青空色の運命 ここは……どこだ?
私はきょろきょろと辺りを見回す。何もない。ただ黒いインクを垂らしたような真っ暗な世界が広がっている。その中でただ一人、私はそこで立ちすくんでいた。しかし立つといっても地面がそこにあるのかさえわからない。自分はもしかしたら浮いているのかもしれない。しかし浮遊感は何故かなかった。本当にただ暗い世界の中でただ一人、ぽつんと私はそこにいた。
「私は……何をしていたのだろう?」
思い出せない。とても大切なことだったように思うが、いくら頑張っても記憶は戻りそうになかった。
「私は……どうすればいいのだろう?」
ここから動けばいいのか? しかしどこへ行けばいいのかわからない。辺りは黒の世界……そんななかどう動けというのか。
「私は……」
そんなとき、微かだが遠くの方により一層の暗闇が見えた。真っ暗な世界の中でただ一つ霧のようにぼんやりと浮かぶ闇。
「……?」
何故だろう? あそこに行けばいいのだろうか? しばし悩んだが、ここにいるだけでは状況は何も変わらないと判断した私は、一歩、足を踏み出した。闇の方へ……。
「……!」
ドキリと心臓が跳ねた。闇の先にいたのは、私の愛するテランスだった。私は嫌な雰囲気を感じ、走ってテランスの腕を掴んだ。
「テランス! 無事だったか! ここはなんだか嫌な感じがする……。早くどこか違う場所を探さないと……っ」
「そんなに頑張らなくて、もう良いんです。ディオン様」
私の言葉を遮り、テランスがこちらを向いてにこりと微笑んだ。私の掴んだ手を、上からテランスが掌を重ねてくる。
「ディオン様は十分にお辛い人生を闘いました。私はあなたをずっと見てきました。子供の頃からずっと……長い苦しみからやっとあなたは解放されるのです」
そう言うとテランスは私のことをそっと、抱きしめてくれる。私の頭を、テランスは撫でてくれる。
「よく頑張りましたね。ディオン様……」
「テランス……」
その言葉を聞いただけで、不思議と勝手に涙が盛り上がり、頬を流れていった。頑張った……そう言われて嫌なものなどいないだろう。ここがどんな場所なのか、これからどうすればいいのか、考えなければいけないことは山ほどあるのに、私はしばらくの間テランスの腕の中で泣いた。しばらく泣いた後、そして……、私は気付いた。
「ここは……」
「ええ、そうです。ディオン様……あなたは亡くなったのです」
『亡くなった』……その言葉を聞いた途端、オリジンでの闘いの光景が脳裏によみがえった。そうだ私は……最期に、父上に向けて私の生きざまを見せて……。
「そうか……」
しかし、同時にちくりと胸が痛んだ。そう、想いを託して置き去りにしてしまったテランスの事だった。
「テランスは……長生きしてほしい……私のことなど忘れて、幸せに生きていってほしい……」
「ええ……」
そして目の前にいるテランスが顔を近づけてきた。私は目を閉じた。ここが幽世だとすれば、テランスと最後にキスが出来るのが嬉しかった。もう、何も思い残すことはない……。
ディオン様……!
「……え?」
突然、向こうの方から強く輝く、まるで朝日のような光が私に差し込んできた。私は思わず目を開く。
ディオン様……! どうか……!
この声は……?
「ディオン様」
すると目の前にいたテランスの様子がおかしいことに気付いた。テランスはいつまでも微笑み、慈しんでいるかのように私をじっと見つめている。しかしその瞳の奥には今ここにある闇の色と同じだった。
「違う……」
私は急に恐怖に襲われ、テランスの腕から逃れる。違う。テランスの瞳の色はそんな色ではない。私の愛するテランスの瞳の色は……!
ディオン様……!
「テランス……! その光の方へ行けばいいのか!? お前はそこにいるのか!?」
ディオン様……! お願いです……!
響くテランスの声は私の言葉が届いていない様子だった。しかし私はそばにいるテランスから離れ、光の方へと走っていった。
「ディオン様!!」
闇の瞳をしたテランスが叫び、私を呼んだ。だが私は振りかえらなかった。ここにいてはいけない。そう思い、ただひたすらに走る。がむしゃらに、光へ……。
◆◇◆◇
「ディオン様……目を開けてください……どうか……」
声が、聞こえる。その声を聞いていると、私の心が苦しくなってくるのを感じる。聞こえてくる声は泣いているのだろう、震えていた。
私は、まだ闇のなかにいた。しかし、違う。これは本当の闇ではない。これは……。私は力を込めてゆっくりと、重い目蓋をあげた。
はじめに見えたのは、天井だった。はじめて見る天井ではない。以前にも見たことがある天井だった。私は……寝ている状態なのか……?
そして、私の左手が何故か温かかった。私はゆっくりと顔を動かし、自分の左手を見た。するとそこには私の左手を握りしめ、肩を震わせて泣いているテランスがいた。
「て……ら、んす」
私が口を開き、やっとの思いで呼びかけると、ハッと顔をあげてテランスが私を見る。テランスの顔は涙で濡れていて、私を見て驚いていた。
「ディオン様……! ああ……! 目が覚めたのですね!」
テランスは、わっとさらに泣いた。私の左手に何度もキスをし、そして泣きじゃくった。
その声を聞きながら、私は先ほどのことを考えていた。きっとあの闇の瞳をしたテランスのキスを受けていたなら、私は死んでしまっていただろう。今思い返せば、私はあのとき「私のことなど忘れて、幸せに生きていってほしい」と言った。あのテランスは頷いたが、本物のテランスはきっと頷かないだろう。私のことなどけっして忘れない。テランスはそういう男だ。だから惹かれたのだ、私は、お前に……。
「私は、生きている、のだな……?」
「そうです……っ、ディオン様……っ、よく、ご無事で……」
生きている……、生きている……それは不思議な感覚だった。私はあと一歩のところで幽世から帰ってきた。テランスが呼びかけ続けなかったら私はそのまま死んでしまっていた。この僅かな差で運命がこうも決まるとは。運命とは不思議なものだ。
「……」
今思い返せば、テランスと出会えたことが、運命だったのかもしれない。兵器として生きることを強いられ、もしテランスと出会わなければとっくに私は死んでいたのかもしれない。しかし、テランスがいてくれた。小さなころから私のそばにいて、私を慕い、恋人になってくれた。私の心の支えになってくれた。私と共に生きてくれる人……それはなんて素敵で、大事なことなのだろう。私は、運命に感謝したくなった。涙が溢れて、横へと流れ、枕へと落ちてゆく。
「テランス……ありがとう……ありがとう……」
私の愛する運命の人。生きていてくれてありがとう。お前も怪我はないか? 薬売りの少女とは会えたのか? いろいろたくさん訊きたかったが、言葉は「ありがとう」しか紡がなかった。テランスはそんな私の事情をわかっているというように、こくん、と頷いた。
「ディオン様……大丈夫ですよ……」
大丈夫。その言葉に私は安堵した。よかった。本当によかった……。
部屋の中に差し込む光が不気味な以前の色ではない。綺麗な青空の光だった。私はテランスをもう一度見た。私の視線に気づき、テランスは微笑んだ。青空の光に包まれたテランスの笑顔は真っ暗な幽世では絶対に見ることが出来ない、美しい笑顔だった。