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    zeppei27

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    zeppei27

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    夢で見た内容が面白かったので、治ってきた指慣らしも兼ねて一次創作小説にしました。

    『住人全員が健康であり、死因は老衰のみ』、そんな夢のようなA国の秘密とは一体なんなのか。日本から仕事に出かけた主人公が、無事健康を手に入れる話です。

    #一次創作
    Original Creation
    #小説
    novel

    今日も明るく健康に A国だ。生まれて初めて降り立つ、本物の異国に私は胸を弾ませていた。タラップを降りる前、飛行機がA国に近づいたと言われてから窓辺に齧り付き、本当に行けるのかとハラハラした心配は消え失せ、今や澄み渡る青空と同じく晴々とした心地である。我ながら現金かもしれないが、夢に前で見た国に来たのだから無理もないだろう。母国よりも強い日差しが小さな空港と、その向こうに広がる背の低い建物群に降り注いでいる。東南アジア諸国に共通する、湿ったぬるい風が程よく喉を潤した。背後を振り向けば、乗ってきた飛行機の向こうに青緑色に透き通った海が外界を遮る。母国の姿は影も形もなかった。

     蛍光色のジャケットを着た人間に先へ進むよう示され、ぼうっとした頭を現実に戻す。夢を夢のままにするわけにはいかない。頷くと、誘導されるままに通関へと向かった。小さな建物で、ちょっとした喫茶店が営める程度の広さに3人の人間が冗談を言いながら手を動かしている。一日の入国人数が極めて少ないために、大した人数を必要としないのだろう。古びた銃器が壁にかけられている点が、ここが唯一の通関である証左のように見えた。私の姿に目を止めると、一人の男が片手を挙げて招き寄せた。

    『こんにーちーは。空のー旅はぁ、いかがぁでしたかあ?』

    暖かく湿った国特有の、間延びした訛りで語りかけられる共通語が耳に心地よい。彼らののんびりとした生活を垣間見した気分で、これから自分が入り込む日常にうっとりとしてしまう。私の相手をする通関士以外は、壁にかけられた国旗の下で何やら作業を始めていた。入国の儀式でもあるのだろうか。たかだか民間人一人に対してあろうはずもない。浮き足立つ気分を叱咤しつつ、私はもつれそうになる舌で異国の音をさえずった。

    「こんにちは。とても快適でした、ここに来るのが待ち遠しくて仕方ありませんでしたよ」
    「お上手ですね。入国目的は――なるほど、国交支援社での就労ならば納得です」
    「ありがとうございます」

    気温のためだけでなく顔が火照り、じんわりと汗が浮き出る。A国の言葉は独特な鼻濁音を使い分ける必要があり、わずかな違いが大きな意味を生んでしまう。何度も練習したとはいえ、身近にA国の言葉を話す人間がいない中で習得した力量がどれほど通用するか定かではなかった。不様な悪あがきも、こうして報われるならば本望である。A国の国営企業が出した求人に賭けて本当に良かった。新聞広告に小さく書かれた文字に気付いた自分の幸運を噛み締めながら、国交支援という言葉を胸に刻みつける。自分は憧れのA国と母国の架け橋になるのだ。

     半年ほどかけて準備した書類を通関士に渡し、赤や緑のスタンプが押されてゆく。A国の文字はアルファベットと英語を無理矢理に溶接した特殊文字であるため、通関士のサインは闇雲に落書きしただけのようにも見えた。どこの国でも変わらず、書類の確認は延々とつづく。部屋奥の祭壇からだろうか、悩ましい余ったるい香りが漂う。確か、A国は完全に独自の一神教を信仰しているはずだ。インターネットで、その象徴とされる記号を見かけたが、なんとも言いようのないものだったことをうっすらと覚えている。この国の文字が、漢字とアルファベットの人工交配から生まれたとするならば、あれは一体何から生まれたのだろう?

     とうとう発音がわからなかったA国の神について考えているうちに、通関士は書棚から新たな書類を取り出して差し出した。大きく太い字が意味するのは『国家機密 安全・秘密保持契約書』。非日常が現実になった瞬間だった。こちらの目を見、反応を確かめた通関士が滑らかに言葉を続ける。

    「我が国の秘密保持契約については伺っていると思いますが――」
    「はい」

    細かな文字が綴られた契約書が網膜を圧迫し、怒濤の専門用語が鼓膜を揺さぶる。幸にして、就職にあたり一連の手続きについては説明を受けているため混乱はない。国営企業の諸外国との国交に関わるのだ、秘密保持契約を結ぶのは当たり前だろう。『契約違反行為が認められた場合、契約者はその生命を以って責を負う』という取り決めはいっそ冗談かと思うほどに重たい。一通り説明し終えると、通関士は契約書の最下部を指差した。

    「契約内容にご同意いただけた場合は、こちらに署名をお願いします。もちろん、ここで取りやめて帰国することも可能です」
    「ペンを貸していただいても?」
    「どうぞ」

    臆せずに答えてペンを受け取り、さらさらと母国語で署名した。異国語に囲まれた自分の名前はひどく窮屈そうで、戸惑いが滲み出ている。多分、そのうち慣れるだろう。なにしろここは私の憧れ、夢の国なのだ。




     通関を抜けた先はもう首都だった。三種類の路線バスでぐるりを回れるほどに小さなA国の首都は、今私が見ている景色をひたすら複製しているだけと言っても良い。通関で渡された地図で確認したままの、真っ直ぐに整えられた大通りに、コンクリートとトタンでできた家々がしがみついている。背が高い建物もせいぜい二十メートルほどだろう。太陽は惜しみなくさんさんと降り注ぎ、明るく塗られた建物の壁を際立たせていた。

     A国を象徴するものの一つがこの壁面アートで、彼らの文字を使った暗号めいた図柄はイスラム教圏の幾何学模様にも通じた精密さと熱を感じさせる。粗雑な建物や人々の服装からは想像できないほどに正確で、隙がない。建物の老朽化が進んでも、建て替えずに壁の塗り替えだけは入念に行っているとインターネット上で情報が流れたことがあったが、デマかも知れない。何故この絵ではならないのか?確か、その答えを追いかけようと文化人類学の教授が研究に訪れているはずだ。

     往来の殆どは自転車で、時折輸送トラックや路面バスがクラクションを鳴らして通るくらいのものだ。潮風が吹くたびに、建物群の向こうに広がる森林がバサバサと葉を揺らす音が大通りまで響く。島国であるA国の殆どが森林に覆われていることがよくわかる。私は南関東の山間部出身だが、あの山林を通り抜ける空気よりもA国の空気の方がずっと甘く、澄んでいることに驚いた。これもA国の秘密が関係しているのだろうか。

     百年ほど前まで、A国は存在だけが認識された集落めいた地域だった。他国の研究によれば、目立った産業もなく、独自の神も、文字もなかったと目されている。周辺地域と似たり寄ったりの人間集団がにわかに世界の注目を浴びたのは、ASEAN諸国の台頭に押された開発ブームもあるが、何よりも『太陽王誌』の研究が進んだことがきっかけである。

     『太陽王誌』はアジア大陸を太陽王と呼ばれる男と共に追いかけたという商人にして冒険者、ジョルジュ・コールが記した三百年前の冒険日誌で、長らく完全な創作物として扱われていた小冊子だった。参考までに私も目を通したが、大半は眉唾物の内容である。曰く、『N国に生えるバナナには麻薬効果があり、視力の回復に大きな手助けになる』、『BNG川下流域では赤や青の宝石が砂利のように転がっており、住民には価値がないと思われている』、『P国では七人に一人が両性具有者である』など。真面目に捉える方が難しい。

     しかし、この嘘のような言葉を真面目に解釈していった結果、BNG川下流域では宝石の鉱脈が発見され、一部の部族では両性具有者が多く生まれていることが確認された。ちなみに、バナナに関しては筆者が寄生虫による風土病に罹患したことに伴う幻覚であるそうだ。個人的には一番夢がある内容であっただけに残念だった。さておき、どんな妄言も実利を産めば価値が出るというもので、さながら予言書を噛み砕くかのように熱狂者が出始め、A国にまつわる言葉もまた、正しく理解された。曰く、

    『A国の人間は不老不死である』

    古来より人類が憧れてやまないこの文章の解釈は、正しくはこうだ。

    『A国の人間は極めて健康であり、同国にいる限り同国人は決して怪我を負わず、病にかからない。死因は老衰のみである』。夢のような話だが、現時点でA国が暗黙理に認め、諸外国が称賛してやまない事実である。不老不死でなくとも、健康であれば十分すぎるではないか。老衰で死ねる人間が、この世に一体どれほどいるだろう。人類は病と戦い、傷を負わぬよう留意し、少しでも健やかに長くあろうともがいてきた。A国ではそれが手に入る!

     狂喜乱舞した諸外国はこぞってA国との国交を求めた。健康大国と自ら称し、一市民でさえも独自の健康理論を持つという神話を持つ我が国・日本ももちろん含まれる。一方詰め寄る国々に対し、小国であるA国の態度はあくまでも慎重で頑なだった。まさに秘境。ミャンマーやブータンに続く伝説の始まりだ。インディー・ジョーンズを気取る人間は引もきらず、ある時は密入国を試み、潜入し、何とか頑なな秘密をこじ開けようと切磋琢磨した。

     発展途上であるはずのA国の実力が披露される時が来た。驚くべきことにそのことごとくが返り討ちにされ、あるいは消息が途絶えたのである。周辺国の軍事的緊張がなければ、A国は今頃どこかの国に併呑され、秘密は世界に開示されたはずだ。現在もなお独立国家として成り立つのは歴史的偶然と言うより他にない。一悶着あった後、A国は細々と国交を開始した。私の目に映る、のんびりとアイスクリームを食べる老婆や犬と戯れる少年は存在は奇跡の産物であり、私は日本人初の生き証人となる。信じられないほどの幸運だった。

     大通りから一本入った場所には必ず数軒おきに空き地があり、そこから盛んに歓声が響いている。何らかのスポーツを行っているのだろう。A国では他者を害することのない肉体運動が推奨されており、住民はありとあらゆる運動に嗜んでいることで有名だ。オリンピックの表彰台に登ることはざらで、近年ではアクション・スターとして映像作品でも大活躍するA国民もいる。

     壁面アートに取り付けられた足がかりを使って登攀をしている、若者の背中に目を奪われる。こんがりと日に焼けた肌に、逞しく筋肉が隆起していた。その下では女性たちが太極拳をゆったりとした動作で行い、鳴き声とも唸り声ともつかぬ民謡が地面に置かれた音響装置から流れる。ここに住んでいれば、いつか私も何かに混じるようになるだろう。母国では積極的に地域交流に混ざることはなかったが、私は当然のように目の前の景色の一部となる未来絵図を描いていた。

     魚を串焼きにする屋台の隣で、あの神を象徴する文字を描いた旗が翻る。供物らしきものがこんもりと山を築き、地面に置かれた鉄製の箱で香でも焚いているのか、もうもうと青い炎が燃え上がっている。通りがかった女性が、手にした花を炎にくべるとふわふわと花びらが舞い踊った。私も朝になったら森林に分け入って花を摘み、得体の知れぬ神を恐れ敬って捧げるのだ――健康的に。かつての私が願ったように。

     今でこそ健康そのものである私だが、生まれてすぐに保育器に入れられたことに始まり、病と病院のベッドは日常のパートナーと化していた。人間よりも文字や映像記録の方が余程馴染みがある。実を伴わぬ私の日々は、まるで絵空事のように思われた。学校、旅行、友人、私が得られなかった日常は一体いくつあるだろう。まともに走るだけで褒められる人生は我ながら歯痒く腹立たしく、何一つとして思い通りにはならなかった。

     誰にぶつけることもできぬ想いの中で、A国に対する憧れはどんどんと大きくなっていた。否、私の正気を支えてくれたと言っても良い。A国に行けば、健康になれる。A国に住み、ずっとそこで健康に暮らそう。今までできなかったことを全部やるのだ。世界旅行などできなくても構わなかった。私が求めるのは涙ぐましいほどささやかな健康である。

     実際に足を踏み入れたA国の何と素晴らしいことだろう。健康に溢れかえった世界を見渡し、私は深く息を吸った。通関で嗅いだあの悩ましい、余ったるい香りがまだ鼻の奥に残っていた。




     入国してそのまますんなりと働き始めることは叶わなかった。諸外国との交流を正式に開始してからの歴史が浅いこともあり、A国は慎重かつ厳重な管理体制を敷くことを望んでいたのだ。全国民が健康人である秘密を抱えているのだから無理もない。語学学習も兼ねて、入国した外国人には半年間の研修が義務付けられていた。住居は研究施設に併設された寮が指定されており、研修後も引き続き利用可能である。食事も三食無料でついている。電気、ガス、インターネットも全て自由と言われて、出ていく人間はなかなかいないだろう。実際、A国に滞在する外国人の九割はこの寮に暮らしている。望んで管理されているというわけだ。

     研修内容は大まかに四つで、語学、地理、経済、そして歴史が雑多に教えられる。国として独自性を持ってからが浅いため、概ね一冊の本でまとめられる量であるのは予想通りだ。実際、前半三ヶ月で教えられた地理と経済では、今後の方針や規制を示され、意見交換の場として利用されていた。意見交換と言っても責任も何もない立場であり、語学練習に等しい。

     本来私が得られたかも知れない、健全な学生気分を満喫する気分で楽しかった。共に学ぶ五人の同期との仲も良く、それぞれの出身国について知るのも見聞を広げるいい機会になる。何より、全員がこの国に同じ憧れと希望を抱いていたため心は一つだった。心身共に健康であることがA国の住民である――私たちもその一員なのだ。

     健康の秘密に関わるであろう歴史は、一番最後に教えられる予定になっている。焦らされている気分になるが、ここが肝要だ。いつかは会得できると鷹揚に構えるも、私は日々秘密を探ろうとしていた。三食与えられる食事内容は、周辺の東南アジア諸地域とほぼ同じであり、素材にも変わったものは用いられない。香辛料は少なく、どちらかと言えば素材の良さを活かす和食に通じる素朴さ、純粋さが尊ばれているようだった。

     酒も菓子も同じで、日々摂取しているもので健康を構成するならばこの国の空気以外に見当もつかなかった。街中を散々巡り歩いても、住民が熱心に運動し、宗教活動に邁進しているだけである。A国では将来、首都近郊の温泉地帯を中心に開発し、観光資源にするという。健康を体現する国民を実際に目にしながら、明らかに健康に良いとされる自然環境の中で湯治を行うのはなかなか魅力的だと思った。おまけに、この国には暖かで美しい海もある。

     住民の健康は、観光計画には必須の要素だ。死因は老衰のみ、この条件を維持するのは国民全員の決意なのかも知れない。否、決意だけでここまで続けられるわけがない。売店(無料だが酒保係がいるのだ)で洗濯石鹸をもらっていると、歴史の授業は明日から始まるよ、と声がかかった。韓国から来たイ・ロウンだ。ツルッとした美青年で、自分の顔も含めて国の代表だからね、という本当とも冗談ともつかぬことを口にするのが少々怖い。

    「とうとうか!楽しみだな」
    「最終課程だからその分きついらしいよ。ゾイさんが言ってた」
    「ふうん」

    ナージ・ゾイは二年前にハンガリーから来た女性だ。この寮では最も長く暮らしている、外国人にとっての生き字引のような人間で、私も困った時にはよく世話になっていた。インターネットで自由に情報が得られるとはいえ、産業の少ないA国が海外から入手できる物資には限りがある。逆に作れるものを増やしていくのが自分の仕事だから、とゾイは息盛んだ。誠によろしい。

     この研修が終わったら、私は日本人として何を売りにしよう。温泉は良い、わざわざアイスランドまで温泉を楽しみに行く日本人も少なくない。水着着用を求められる点が残念だが、何事も演出次第だ。PR会社に勤めていた経験を活かして、A国の良さを知ってもらう。そして、自分のように悩める母国の人間たちに得難い健康によって、取りこぼしを減らしてもらいたかった。




     こうして始められた歴史の授業は、自分たちの想像を遥かに超えた重いものだった。A国の文字が、漢字とアルファベットをぐちゃぐちゃにした独自のものであることには以前触れたと思う。そして文化は周辺諸国と何ら大きな変わりはない。だが、突如として文字と神とが舞い降り、神話が生まれた。

     突如として現れたのは当然だ。A国は、A国出身の三人の人物が百年前に再構築した、全くの創作物だったのである。

    「元は『太陽王誌』に書かれている通り、全ての民が健康であるという神秘を守るためだった」

    それが神による恩恵だ、とすれば周囲を納得させやすい。神が与えた文字は特別製なので、選ばれた民が使うのも道理である。識字率が低かったことも手伝って、住民は最初からこうだったのだと難なく生活に取り入れた。多分、神に対する信仰も土着神に対するものをすり替えたのだろう。A国の創作者たちは周到で、慎重に文明開花を進めていった。大通りや上下水道を整備し、衛生環境を整え、食料の安定供給を図る。元より、彼らは自分の故郷を豊かにしたい一心で外界に出た異端者でもあった。

     作り物であるとはいえ、『全住民が健康である』という最後の砦は崩されていない。それに、創作者たちの気持ちは、国交を担おうとする私にも十分共感できるものだった。誰も傷つけないファンタジーを世界に見させてやるくらい、石を投げる手を下ろしても良い。密入国者たちを返り討ちにしたというのは流言であり、実際には自ら協力者となったのだという説明には今ひとつ納得できなかったが、可能性はあるだろう。

     だって、みんなこんなに健康じゃないか。気を取り直してクラスメイトたちを見回すも、その表情は今までの授業後と異なりバラバラだった。疑いを抱く者、困惑する者、最初からこうだったんじゃないかというわかったふりをする者、そして――絶望しきった者。ロウンの白百合のような手が震えている。解散の合図があっても変わらない様子が気になったが、チートスが手に入ったとアールシュ・チャウドゥリーの耳打ちについ乗ってしまった。インドの富裕層出身だというこの男は、先ほどの授業になんの影響も受けていないらしい。複雑な社会構造を背景に持つ人間ならではの世渡り術のようなものかも知れない。

     しかし、ロウンの様子はその後も悪くなる一方だった。健康でいるためには、健康で居続けるためには精神面での安定も必要だ。せっかくの数少ない同期である。私の精神的安定を保つ意味でも、是非ともロウンには元気を取り戻してもらわねばならない。夕食後にマンゴーシェイクを飲もうと誘い、施設の屋上に登った。

     外見からはコロニアル調に見せかけた立派な建物だが、屋上に来ればただのハリボテであることがよくわかる。首都で最も背が高い建物からの都市の景色は、確かに箱をポコポコ無理矢理配置したような人工的な代物に見えた。これに単純素朴な人間を添えれば、あっという間に幻想都市の出来上がりだ。ある意味において現代の神話に相応しい誕生秘話だ、と感動すら抱く。街のあちこちであの青い炎が燃え上がり、看板のネオンがぐちゃぐちゃに歪んだ文字で昼の名残を伝える。それは遥か遠くの宇宙に、自分たちの存在を必死に訴えるメッセージに見えた。あるいは、世界に対する狼煙なのかも知れない。どちらでも良い。健康でさえあれば、私にとって物語はなんだって面白いものに過ぎない。

    「……俺は嘘つきになりたくないんだ」

    ロウンがズズ、とマンゴーシェイクをすすって暗い声を出す。確か、彼は幼馴染の女の子のために健康を手に入れようとしていたのだったか。存外誠実な人間だったのだな、と人でなしな感想を抱きながらも、私はくるくると計算を巡らせた。何が問題だ?何も問題じゃないだろう。

    「嘘じゃないさ。見てみろ、みんな健康だろう?」
    「ほとんどが嘘じゃないか。なのに、みんなが健康だってことだけ本当なんて信じられないよ」
    「信じればいい」

    じわ、と不安が胸の中を侵食してくるのを必死で押し留めると、私はロウンにとびきり明るい笑顔を見せた。

    「私たちは健康なんだ!疑うなんて無駄だろう、信じるしかないんだよ!」
    「……うん」
    「心配だったら、ゾイさんに相談してみたらどうだ?あの人、長くここにいるんだから何か他にも知っているかも知れないぞ」

    そうだね、とロウンはようやく明るい声で答えた。夜が深くなってゆき、街の灯りがポツポツと消えてゆく。暗くなってゆく世界の中で、ロウンの表情はよく見えなかった。




     ロウンが倒れた。研修に出席しない彼を心配して部屋を訊ねれば、ぐったりとしてベッドに横たわっている。考え過ぎて頭が疲れたのだろう。頭痛がするんだ、とも言っていた気がする。医療品など手に入りようもなく、寝てれば治ると言った誰かの顔が青ざめていたのを思い出した。額に触れれば随分と熱が高い。汗ばんだ体に、こちらの心臓がぎゅっと鷲掴みされたような苦しさを覚えた。

     どうすれば良い?日本であったらば直ぐに病院に向かうことができた。何しろ私と病院は親友のようなものなのだ、気軽に足を向けることができる。だが、住人が皆健康である場所に病院はあるのか。ロウンは外国人だから、病気になったのだろう。つまりそれは私にも当てはまるわけで、考えれば考えるほどに息が苦しくなる。

    「ゾイさん、来てください、ゾイさん!」

    急いで階段を駆け上がり、ゾイの部屋の扉をダンダンと叩く。どうしたのかと周囲の人間が騒ぎ出すが一向に気にならない。ロウンの健康を、私の健康を守るためには絶対に解決しなければ。もどかしい間が過ぎ、ようやっと出てきたゾイは面倒くさそうに顔を顰めていた。

    「どうしたの。あなたが慌てるなんて珍しいね」
    「あの、その、病院に行きたいんです。ロウンの具合が悪くて」

    瞬間、ゾイから全ての表情が抜け落ちた。

    「……病院はないよ」
    「この国の人が健康なのはわかっています。でも、外国人のためにはあるはずです、だって私たちはまだ住人じゃないから」
    「この国に病人はいないの」

    かっちりとした有無を言わさぬ言葉の意味を解釈しかねて混乱する。この国に病人はいない?だが、ロウンはあんなに苦しんでいる。あれのどこを健康だと言えるのか。もつれて間違った発音を押し出しながら言い募ると、ゾイはそっと私の耳に口を寄せた。

     そこから流し込まれた真実は、紛れもなく毒だった。この国では医療機関が存在せず、まともな医療行為を受けることはできない。健康であるという神話のためには不要だと切り捨てることを選んだからだ。もちろん、住人は皆承知している。では、具合がおかしくなることはないのか?具合が悪くなる日もあるだろう。そういう時には、『自分は健康だ』と信じる。そうしているうちに、治る人間は治る。さもなくば、誰かに施設に連れて行かれる。

     この国の住人は健康でなければならない。つまりそれは、その施設に連れて行かれるという意味は――絶句する私の肩を、ゾイが優しく叩く。

    「入国時に、契約書に署名をしたでしょう」

    確かに、私は当たり前のものとして受け入れた。『契約違反行為が認められた場合、契約者はその生命を以って責を負う』。あれは冗談ではなく、この国の本気だった。どうして住人が活気に溢れ、運動に邁進するのか?健康でいなければ生きられないからだ。必死に生きなければ健康を維持することはできない。

    「大丈夫、君は健康だよ」

    信じるんだよ、と言うゾイの声の向こうから、あの悩ましい余ったるい香りが漂う。『N国に生えるバナナには麻薬効果があり、視力の回復に大きな手助けになる』、そんな妄想が頭に浮かぶ。もし、そんなものがあるとしたらどんな風に利用するだろう?

     ゾイから身を離し、階段を登って屋上に出る。ロウンと眺めた、いつもの街の風景が今は歪んで見えた。

    「私たちは健康なんだ!疑うなんて無駄だろう、信じるしかないんだよ!」

    死ぬまでずっと、健康なのだから。


    〆.

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    zeppei27

    DONE傭泥で、謎のスパダリ(?)ナワーブに悩まされるピアソンさんのお話です。果たしてナワーブの真意はどこにあるのか、一緒に迷いながら楽しんでいただければ幸いです〜続きます!
    ご親切にどうもありがとう/1 他人に配慮することは、相手に目に見えぬ『貸し』を作ることである。塵も積もればなんとやらで、あからさまでなしにさりげなく、しかし何とはなしに伝えねばならない。当たり前だと思われてはこちらの損だからだ。返せる程度の親切を相手に『させた』時点で関係は極限に達する。お互いとても楽しい経験で、これからも続けたいと思わせたならば大成功だ。
     そう、クリーチャー・ピアソンにとって『親切』はあくまでもビジネスであり駆け引きだ。慈善家の看板を掲げているのは、何もない状態で親切心を表現しようものならば疑惑を抱かせてしまう自分の見目故である。生い立ちからすれば見てくれの良さは必ずしも良いものではなかったと言うならば、曳かれ者の小唄になってしまうだろう。せめてもう少し好感触を抱かせる容貌をしていたらば楽ができたはずだからだ。クリーチャーはドブの臭いのように自分の人生を引きずっていた――故にそれを逆手に取っている。
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