無題 これは凡人の話だ。だからこの挿話の主人公に名前はいらない。ただ彼の社会上の立場から、新兵とだけ表す。
天災だった。
きゅおおん。きゅおおおおおおん。
空降る鯨が鳴いている。
その声に新兵は目を覚ました。視界はぼやけ、片目は開かない。額が割れているようだ、流れ出る血のせいなら良いのだが。全身を打ち付けた新兵は、なんとか体を起こそうとして、手元にぐにゃりとやわらかい感触を覚えた。彼が手を緩慢に引くと、下敷きにしていたのは同じく新兵の制服を着た男だった。戦いの邪魔にならないようにと、隅に引きずられていた負傷兵たちに、彼は突っ込んでしまったらしい。声をかけようにも相手の意識は飛んでいたし、生きているかも判然としない。それを確かめる気力もない。彼自身も満身創痍であった。
新兵は、血と油にまみれた焦土から、空を見上げる。
彼らは地獄と化した地上など知らぬように、かろやかに戦っていた。刃のきらめきと、神の目のかがやきが彼の目に刺さる。思わず手をかざした。
我々は、我々の死体を積み上げた頂点から手を伸ばしてあえいでいる。彼らは星だ。地上からいくらを積み上げても、天にかかる星に手は届かない。
だから、快哉の声を上げる鯨を目にして、男は願う。どうか我らの慎ましやかな暮らしを破壊しないでくれ、どうかこちらに来ないでくれ。どうか星よ、俺たちに降り注がないでくれ。
しかし彼は知っている。たとえ空の鯨がすべてを破壊しても、それでも天に星は輝いている。その輝きを、またいつまでも、ただ見上げる自分がいるのだろう、と。