鍵と錠 #5「はい、もう一回。アー」
「アー」
「もう一度」
「アー?」
「うん、よくなってきた」
全くもって差のわからぬ評価に、クリーチャー・ピアソンは思い切り顔を顰めた。教師役のナワーブ・サベダーが自信たっぷりに頷いたところで、いっかな説得力はない。勧められるがままにグラスに入った水を飲んで、深々と息を吐いた。同じ水道水だというのに、他人の家の水はちょっぴり甘いような気がする。そう、他人の家――今日はまさかのナワーブの家でのトレーニングなのだ。
「ピアソンさん、次は話し方のトレーニングをしよう。今の話し方も可愛いけど、これは誰に対してでも役に立つことだからね」
昨日、束の間の休暇をナワーブと二人でゆっくりと過ごした後、トレーナーは次の課題を打ち立てた。話し方?頭の中を過ったのは、いかにも気取った様子で女性を口説く常連客の一人の姿だった。そんなことはどうでも良い。今ナワーブはなんと言った?自分の聴力が確かならば、と思考が回ると同時にカッと頬が熱くなった。
「か、可愛いなんて、言うんじゃない!ば、ばばばかにしてるのか!」
「してないよ。でも、傷ついたならごめんね」
心底すまなそうな顔をするナワーブが恨めしい。顔貌が整った男が謝る姿の、なんと様になることか。自分が逆の立場であれば相手の怒りをさらに買い、殴り合いにまで進展しかねない。苦い経験を思い出しながらクリーチャーはモゴモゴと続けたかった文句を口の中で殺した。相応しい話し方を身につけたならば、自分が思うままの世界に近づくだろうかと思う。例えば会いたい人に会いたいと、なんら悩むことなくするりと誘いかけることだってできるだろうか。
「それじゃあ明日は俺の家に来てね」
「君の家?」
「うん。明日は俺が先生。こう見えてもプロだし……それに、家の方が気楽にできるかなと思って。あ、ピアソンさんの家でも良いよ」
自分の家。別段汚くはないが、他人をあげたことのない部屋を思い返してクリーチャーはムウと低く唸った。確かにナワーブの提案には一理ある。彼は紛れもなくプロフェッショナルだ。パートナー代行というのは口が立たねばならぬ職業に相違ない。そして、話し方の練習をしている姿は他人に見られたいものではない。家で行えば余計な金もかからないので一石二鳥だ。しかし自分の家というのは不安な話で、ならば当初差し出された餌の方がマシだと判断するまでは光の如き速さだった。
「君の家に行く。……簡単なもので良ければ、夕食を作るのはどうだろう?君がい、嫌ならやめる、」
「ピアソンさん料理できるの!」
「あ、ああ。一人暮らしが長いからな」
料理をすると言っても簡単なものばかりだ。プーティーンにサーモンベーグル、少し凝ったものは家で作るよりも外で買った方が安くて美味しい。それでも休日にやりたいことがあるでなし、時間潰しにもなり身にもなると何とはなしに続けてきた習慣だった。他人の手料理は嫌いだろうかと心配したが、ナワーブの目はキラキラと輝き眩しいほどである。どうやら嫌ではないらしい。
「もっと早くに教えてもらえたら……いや、そうじゃなくて。すっごく嬉しい。どんなものでも良いよ。好き嫌いもないから、ピアソンさんが得意なものとか食べたいものを作ってくれたら嬉しいな」
「わ、わかった」
しまいには、俺ってついてる、と訳のわからぬことを言い始めたナワーブに気圧されるようにして予定は決まった。相手の家に行き、トレーニングの後に料理をするのだ。翌日、クリーチャーは出張しなければならないので、学べるうちにできる限り学んだ方が良い。家で学べば、移動時間をいくらか節約できるというものだった。飛び込みで入った仕事の予定を告げた際、ナワーブがあまりにも残念そうな表情を浮かべたので心がぐらついたのは忘れることとしよう。彼の一挙手一投足に振り回されるようなど全くの無意味だ。
かくて、クリーチャーは仕事上がりにナワーブの家へと向かったのである。食材はせっつかれたので買ってきてもらうこととした。気が引けたものの、自分が仕事帰りに寄り道をするよりも時間が節約できるとの彼の申し出は効果覿面だった。ならばと料理名ではなく、必要な材料だけを告げたのはクリーチャーなりのサプライズである。もっとも、ナワーブはほぼ自炊をしないとのことなので、知ったところでピンとはこないかもしれない。今日作るのは家で食べるならではの一品である。