チープ・スリル(仮題)- 2『この速さで連絡があったということは、今回の仕事はうまくいかなかったものと察する。とりあえずアジトに帰投してくれ。追って伝える』
ぶつりと音を立てて、通話が切れた。おもわず耳に当てていたスマートフォンをはずして、暁人はまじまじと画面を見つめてしまう。公衆電話からじゃなくても、やっぱりボイスレコーダーなんだな、と奇妙な感動を暁人は覚える。
「相変わらずだな、アイツは……」
「はは」
KKの呆れた声に暁人は笑い返して、しかし、それ以上会話は続かなかった。暁人はスマートフォンをポケットに突っ込んであるき始めた。駅までの道を、おしだまってふたり進む。
冷たくなってきた空気に指がかじかむのを感じた。風を切りながら、当たり前だ、と暁人はひとりごちる。ここはあの日の渋谷とは違う。夜は明けるし日は暮れる。帰路を急ぐ人だっているだろう。ひとりごとをぶつぶつ呟く人物がいれば、ご近所さんからの通報は免れない。
いや、それは言いわけだった。
暁人は唇をかみしめて、つとめてなにも考えないように、足を前へ、前へ、と機械的に進めていった。だけど、思考はもう暁人に制御できずに、ぐるぐると回っていく。
あの日(・・・)から、ふたりの間にはずっと緊張があった。いや、と暁人はそれを否定する。僕だけだ。KKは、静かに見守ってくれている。僕がそのやさしさに甘えて、見ないふりをしているだけだった。
あのとき、彼岸と此岸の境目で。
深く生い茂っているのに奇妙に生気のない幽幻な森につつまれて、両親に真里を託して別れを告げた時、暁人にはもうひとつの別れの予感があった。
それが正しい、と暁人は思った。
あの世と家族に背を向けて、朱い鳥居のつらなる階段を登り始めるまで、暁人は間違いなくそう思っていた。しかし、一段、一段と生者の世界へ近づくたび、未来を歩もうと考えるたびに、暁人のうしろをひたひたと、現実が追いかけてきた。
暁人には、友人がいる。病院の関係者だって優しい。大学の教授も事情をわかっていた。なによりも、亡くなった人たちから受け取ったものがあった。暁人のまわりのたくさんの人々が、暁人を立たせて、ここまで生かしてきた。
でも、この階段を登りきり、現し世へ帰還して、ひとり家の扉を開けたとき、暁人は、もうだれにも出迎えられることはない。おかえり、と言うこともない。
黄泉比良坂の話を思い出す。死者の国を振り返ってはいけない。でも、平気な顔をして歩き続けるには、暁人は少々おとなびすぎていて、現実(うつしよ)を知りすぎていた。
「KK」
震える暁人の口は、自然とその名前を呼んでいた。すくむ足を意地で前に進める。
「なんだよ」
いつものように返される声に暁人は安堵した。まだ、ここにいる。もうすこしだけ、話しつづけていたかった。ふたりで夜を駆け抜けた、あの無茶と無謀を思い出し、この足に力をとりもどすまで。
「ねえ、家族の話、してくれる?」
「……暁人」
「あと、あのわけわかんない報告書、どうせまだあるんだろ? 教えてよ」
「暁人」
その声を聞いて、暁人の肺はきゅっとひきつった。その惨めな動きが伝わらないでほしかったが、無理かな、と思った。KKの声が、いままで聞いたことがないくらい優しかったからだ。
「言ったろ? オレは元警官なんだ、泣いてるガキには弱いんだよ」
ああ。あーあ。
ごめんと言いたかった。いや、それは卑怯だって痛いほどわかっていたから、暁人は口にだせなかった。なにも言えなくて、ただ押し黙ってうつむき、足をひきずって、前へ、前へと進んだ。
ふたりで成仏を見送ってきた亡霊たちは、みな残した未練を解消されて、安らかな顔をしていた。つぎの生に出るために、ふわりと消えるシャボン玉のように空へと消えていった。KKもそうなるはずだった。でも、その優しさに付け込んで、わがままに付き合わせて、KKをこの世に引き留めてしまった。
僕は間違えた。
その後悔だけが、あの日からずっと、暁人にこびりついている。