愛の音色「あ……」
僕は部活をするために学校のグラウンドへと出る扉を開けた瞬間、耳に心地よく入ってきた音に気付き、ふり仰ぐ。そこには音楽室の窓が少しだけ開かれていて、カーテンが風によってふわふわと揺れていた。そこから聴こえてくるピアノの音に、何故か心を掴まれて、僕はぼーっとその音色に身をゆだねてしまった。なんだろう……。この、いつまでも聴いていたい気持ち。このピアノ曲はどんな題名? 誰が弾いているの? この甘く切なくなるような気持ちはいったい……。
そんな気持ちに浸っている僕の肩を、部活仲間が知らずにぽんぽんと叩いてくる。
「何してるんだテランス。はやく部活に行こうぜ」
その仲間の言葉にまるで魔法が解けたかのように、意識が現実へと戻される。
「あ、ああ……」
僕はもう一度音楽室の窓を見た。今もピアノの音が鳴り響く。僕は後ろ髪を引かれる想いを抱えつつ、仲間の後を追った。
◆◇◆◇
その日の夜、僕は不思議な夢を見た。
金色の髪、そして美しい琥珀色の瞳を持った美しい男性……。僕はその人と恋人同士だった。だけど彼とはそのあとどうなったのか、夢では教えてくれなかった。
「……」
朝日が差し込む光で、僕はゆっくりと目を開けてベッドに上半身だけ起きて考える。
「今のは……」
何故こんな夢を見たのだろう? あの男性はいったい……。 ただの夢にしては心がざわざわと落ち着かなくなり、思わず胸元をおさえる。
すると、何故か昨日のピアノ曲が頭の中を流れた。また昨日と同じくらいに胸が切なくなる。そんなに悲しいメロディじゃなかったはずなのに……。
「音楽室……」
なんだろう。僕はそこへ行かなきゃいけない気がする。それも今すぐ。じゃないときっと後悔する。僕は逸る気持ちを抑えつつ、学校へと行く準備をした。
◇◆◇◆
「あ……」
僕は待った。時が過ぎるのをひたすら待った。そして……。
夕焼けの橙色に染まった学校の放課後、僕はピアノの音を捉えた。昨日と同じピアノ曲、それだけじゃない……この胸が甘く苦しくなる感情は……! 僕は急いで音楽室へと向かい、部屋の前に立った。呼吸がうまく整わない。掌が震える。それでも僕は意を決して、扉をノックした。
「……はい?」
「……!」
部屋の中から聞こえた声に、心臓がドキリと跳ねた。僕は知っている。僕はこの声を知っている!
「し、失礼します……」
僕は声を震わせながら、扉を開けた。部屋のなかを見ると教卓と生徒たちが使う多くの机の奥の広い空間に、ピアノが夕焼けの光で淡く輝いていた。そのピアノの椅子に座っていたのは……。
「あなたは……」
そこにいたのは、夢に出てきた、恋人の姿そのものだった。綺麗な金髪、可愛らしい襟足、そして……僕を見つめる琥珀色の瞳がどこか喜びに滲んでいるのは気のせいだろうか?
しばし、お互いの視線が絡み合う。僕が緊張で動けないなか、彼はにこりと微笑んだ。その微笑みに、声を掛ける言葉が震えた。
「あ、あの……」
「……そこで……聴いてほしい」
彼は僕の言葉を遮り、鍵盤の上にそっと指を乗せて弾きはじめた。明るい曲……まるで僕らの出会いを祝福しているかのような……。僕は演奏をしている彼に目をやる。金色の睫毛がキラキラと輝き、綺麗な指先が鍵盤を叩く。もう何度も弾いているのだろう。動きに迷いが無かった。ピアノの綺麗な音が音楽室を満たす。まるで世界に二人きり、そんな気さえしてしまいそうな雰囲気だった。
……五分ほど経っただろうか。彼が鍵盤から手を離した。ピアノの演奏が終わったのだ。彼はふぅ……と息を吐き、呟く。
「『ジュ・トゥ・ヴー』」
「……え?」
『あなたが欲しい』……?
「この曲の名だ……」
そう言って彼は立ち上がると、僕に近づき、突然胸の中に飛び込んできた。
「え……!?」
彼の突然の行動に驚きつつも、僕は彼を受け止めた。抱きしめた彼の肩が震えている。
「私のことなど忘れて幸せに暮らしているのなら、それでよかった。なのに……お前はまた来てくれたのだな……」
彼の目尻からぽろ……と涙がこぼれていく。泣いている……? すると何故か僕の視界も揺らいでいく。これは……涙のせい? 僕も泣いているのか?
「ディオン……」
突然、するりと言葉が勝手に紡いでいく。抱きしめていた彼の肩がぴくりと震え、僕を見上げた。そうだ……彼の名はディオンだ。そして僕の最愛の……。
「ああ……テランス……テランス……! 私の夫……!」
「ディオン……ディオン!」
もう止められなかった。感極まって僕たちは噛みつくように口づけを交わした。何度も何度も。どうして忘れていたんだろう。この人は僕の最愛の人。けっして離れてはいけない人。ずっとずっと、会いたかった人……。顔の角度を変えて、何度もキスをする。そのキスは涙の味がした。
◆◇◆◇
ありったけの想いをぶつけあった後、僕たちは静かに身体を寄せ合っていた。言葉はいらなかった。ただ二人きり、夕焼け色に染まるなか、僕たちはそれまでの空白の時間を埋めるようにしっかりと抱き合っていた。僕はディオンの額に、ちゅっとキスを落として囁く。
「また……弾いてくれないかな……ピアノ……」
「……」
こくん、とディオンは頷き、僕の腕の中から離れて、ピアノへ向かう。そして椅子に座り、鍵盤に指を置いた。そして……ディオンが演奏を始めた。
「好きだよ……ディオン……また会えてよかった……」
ディオンは弾きながら僕へ顔を向けて微笑む。その顔は美しく、僕はまた涙を流した。音色から伝わるディオンの愛に気づけて良かった。僕はディオンの愛のピアノ曲に包まれながら、今度こそ幸せに、ディオンと共に生きていこうと心に誓った。