間もなかった。
驚きに見開いた視界に映る赤い目。睫毛が銀色だ、なんて今気にすることじゃない。鼻先が擦れあって、しっとりしてて柔らかい唇が重なった。口と口がぶつかる、初めての感触に一瞬思考が停止する。
「……んっ……んん~~っ!」
なに、なにこれ。なんで? どうして? 僕が、カヲルさんにキスされてるの? 訳わかんないんだけど……! どういう反応をすればいいのか分からなくて、シーツを握りしめて硬直する。カヲルさんの目を見ても何を考えているのかなんて、分かるわけなくて。唇をぎゅっと閉じて時間が過ぎるのを待った。
「……っ、ふぅ…………ぅ」
キスの仕方なんて知らない。気が済んだら離れるだろうと思っていたのに、いつまで経っても唇の感触がなくならない。鼻先が当たるから息をするのも遠慮がちになった。息が、どんどん苦しくなる。
この時、僕はどうしてか少し唇を開いて息を吸うだけなら大丈夫じゃないかと思ってしまった。そして力を緩めて唇を薄く開く、その時を待っていたかのようにカヲルさんの舌が口の中に入ってきた。
「っ、は……ぅっ、んっ、……んゃ、んん~~っ」
ずるりと侵入してきた異物を反射的に拒絶する。掌でカヲルさんの胸を押し、顔を振って逃れようとした。でも顎を掴まれて動かせないし、当然のようにカヲルさんの力の方が強かった。