ファンファーレ週末の夜。日下部先生、日車、俺の順番で3人ソファーに並んでテレビを見ている。昔の名作映画再配信だとかで、日車も日下部先生も前に観た事があるらしい。俺は初めてなので、ネタバレ禁止ね!と伝えてわくわくしながらポテチとポップコーンを用意する。更には映画鑑賞には絶対コーラっしょと家で一番デカいグラスにたっぷり注ぐ。日車と先生はビールで一応俺にも飲むかと勧めてくれたけど、正直まだあんまり酒の味がわからんくて苦いので丁重にお断りした。
途中で日車が席を立つ。
「どしたん?一旦止める?」
「酒を取ってくる。君は初めて観るんだろ、気にせず通しで楽しんでくれ」
「俺も酒ほしい」
「いつものでいいか?」
「おうサンキュー」
日車は2人分の空き缶を持って台所に消えていく。日下部先生の『いつもの』とは焼酎の水割りで、日車のはウイスキーのソーダ割り。2人が留守の時にそんなにおいしいのかなとちょっと味見してみたけど、度数が強くてブワッとなってしまってめちゃくちゃ薄めてなんとか飲み干した。甘くなくてひたすらドライで正にオトナの嗜み。俺はまだチューハイでいいやと思った。それは日本酒の時にも思った。先生が釣りに行くと、その日の午後は大体俺と日車でスーパーへお買い物デート。夕飯は先生の釣果が主菜だから、それに合う食材や酒を買いに行く。和食が多いから酒は日本酒を買う。「飲みやすいやつなら君もいけるんじゃないか?」と酒屋さんで一緒に選んだけど、いざ飲んでみると全然マリアージュ的な事はわからなかった。
日車が戻ってきて先生にグラスを手渡す。
「あれ?お前のは?」
「炭酸水が無かった。ちょっと買ってくる。虎杖、ついでにおやつの補充はいるか?」
「いいの!?チキンかあればブリトー食いたい」
「ぶり、とー……わかった調べてみる」
「まだ食うのかヤベーな若造の食欲」
日車が出掛けて行き、先生と2人画面に向き合う。主人公と恋人が「君だけを見ている一生離さない」と誓い合っている。おっとこれは…日車がいなくてよかったと思った。先生と俺でも気まずいのに、日車がいたらもっと気まずい。なんでかっていうと、それは俺が一番良くわかっていて、この3人暮らしの発端でもあったから。日車が日下部先生と付き合ってるのを知ってるのに告白した俺に折れて、3人で暮らす事になったのだ。俺が20歳になってからは日車と身体の関係も持った。日車が先生ともそうなのも知ってるし、なんなら3人でシた事もある。それが真っ当かどうかと言われるとあやしいけど、俺の恋心は真っ直ぐ強烈で折れる事を知らなくて止まれなかった。…もし今、日車に俺と日下部先生とのどちらかを選んでと言ったら、どちらを選ぶのだろうか。映画はあんなに愛を語り合っていたのに喧嘩を始めている。日車の事が頭にチラついて、その後はあんまり映画に集中できなかった。
………
今朝は日下部先生がいない。夜通しで釣りをするとかで、昼過ぎには帰るとの事。潮の流れがいいからと大漁宣言をして昨日の夕方に出掛けて行った。だから朝ご飯は日車と2人。その後は夕飯のために買い出しデートだ。
「先生何釣ってくるかな、日車は何食べたい?」
「塩焼き…かな」
「ほな大根とレモンがいるね。小さい魚が多かったらまとめて南蛮漬けにしよ」
前に先生がどっさりと小アジを釣ってきたのを思い出す。南蛮漬けなら玉葱と人参…ピーマンもほしいところだ。
「日下部は帰って来たらひと眠りするだろうし、ゆっくり見て回ろう」
そう言われたのが嬉しくて、俺は急いで朝食を食べて食器を洗った。
休日の午前中、スーパーは空いていて快適に買い物ができた。野菜と調味料を買い、その後酒屋に寄って日本酒を物色する。
「これラベルがカッコいいね、瓶が青いのもレアな感じ」
「大吟醸か…今日の料理にはちょっと勿体無いかもしれない」
「そうなん?お酒詳しいね」
「いや、日下部が言っていたんだ。酒だけで飲むなら大吟醸だけど、食事に合わせるなら純米くらいでいいらしい」
「ふーん?」
「そもそも大吟醸は高価だから家計にも良くないそうだ」
確かに値札を見ると結構高かった。
「つかお酒って高いよね。俺は当分コーラでいいや」
「まあ酒税が掛かっているからな」
言いながら日車はおかしそうに笑った。
帰宅すると日下部先生が帰っていた。
「おかえり!何釣れたん?大漁?」
先生は目を泳がせる。どしたん?と思いながら置いてあるクーラボックスを開けると、見事に空っぽだった。もう冷蔵庫に移したんかな?
「悪い、坊主だ」
『坊主』…なんでか知らんけど釣り界隈では何も釣れない事を坊主と言うらしい。釣果はゼロ、つまり今晩のおかずもゼロである。
「途中で連絡をくれたらいいものを」
「ラジオ聴いてたら充電落ちてよ…ほんとその辺は悪かったよ」
「虎杖、今日作る予定は?」
「玉葱人参ピーマンと小魚で南蛮漬け、あと大根おろしとレモンで塩焼き、あとサラダてとこかな」
「わかった、良さそうな魚を買ってくるよ」
「俺も行こうか?」
「疲れてるだろ寝ててくれ」
「俺は…」
「大丈夫、虎杖は料理の下拵えをしていてくれ」
「日車大丈夫?ブリトーは鰤じゃないよ?」
先日の事を掘り返すと、日車は照れたように「その話は終わりにしよう、もう間違えないから」と再びの買い物しに出掛けて行った。
手持ちの材料で先にできる事をしていると、風呂場で釣具の手入れとシャワーを済ませた先生がやって来て横から覗き込む。
「さっきの鰤がどうとかって何の話?」
「いや、映画の時俺がブリトー頼んだじゃん?あれを日車は魚の鰤トロだと思ったらしくてスーパーの寿司コーナーまで見に行ってくれたんだって」
「ああ、それであの時やけに遅かったし、どこにも売ってなかったってしょんぼりしてたんか」
日車は賢いのにどこか抜けていて、危なっかしくて側にいたくなる。放っておけない。俺達は20歳も差があるけど、俺は若い分長く生きれるし、いずれ歳老いた日車の介護や看取る事だってできる。勿論日車にはめちゃくちゃ元気に長生きしてもらうつもりでいるのだけれど、漠然とそんな未来の自分達を想像して、家族みたいだなと口角が上がる。
「何ニヤついてんスか」
「いやいや、未来はどうなってるかなって思ってさ。来年も再来年もこの暮らしが続いたらいいなって」
俺はなんだか楽しくなってぽんぽん話してしまった。
「───そんなにうまく行くかねぇ」
「へ?」
「先の事なんてわからんだろ」
日下部先生の声はさっきまでとは違って冷たく落ち着いていた。
「3人暮らし、それも俺もお前も日車が好き、日車は俺ら両方が好き…なんて長続きするとも思えん」
「でも…もう数年続いてるじゃん、これからだって…」
「ぬるま湯に浸かるにもそのお湯の温度管理する奴が必要なんだよ。そうやって知らんところで積み重なった労力で突然ダメになる…そう言う事もあらーな」
「ぬるま湯って……」
「甘いお菓子の城には住み続けれんって事だよ」
日下部先生の言う事もわかる、でも俺はこの居心地の良いぬるま湯……いや、最高の城を手放す気はなかった。それでつい、ムキになって噛みついてしまった。
「つまり日下部先生は余裕がないんだね」
「あん?余裕なんて毎日ねーよ」
「日車に俺と先生どっちかを選んでって言ったらどっちを選ぶかな」
「……さぁな」
「俺は負けないし日車を手離したくない」
「そもそも『それ』は俺らじゃなくて日車が選ぶ事だろ」
ぐっ……ごもっともで黙ってしまった。
「この話はひとまずここで終わりな。あと、それをあいつには絶対言うなよ」
ピリッと空気が張り詰めた。その時丁度ドアが開いて、日車が帰ってこなかったら取っ組み合いの喧嘩を始めてしまいそうだった。
晩ご飯は鶏肉の南蛮漬け、レモンでドレッシングを作ったサラダ、厚揚げのおろし煮になった。スーパーに丁度いい魚がなくて困っていたら、買い物に来ていたマダム達が知恵を出してメニュー変更に協力してくれたらしい。苦手な料理関連をやってのけたと、日車はめずらしく嬉しそうにしている。
「魚は残念だったが、これはこれで素晴らしい献立だと思う」
「くそっ次は絶対食い切れないほど釣って来てやる」
「うまっ!南蛮漬けって魚でやるもんだと思ってだけど、肉でやってもうまいんだね」
そんなふうに他愛もない話をしながら食事は和やかに終わった。
食後に飲み足りないと言う先生に付き合って、日車が一緒に日本酒のグラスを傾けている。薄いグラスに入った透明な液体を、日車がスイッと飲む。通った高い鼻筋、グラスを持つ手も相まって、ヨーロッパの彫刻の様でしばしキレイだなと見惚れてしまう。その横に並びたくて、俺も飲んでみようかな、と食後の晩酌に入れてもらう事にした。「飲みにくかったらロックとかソーダ割りにしてもいいんだぞ」と先生が教えてくれる。マジで?爺ちゃんが聞いたら純米酒を割るなんて邪道!と怒りそうだなと思った。それでもソーダ割りにしてみた日本酒は飲みやすく、これなら和食と合わせてもいいかもしれないと思った。
「なんかいいね、こうやってまったりできるの」
「最近は宿儺と羂索のあれこれも大分片付いて呪霊の湧きも減ってきたからな」
「あの忙しさはもうこりごりだな」
日車が少し紅く染まった頬で苦笑いする。日車は実戦に出つつ、空いた時間は高専内の書類や呪具の分類整理、口約束が多い契約の公文書化などなど、伊地知さんが感謝で号泣するほどの働きを見せた。本人は「興味本位で受講して聞き齧った司書課程や学芸員の知識が役に立って良かった」と平然としていたけど、誰にでもできる事じゃないのは俺でもわかる。
「俺、ずっとこうしてたいな。来年も再来年もずっと」
酔いが回ったせいか、夕方の日下部先生との話が引っ掛かってたからか、ぽろっと口から出た。
「3人でめっちゃ長生きしようね」
誤魔化そうと努めて明るく笑って言った。でもさっきまで穏やかに微笑んでいたのに、日車はどこか寂しげな顔をしていた。
「虎杖…それは無理だ」
少し間を置いて日車が言った。
「なんで?思うだけならタダじゃん」
「少なくとも俺は君より20年先に死ぬ。ずっとは……無理だ」
「いや、そんな真面目な話じゃなくてさ…」
予想外の深刻な様子に慌てる。こんな空気にしたかったわけじゃない。
「正味、俺らは任務次第だよな」
「そっか、俺がヤバイ任務で日車より先に死ぬ可能性もあるもんね!」
無理矢理場を和ませようと笑ったけど、日車は全然笑っていなかった。見開いた目を痛々しそうに細めてぽつりと言う。
「冗談でもそんな悲しい事を言わないでくれ」
ぷつん、と細い糸が切れた気がした。やばいと思った。その反面、今すぐ日車を抱きしめたい独占したい。俺だけのものにしたい、力尽くで押し倒して口を塞いでしまいたい。日車をめちゃくちゃにしてしまいたかった。
──タイミング良く溶けた氷がグラスの中でやけに大きくカランと鳴った。
「あっ!やっべ俺風呂掃除忘れとった!洗ってくる!!」
逃げた。逃げるしかなかった。風呂場に駆け込んでドアを閉める。あんな顔させたくて言ったわけじゃないのに。あんな顔、してほしくなかったのに。こんな事を考えたかったわけじゃないのに。
「すまない…俺が優柔不断だったせいで歪さに君達を巻き込んでいる」
「謝るなって。それを言ったら受け入れたあいつも、流されて傍観してる俺も同じだろ」
「俺は…」
「お前──1人で責任全部背負おうとすんなよ。これは俺ら3人の責任なんだからな」
「君は優しいな…すまない」
「優しくねーよ。つか次謝ったら殴るからな」
内容まではわからんけど、リビングから日車と先生が話してる声が聞こえる。ズルズルとしゃがみ込んで膝に頭を埋める。風呂場の水が尻と靴下に染みて気持ち悪かった。
………
オトナなるってどういう事なんだろう。18…20歳になる…酒やタバコや賭け事をしても怒られない年齢になる事。投票するとか税金を払うとか、働いてお給料をもらうとかそういう事。そして、好きな人とキスやセックスをする事。それらがオトナの指標だとするのなら、全て経験済みの自分は確かにオトナなのだと思っていた。
「なーに黄昏てん!のっよっ!」
バシンと背中を強く叩かれる。ふり返ると釘崎と伏黒が立っていた。
「ちょっと〜遅れたくせにこの仕打ちぃ〜!ひどくない?背骨折れたかも」
ぴえん顔でぷりぷりするも、2人ともお前がこの程度で骨折するなんてありえないと言い放つ。
「そもそも遅れてないし。早目に着いたから伏黒と買い物してただけだし」
「いや待ち合わせ時間にいなかったら遅れてるのと変わらんし!俺30分待ったよ???」
「俺は15分前来たし、釘崎も10分前にはいた」
「その程度の早目ならここにおってもよくない…!?」
久々に会う同級生達との昔と変わらない他愛もない会話。先日のやらかした気持ちが少し晴れた気がする。
「あーなんかすげー久しぶりに羽伸ばしてる気分。自由…俺はどこにでも行ける…!て感じする」
「さっきので頭壊れたか?」
「もう一回叩いとく?叩いたら直るって言うわよね?」
待て待て至って正気だから。とりあえず立ち話もなんだしと、俺達はファミレスに移動する。
各々がドリンクバー、それと新メニューのパフェにするかポテトにするか、唐揚げも捨てがたいとメニューのタブレットをつつき回す。
「この前さ、日車と来た時もめちゃくちゃ悩んだわ。前食べたメニューは除外してもいいのに、食べたが故に旨さを知ってるからもう一回食べたいみたいな」
「「子供か」」
伏黒と釘崎がハモる。
「子供じゃないですオトナです〜」
「そうやってムキになるところが全然子供なんだよ」
「だいたい保護者同伴でファミレス行くあたりお子様よね」
「いや日車は保護者じゃないし」
俺は口を尖らせる。さすがに付き合ってる事は伏せてるけど、保護者と言われると反論せざるを得なかった。
「大人を語るならまずは一人暮らしくらいしてみたら?あんたいつまで日車さんと日下部先生の世話になってんのよ」
「それはちょっと異議あり、俺ちゃんと家事分担とかしてるし。日車だってキッチリしてるようで料理は壊滅的で、その辺を俺と先生でやってあげてむしろ甘やかしちゃってるくらいよ」
「甘やかされてるのはお前だろ。ルームシェアと言っても賃貸契約とかそういうのは全部日車さんと日下部先生任せだったんだろ」
うっ…図星。物件探しと内覧はしたけど、そんなのは当たり前だと言われそうで黙っておく。
「家探しから物件の契約から何から何まで自分でやった私と伏黒の方が一段階大人ってわけよ」
「いやいや釘崎も伏黒もめっちゃ日車とか伊地知さんに相談してたじゃん、自分1人でやったわけじゃないじゃん!」
「当たり前だろ。初めてなんだから知らない事だらけだし、それを相談して理解した上で自分でやるんだよ」
「ま、あんたみたいにムキにならないでできない事を『できないから助けて』って言えるのも大人の一歩よね」
「そういう事だ。…お前はなんでもできるって言うけど、それが全部いいわけじゃない」
「ほんとそれ。なーんか空元気っての?取り繕ってんのバレバレなのよ」
うそっバレてたの?俺は明後日の方向を見ててへぺろと可愛い顔をして話を逸らそうとした。でも2人は逸れてくれなかった。
「相談できる話なら聞くぞ」
「いや相談できない話でも吐いてもらわないとスッキリしないわ」
ぐっときてなんだか泣きそうになった。話していいものか正直迷う。でも、こうやって誰かに聞いてもらえるのは幸せな事のかもしれない。
「……俺、好きな人いるんだけど」
茶化される覚悟で言ったけど、2人とも黙って聞いている。まぁ、さすがにビックリした顔はしてて、伏黒のこんな顔見れたのレアだなと思った。
「で、独占したいって思ったんよ。その人はもう好きな人いるのに」
「まさかとは思うが既婚者…じゃないよな?」
「不倫ならやめなさいよ」
「違う…けど、同棲してるからほとんどそうかも」
釘崎が渋い顔をして腕を組む。
「『独占』ってどんな感じなの?」
「俺だけのものになってほしい。ハグとかキスとか俺とだけしてほしい」
「横恋慕の分際でぇ?」
「それはそうなんだけど……」
「お前は相手にどうなってほしいんだ?」
伏黒が真っ直ぐこっちを見て言う。
「だから…」
「結論から言えば、その人に幸せになってほしいと思うのかどうかだろ」
あっ…と思った。すげー当たり前の事なのにそのすげー当たり前の事が抜け落ちてた。俺は俺が好きだって気持ちばっかりで、相手が…日車がどういう気持ちなのかを想像できていなかった。好きとか大事にしたいばっかりで、それを日車が嬉しいとか幸せだって思っているかどうか…考えてなかった。日車だけじゃなくて、俺が割り込んだこの状況を日下部先生がどう思っているのかも見えてなかった。楽しいところだけほしくて目を背けてた。
「相手の幸せを願って身を引くのも愛の形よね。自分の気持ちばっかで困らせるのはガキって事よ」
ゴン。俺は崩れ落ちてテーブルで額を打つ。ゴンゴンゴンと続けてぶつける。その様子に周りのお客さん達がなんだなんだとザワザワしてる。
「ちょっとやめなさいよ!あんた達が変人なのは知ってるけど私までそう思われちゃうでしょ!」
「俺まで変人の括りに入れるな」
「ごめん。ほんで、ありがとう」
やるべき事が急に決まった感じがした。やるべき事…いや、絶対にやらなくてはならない事。
「あのさこの勢いでさ…もう一個相談のってほしいんだけど」
いきなりシャキッとした俺に、2人はちょっと困惑した顔を見合わせている。
「…しょうがないわねぇ〜特別にイチゴパフェでのってやらない事もないけど?」
「…ポテトで話を聞いてやる」
2人の気遣いが嬉しくて、俺は「んはは!」と声に出して笑った。
………
それから数週間後、俺は2人が揃ってる夕飯の時に伝える事にした。
「あのさ日車、日下部先生、俺……引っ越し、しようと思うんだ」
日車も先生も目を丸くして、日車に至ってはカランと箸を落としていた。
「引っ越し?はぁ?なんだそれお前」
「どうして…」
「待って、まず言っておく。俺は今の3人暮らし楽しかったし好き。でも、ずっとは無理なんだってわかったから、だから自分でお終いにしたいって思ったんだ」
2人とも首を傾げる。そりゃそうだ、先日『このままずっといたい』と言った奴が急に意見を翻したんだから。
「それから…」
俺は立ち上がる。立ち上がって頭を下げる。
「ごめんなさい。ごめん、俺がガキで周り見えてなせいで」
日車はぽかんとしてるけど、日下部先生は何の事か察してくれたらしく、座れと言ってくれた。日車が持ったままになっていたお碗をテーブルに置く。
「あと日車も日下部先生も、告白した時にバカにしないで聞いてくれてありがとう。あの時はそれを受け入れてくれたんだって舞い上がったけど、本当は俺を傷付けたくなくて日車に自分の事犠牲にして受け止めさせちゃってごめん。俺ずっと自分の事しか見てないガキで、ごめんなさい」
「遅えよ」
ちょっとだけ、ほんの少し…いや本当はだいぶ、優しく大丈夫と言ってもらえるかもと甘ったれた気持ちがあった俺を日下部先生が一刀両断する。
「はぁ〜何年かかるんだと思ってたがやっとかよ!マジで自立に何年かかってんだこのクソガキがよぉ〜!」
先生は席を立つと冷蔵庫からビールを取り出し、シンクにもたれて立ったままぐびぐびと飲む。日車は逡巡しながらゆっくりと口を開く。
「──俺は……君に謝られるような奴じゃない。あの時どう言葉を掛けるべきか考えあぐねて楽な方に逃げた。そのくせそんな不誠実な俺のせいで君の人生までそうしてしまうかと……怖かった」
「日車はなんも悪くないよ。俺が不誠実にさせちゃったんじゃん」
「…引っ越しは」
「宣言しといてなんなんだけどまだぼちぼち…てとこ。どの辺りが住みやすいとか、予算がどれくらいとか伏黒と釘崎に相談のってもらいつつ決めてる最中」
「不安なら契約に立ち会うが」
「ストップそれは無し!大丈夫ありがとう、自立の一歩として俺、自分で全部やってみようと思って」
「だから遅せーんだよその一歩がよぉ」
日車が先生をたしなめる。
「でもまぁ、車くらい出してやるよ。ちゃっちゃっと日取り決めてさっさと出てけ」
なんだかんだ文句言うくせに先生はやっぱ優しいんだよな、と苦笑いした。
「つーわけで話終わり!さ、飯食おう!」
肉野菜炒めを冷めちゃったご飯の上にのせてかっこむ。それを合図に先生が席に戻り、日車は落とした箸をもう一度持ち直して、その後はとくに何も話さず3人で黙々とご飯を食べた。
………
ついに引っ越しの日、先生が借りてきた軽トラに3人で荷物を積み込んで運ぶ。旅立ちに相応しい晴れやかな青空を期待したけど、空はどんより曇ってて、その辺も含めて様にならないのが俺らしいなとも思った。
「お前あの狭い部屋にどんだけ物溜め込んでたんだよ…これ新居に収まんの?」
日下部先生はダルい重たい休みたいと文句を言いながらも一番たくさん運んでくれた。トラックは2人乗りだから、俺は一足先に新居に行って2人の到着を待つ事になった。「荷台に乗っけてよ」と言ったら、日車が真面目な顔で「それは道路交通法違反だ」と言ったのが流石だった。
伏黒と釘崎に聞いていた通り、水道の元栓を開け、電気のブレーカーを上げる。ガスの開栓は営業所との約束の時間までまだちょっとあるからお預け。前日にも来て水拭きしておいたからフローリングがピカピカ光っている。
トラックが到着して、荷物を運び込んですぐ使うものから開封していく。前もって色々聞いていたのに、ゴミ袋をどこに入れたか忘れて、結局買いに行った。日車は「俺が上京したばかりの時もこんな感じだった」と懐かしそうにしている。
「お前晩飯は?なんか買ってくるか?」
「近くを散策がてら飲食店にでもいくか?」
2人が提案してくれたけど、俺は辞退する。
「夕方に伏黒と釘崎来るから大丈夫、引っ越し蕎麦パする予定なんよ」
「そばぱ?」
「お前な、引っ越し蕎麦は自分で食うんじゃなくて近所に配るんだぜ?」
「そうなん!?知らんかった…!」
「虎杖…そばぱ、とは何だ?」
ワイワイだべりながら荷物を片付けていく。今晩から2人はもういないのかと思うとツーンとなるように寂しかったけど、俺の自立を喜んでくれてる雰囲気を水を差したくなくて堪えた。なんせ大人になったのだから甘えてばかりもいられない。
「あのさ日車」
段ボールをまとめる手を止めて日車がこっちを向く。
「俺さ10年後くらいは立派な大人になってる予定なんよ。だからさ、その時もう一回告白するから覚悟しといてね」
「期待しておくよ」
照れくさそうに笑う日車に、日下部先生はコイツまだ諦めてねーのかと呆れている。
「つか虎杖、お前なんで俺と日車が別れてる前提みたいに話してんだよ」
「それは君次第じゃないのか?」
「おい!」
「大丈夫だって、だって日車は先生の方が好きなんだなって俺ずっと思ってたもん」
先生は露骨にはぁ!?と顔をしかめる。
「よく言うぜ、俺はコイツがお前にばっか甘いから気が気じゃなかったぞ」
「君は存外余裕がないのだな」
「お前のせいだろ!?」
「そういや前に余裕無いって言ってたよね」
「本人の前でバラしてんじゃねーよ!」
なんだか可笑しくなって、3人で声を上げて笑った。3人暮らしの卒業かつ1人暮らしのスタートにぴったりの、最高のファンファーレみたいだった。