My favorite things. 手紙というものはなかなか難しい。紙でできたそれを、毎朝毎夕運んできた身の上として、ビクター・グランツは手紙に対して一端の意見を持っていた。ただ紙に何か書き、封をすれば良いというものではない。手紙には、手紙を手紙たらしめる要素がいくつもあるのだ。
ストーブの上で熱々にした薬缶が笛を吹いたので、火からおろして鍋にそそぐ。ここからが勝負どころだ。考え事は棚に上げておこう。薄紫色の封筒を椅子に置いた郵便鞄から取り出し、そうっと湯気の上で躍らせた。この時間は花が開くのを待つ気持ちに似ている。焦らず、ただじっと自然に任せるのはもどかしいが、十分見返りがある。
その証拠に、菫色のインクをにじませることなく、手紙はぱくりとその口を開いた。花の匂いが漂う。手紙の差出人がウィラ・ナイエルであることを考えれば当然の話だ。上流階級という概念に血肉を与えたような彼女は、人間よりも花に似た気高さがあった。
「手紙を出してきてちょうだい。貴方、郵便配達夫なんでしょう」
仕事を全うなさいな、とビクターに申し付けた彼女は、まさかこんな秘事が行われようとは想像だにしなかったに違いない。最初はちょっとした好奇心で始めた開封作業も今ではお手の物、ビクターを前にした手紙は裸同然だった。
見張りに立たせたウィックがゆったりとした仕草で戸口に座っていることを確認し、封筒から便箋を取り出して広げる。ウィラの筆跡は流麗で、芸術的なほどに美しい。が、聊か難があった。
「ああ、彼女は……彼女は、外国人だったね」
文字が並んでいる。一見すれば普段扱っている言語と同じようだが、手紙の文章は明確にビクターを拒絶していた。貧民出身にも拘わらず読み書きができるとはいえ、流石にフランス語は理解できない。努力が無駄になったことにため息をつくと、ビクターは素早く便箋を戻して封をした。糊付け後に、軽くアイロンで押さえれば完璧だ。後は、望み通り庭先の郵便受けに入れておけばいいだろう。『荘園』に定期的にやってくる配達人の姿は一度も見たことがないものの、彼らの仕事は確実だ。
お愉しみが遠ざかったことに虚しさを覚える。胸に穴が開いて、びゅうびゅうと寒風が吹きすさぶかのようだ。誰の気持ちも入り込まない、空っぽの気分は手に余る。手先を温めようと鍋の上を彷徨っても、とうに熱気は失われていた。
郵便を出しがてら、手紙のことでも考えるとしよう。ウィックに声をかけると、飼い主そっくりに寡黙な犬が心得顔でついてくる。屋敷内の誰もがその光景を不思議に思わない。彼らは見かけの職分をこなしている分には何も疑わないのだ。ビクターがほぼすべての手紙の中身を覗き見ていると知ったら、どんな顔をするだろうか?罵倒されようが軽蔑されようが構わない、とビクターは腹をくくっている。罰せられるべき行いをしているのだから覚悟の上だ。ただ、手紙の中身を見れないことだけが辛い。
屋敷から続く長い小道は、今日も落ち葉が綺麗に掃き清められて歩きやすい。硬い石畳が敷かれていない分、小さな犬には都会よりも快適だろう。ビクターが荘園を訪れたのは別の理由からだが、多方面に収穫があった。命を狙われず、脅されず、ウィックも自分も安全に過ごせて手紙も読める。おまけに、荘園に住まう人々の抱える秘密はどれも深淵で飽きない。彼らと比べて、外の世界で垣間見てきた人生のなんとありきたりなことか。
「ここにいると、私の書く小説が可愛いお伽話に見えてくるよ」
そう端的な感想を漏らしたのは、自称小説家のオルフェウスだ。残念ながらビクターは小説を読む習慣はおろか、本を読んだことさえない。彼は外界では名の知られた推理小説家だと誰かが教えてくれたが、物好きな職業もあるものだと驚いたくらいである。
空想の世界をひねり出して他人を喜ばせる人間が、現実を前に敗北感を露にするならば、自分を取り巻く荘園の状況は特異なのだと唇がむずむずした。彼らがこの歪な共同生活をなんとか保っている建前の奥、誰にも知られぬ内情を知るのは自分ただ一人だ!
郵便受けにたどり着くと、ビクターは慎重に蓋を開けた。ここには誰かが手紙を届けている―どんなに粘ってもその『誰か』は突き止められなかった―もしかしたら、自分に宛てて書かれた手紙があるかもしれない。数通の封筒やハガキを掴み、じっくりと検分する。何かの招待状、督促状、見たことのない外国の文字、見覚えのある宛名の数々。順々に確かめて、残り少なくなっても尚自分の名は見当たらない。ビクター・グランツ、この際ビクター、それだけでも良い。自分の名前があったらば―一縷の望みをかけて捲り続けたが、残されたのは虚無だけだった。
「うん、なかった」
じっと見つめてくる犬の視線に応えると、ビクターは約束された失望を嚙みしめて配達袋にしまいこみ、出すべき手紙を郵便受けにおさめる。赤い旗を立たせれば、見知らぬ配達夫が回収してくれることだろう。
足取りがどうにも重い。わかってはいたが、自分に宛てて誰かが手紙を書いてくれるというのは幻想にすぎないという現実は、どうにも耐えがたい苦しみだった。
手紙とは、形である。思いの丈を文字に凝縮して、その熱をこの世に留めてくれる手段だ。普段思っても口にできないような言葉や、名状しがたい思いを煩悶しながら綴るのは、会話とはまるで異なる趣を持つ。口で発した声は、結局その場限りで消えてしまう。それに、相手と共有する場に左右されがちだ。
手紙は違う。紙の中でだけ時間は永劫にとどまり続ける。もしかしたらば、書いた言葉は嘘であっても、あったと思い続ける拠り所になるのだ。打ち明け話は最たるもので、口にはばかるものを残そうと決意は蜜の味である。
ビクターにとっての手紙は、そうした『想い』が込められ、どうしても『伝えたい相手』がいるとわかるものである。督促状や実務的なものは願い下げで、短いメモ書きはただの情報連絡に過ぎない。郵便料金を節約しようと、一枚のはがきに縦横斜めに文章をびっしりと詰め込んだものは感動的だった。戦地から家族へ届けた思いの主は、今頃生還して同じ言葉を伝えただろうか。
あんな風に、自分も誰かから手紙をもらいたい。そして、もらった気分というものを味わいたい。返事を書く喜びはどれほど自分を満たしてくれるだろう。
想像に夢をはばたかせて、ビクターは今日もメモ書きの束を作る。激励、希望、あるいは決別。手紙とは呼べない偽物の『想い』が、ゲームで役に立ったと褒められる時が一番嫌いだ。歪んだ字を指先でなぞり、ビクターはぐちゃぐちゃに握りつぶした。
〆.