第四話第四話
「うわー、こりゃひでぇな、かわいそうに。」
「なぁ洋平、この子って…。」
「あーうん、多分そうだろうなぁ。」
「なんか、本当にいたんだな。」
「そりゃいるだろうよ。ここの制服だったんだから。まぁ、卒業しちゃってる可能性もあったけどな。」
「うぅっ…」
何人かの話す声が聞こえて✿の意識が浮上する。
「あ、目ぇ開けた。おーい、あんた、だいじょぶかぁ?」
開いた視界に映るぼんやりした黒い人影。少しずつ✿の意識がはっきりしていく。目の前にいるのは四人の男達だった。
「やっ…!」
本能的な恐怖から✿は必死で逃げようとする。
「あー、怖がんないでだいじょぶよ!」
落ち着いて、とジェスチャーで示す、金髪のリーゼントの男。
「なんかでかい音がしたからさ、覗いてみたらあんたが倒れてたから来てみたんだよ。」
「君たちは…誰?」
見たところ、目つきの鋭さはあるものの、同級生たちよりは幼い顔立ちをしている。
「あ、俺、一年十組の水戸洋平っていいます。」
「野間でーす」
「高宮でーす」
「大楠でーす」
ひらひらと順番に手を振る1年の4人組。
「あ、ありがと、三年の✿って言います。」
✿がどうにか上体を起こすと、左顎とこめかみに鈍い痛みがあった。
「いったぁ…」
そっとこめかみに触れると、ぬるりと嫌な感触がある。
(血だ…)
さっきまで自分の倒れていたところを見ると、いくつかの机と椅子が大きく列を崩し、一部は倒れ、そうしてできた場所には手のひらの大きさほどの血溜まりができていた。その惨状を呆然と見ていた✿に水戸が折り畳まれた白い布をさしだす。
「おでこの右側、切れちゃってるね。とりあえず、救急箱にガーゼあったからこれで押さえてて。保健室連れてくよ。歩けそうかい?」
「うん、ありがとう…。」
あれから陽があまり傾いてない様子を見ると、何時間も経ったわけではなさそうだ。もしかしたら10分かそこらかもしれない。水戸の肩を借り立ち上がると、五人は教室を出て、保健室へ向かった。
放課後に頭から血を流した女生徒が保健室に来る、と言うのはなかなかパンチがあったのか養護教諭もギョッとしていたが、すぐにカーテンを開けて、ベッドまで誘導してくれた。ベッド端に座ると、✿はほっとため息をついた。
「大変だったねぇ。少し落ち着いたかい?」
髭を生やした野間がニカっと笑いながら声をかける。
既に脅威は去ったと頭では理解していても、まだ✿の心臓はその恐怖を覚えていて、指先が冷たい。✿は少しずつ先ほど起きた出来事を思い出していた。養護教諭は✿の傷口にガーゼを貼りながら、心配そうに切り出した。
「✿さん、二度手間で申し訳ないけど、頭部の怪我だからこの後、病院で診てもらってちょうだい。女の子だもの、傷口を縫って綺麗に直した方が良いし、頭打ってるなら精密検査も必要よ。病院とお家の方に電話はしておくから。」
「わかりました、ありがとうございます。」
「それで、どんなふうに怪我したの?」
怪我をした時の状況を聞かれるのは当然のことだろう。だが、
(グレた同級生と口論になって、カッとなった相手に叩かれて、避け損なってこけて机に突っ込みました…なんて言えるわけがないよね。)
✿には犯人を公にし、謝罪を求めるなどということは既に頭になく、優先されることが別に存在していた。
「えっと、新歓活動の片付けで校内を回ったあとに、教室に戻ったら、窓の…天窓の鍵が空いてたから、閉めようとしたんです。机の上に乗ってたらバランスを崩してしまって、そのまま机に突っ込んでしまいました。」
咄嗟の割にはその乾いた口からそれなりの方便が出てきた。
「気絶したみたいで、気がついたら、水戸君たちが介抱してくれて助かりました。大きな音がしたから、見に来てくれたみたいで。ほんと、ありがとね。」
「そうなの?」
「そうでーす」
両手でピースサインを見せるのは高宮。
「なるほど…」
養護教諭が記録を取っていると、ガチャリと大きな音を立てて保健室のドアが開いた。
「怪我したって?大丈夫か✿。」
「先生。」
✿の担任は端にいた桜木軍団に目をやると、露骨な嫌悪の表情を見せた。
「お前ら、一年の桜木の取り巻きか?まさか、お前らが✿を殴って怪我させたじゃないだろうな?」
「は?」
担任のいきなりの物言いに✿は唖然とした。
「はぁーなんだよそれ!人聞き悪ぃな!」
「なんだと?大体いつもお前らは…」
「やめてください!!」
「✿サン…」
「しかしお前…」
「何なんですか先生、開口一番冤罪沙汰ですか。大体水戸くんたちは倒れた私を介抱してくれたんです。怪我をしたのは私の不注意で、みんなは関係ありません。それでもみんなは大きな音がしたって3年の教室まで見にきてくれて。それを殴ったの何だの、あんたは私の話も聞かずに決めつけるんですか!」
「だが✿、こいつらは」
「素行不良ってだけで冤罪成立させる気かあんたは!それが教師の仕事かよ!一体何年この仕事やってんだよ!」
「ぐっ、す、すまん。」
「私じゃなくて水戸くんたちに謝ってよ!」
「いーっていーって✿さん、俺らこーゆーの慣れてっから…。」
「そうですよ先生、いくら慌てていたと言っても今のは不適切ですよ。」
ピシャリと言いはなつ養護教諭に、四面楚歌となった担任は頭をガリガリとかくと、
「わかった、そうだな、悪かった。私も気が動転していたんだ。今のは取り消す。すまなかった。」
深く下げられた頭に今度は水戸たちが唖然とした。
「とにかく✿、大事に至らずよかった。高いところの作業は2人の時にやるとか、棒を使うとかしろ。ちゃんとこの後診察してもらって帰れよ。明日も無理はしないようにな。」
そういうと、現場を確認して来ると言って担任は保健室から出て行ったものの、その場には何とも気まずい空気が流れている。
(い、言ってしまった…担任相手にキレてしまった…どうしよう。)
✿は転校したこの学校では、今度こそ目立たずひっそりと過ごしていようと決めていたにもかかわらず、先ほど三井に怒鳴り散らしたこともあり、完全に気が立っていた。
「何か、みっともないとこ見せて、ほんと、ごめんね。」
いたたまれなくなり、✿は小さく縮こまってぽつりとつぶやいた
「大丈夫よ、✿さん、正論だもの。謝ることないわ。かっこよかったわよ?」
「先生まで何言ってるんですか…。」
養護教諭はこの状況を楽しんでいるような口調で話している。
「ふふ、✿さん、ちょっとすっきりしたみたい。あなた結構我慢しがちなところあるしね。生徒にあの程度怒鳴られたって、あの先生だったら何ともないわよ。」
「そんなもんでしょうか…」
「ベテランとはそう言うものよ。くぐってきた修羅場ってものがあるの。さて、この流れで悪いんだけど、水戸くん達は一応✿さんの病院付き添ってもらえるかしら。」
「「「「はぁーい」」」」
息ぴったりの軽いノリの合唱が聞こえた。
「いや、全員じゃなくて、一人でいいから…」
保健室を後にし、荷物をまとめて、校門を出る。
日は沈み、駅に向かい帰宅を急ぐ部活終わりの学生たちに追い抜かれていく。✿の学生かばんはいいよ、平気だよ、自分で持てるよと言う必死の抵抗にも「まぁまぁ、せっかくだし、頼りにしてよ。」と言いながら野間に奪われ、両手に花ならぬ両手に騎士(と書いて不良と読むべきか)で歩いていく。
「いやー、さっきのセンコーの顔マジウケるわ。✿先輩かっこよすぎ。」
「確かに。✿さん、結構感情的になることあるんだねぇ。一見クールな感じするのに。」
「いやほんと…ごめん、恥ずかしい。そのさっきのは忘れて欲しい。どーも教師にはキツく反抗しがちでして…。」
「いやぁ、そんなの俺らに比べりゃまだまだよ」
「そゆときもあんじゃねぇの?いーんじゃん、忠の言う通りカッコよかったし。っていうか、✿先輩よくバスケ部の練習見に来てたよね。」
「うん。…好きなんだ、バスケット。」
✿はそういうと、湘北に来て、自分の口から「バスケットが好き」と噓なく言える喜びをかみしめていた。
学校から連絡が入っていたせいか、受付で名乗るとすぐに診察室に通された。診察を受けると自分からは見えないが、右のこめかみに2センチほどの切り傷があったらしい。開口が大きいので、丁寧に塗ってもらって、処置は終わった。打撲もあるため頭部の検査もするとのことで、✿は一旦待合室に戻された。
「すぐ縫ってもらえてよかったねぇ。」
「そうだね。左顎もぶつけちゃってるから腫れるって。しばらくマスクして学校行こうかな。」
「気をつけてよねー✿ちゃん先輩、綺麗な顔なんだから、大事にしないと。花の女子高生なんだから」
「あはは、野間君なんかおっさんくさいな。でもそう言ってもらえるのは嬉しいねぇ。ありがとう。あとは検査だけだし、水戸くんと野間くんは帰って大丈夫だよ?」
ここまで付き合わせた申し訳なさから、✿が二人に解散と帰宅を促しても、水戸は立ち上がる気配がない。
「いや、あんたとちょっと話したくてさ。いいかな、痛むならまたにしたほうがいい?」
「? ううん、少しなら大丈夫だけど、何かあるかな?」
「じゃ単刀直入に聞くな。あ、まず今日の話じゃなくて、ちょっと前の話。」
その水戸の言葉を聞いて、「あ」の形の口で野間もこの後の内容を察したようだ。
「去年の8月ごろかな、1年の桜木花道の親父さんが倒れた時、病院に連れてって助けてくれたのってアンタで間違いねぇかな?」
「!!」
(ばれた…!)
ばれてしまった。
「そう、です。私が…やりました…。」
またも気まずそうに下を向き、ぽつりとこぼす✿にぶっと噴き出した水戸。
「いや、容疑者じゃねんだからそんなリアクションしなくてもいいだろ。俺ら別に恨んでるとかねぇから安心して。確認てだけだよ。覚えてる?花道と病院で合流したときにアンタが会ったのが俺たちだよ。」
「そっか、やっぱりアンタだったんだな。」
「ていうか、そうだよ、あれからどうなったの?桜木君のお父さん。」
「知りたい…?いいの…?」
そう言う水戸の顔は言いにくそうな、苦い顔をしている。
その意味を察し、✿が息をのんだ
「えっ…まさか…そんな。」
隣にいる野間も、先ほどの軽快な様子は影を潜め、うなだれたまま、待合室の床を向いている。
(亡くなったんだ…お父さん…。それを抱えて桜木君、いつもあんなに明るくふるまっていて…!)
水戸はゆっくりうなずくとその重い口を開いた。
「親父さんはすっかり良くなってさ。花道と2人で仲良く暮らしてるよ。」
「…はい!?」
「…だーっはっはっは!ごめん✿ちゃん先輩!からかっちった!」
「ええー!?」
✿の驚いた顔がよほど面白かったのか、水戸と野間は腹を抱えて笑っている。
「え、ちょっと、どこからが嘘なの!?はっきり言ってよ!怒るよ!私、当事者なのに!」
「ごめんごめん。ちょっと✿ちゃん先輩が『まさか』って暗いムード出すから、思わず、さ。でも俺ウソは『言って』はいないよ?」
「えーっずるい!」
「ひー面白、いや、今のは洋平が悪いわ。俺ぁ乗っかっただけだ。」
「なんも心配ねぇよ。あれから、しばらく親父さんは入院してだけど、順調に回復してった。なんとかっていう心臓の病気で、その時のあんたと花道の対応が早かったのが良かったらしくてさ。仕事もちゃんと続けてる。」
「そっか、よかった、本当に……。」
目を潤ませながらよかった、本当に良かったと繰り返す✿に水戸は少し、照れたように鼻を擦りながら続けた。
「あんなことがあったからかな、花道が少し変わったんだわ。喧嘩っ早いのは相変わらずだけど、なんか、ちゃんとこっちを見るっつーか、俺らを頼ってくるようになったっつーか。昔はさ、殺気がギラギラしてて、あんま話さねぇし。昔は喧嘩してボロボロでも黙ったまんまで突然ぶっ倒れたりさ。それがさ、喧嘩も随分減ったし、親戚の人が時々様子見に顔出してくれたり。不器用なりにあいつが親父さんと過ごす時間も増えてさ。」
「そうそう、花道のやつ、よく笑うようになったよな。最近は親父さんと家のこととか一緒にやってんだよあいつ。家事ができる不良ってすごくね?訳わかんねーっしょ」
なはは、と笑う野間には、年相応の幼さが見えた。
「あいつ時々さ、どーしたら良い?って俺たちに聞いてくるんだよ。誰かを頼るってのが苦手な奴もいて、でも結構大事なんだな。知らなかった。きっと✿先輩があの時励ましてくれたからじゃねぇのかな。」
『しんどい時はちゃんと誰かを頼って』
『みんないるからね』
『1人で諦めちゃ、だめだよ』
『今度は誰かが君を頼りにするから』
「そっか…。」
「花道の親父さん、俺もよくしてもらってて、飯食わせてもらったりしてたから、俺にとっても大事な人だったからさ。ほんと、ありがと。あんたは俺たちの恩人だよ。すげぇことしたんだよ。」
水戸からの思いがけない朗報は、怒りと恐怖で荒れていた✿の心を少し鎮めてくれた。
(嬉しいな…。)
「でも、お互い名前も知らないままサヨナラしちゃったから、そこは大変だったんよ。湘北の制服しかわからなかったからさ。」
確かに、あの時は2人とも極限状態で、最後まで自己紹介をする余裕はなかった。
「え、湘北(うち)に来たのって、まさか私を探しに?」
「最初はそうかと思ったんだけどさ、でも全然✿先輩の顔覚えてなかったらしくて。そんで入学したら、晴子ちゃんに一目惚れして、そのままバスケ始めて頭いっぱいになったみたいで忘れちゃったかね。夏に会ったときは制服新しかったから、あの時1年かなと思って、俺たち入学して2年生探したんだけど、まさか3年だったとは。」
「いやー、俺は先輩に告白してフラれて新記録達成を期待してたんだけどな!」
チッ、とふざけて悔しがる野間。
「え、新記録って何…?」
「ああ、いや、こっちの話。」
怪訝な顔をする✿を慌てて水戸がごまかしていた。
「桜木君は、私のことまだ気づいてないんでしょ?」
「今んとこそうだね。どうする?話したい?」
「うーん、内緒でいいんじゃない?変に気を遣われてもやりづらいし。お父さんが無事回復されたってだけで、本当に十分だよ。いい話聞けて、よかった。すごく、ホッとした。」
と言うわけで、これで、と✿は嬉しそうに人差し指をそっと唇に当てると、野間と水戸は「りょーかい」とうなづいた。
「って事で、借りが出来たついでにもひとつ。」
ニコニコしながら水戸は✿に別の話題を振ってくる。
「え、まだあるの」
「あるのヨォこれが。」
ふざけながら返す野間を横目で見ると、水戸はぐっと✿に顔を近づけ、ささやいた。
「✿先輩のその怪我ってさ、本当は誰かに殴られたんでしょ?」
「!」
軽く目を見開いた表情をしてしまった✿に、やっぱりね、と言いたげに水戸が口の端を軽くあげて笑った。
「実はさ、机が倒れる音がした時、俺たち屋上から降りてくる階段にいたんだよ。そしたら誰かが駆け降りてってさ。顔は見えなかったけど、制服からして男だった。ひょっとしてそいつにやられたんじゃない?」
「そんな訳で花道の親父さんの件で俺たちはりっちゃんに恩もあるし、もう手出しできないようにとっちめてこようかなと思ったわけ。良いかな?心当たりのあるやつ全部ボコってこようかと。」
そういうと、拳をゴキゴキと鳴らす野間。言い方こそ相当物騒だが、おそらく彼らは本気で✿のことを案じてくれているのだ。
(不良は不良なんだろうけど、根はやさしい人たちなんだろうな…)
だが、✿にも✿の矜持があった。✿はふ、とゆるい笑顔を作り、答えた。
「心配してもらって悪いけど、違うんだよね。さっき言った通りだよ。机に乗って窓閉めしてたら、転んで倒れて、切ったんだよ。それだけ。階段を降りてった男って言うのは知らないなぁ。」
野間と水戸は、✿に怪訝な顔を向けた。
「いやー✿ちゃん先輩、そんなはずないっしょ!」
「もし、誰かにやられたんだならさ、先輩、また危ない目にあっちまうよ?」
「ううん。いなかった。誰もいなかったよ。」
緩やかに息を吸って、吐き、二人の目を見て答えた。
「あの教室には、私しかいなかった。私がドジって怪我しただけだよ。」
本当のことは、どこから漏れるかわからない。桜木軍団が、✿を殴り飛ばした後、走って逃げたのであろう三井について、担任にに話す可能性も、ゼロではない。知る人間は極力少ない方がいいに決まってる。
✿は昨年秋の女子バスケット部の再結成時と、3年の進級時に、職員室に置かれた部活動登録書類が綴られたファイルで2度も確認した。
三井寿は今でもまだバスケ部員だった。
それはつまり、部活動の規則上でも部員として部に対して未だに義務と責任が発生しているということだ。三井のが✿にしたことが露呈したら、大変なことになってしまう。
真実は、良い結果につながるなんて、おとぎ話かアニメの中の話なのだ。
「ええー、でもさぁ…」
「やめとけ、忠。そっか。それならまぁ、いいか。」
渋る野間をたしなめ、しょうがねぇか、と水戸は✿に向きなおる。
「そうだよな。もしあの時、✿先輩が倒れてて、誰か居たんなら、助けてるはずだもんな。殴ったなら論外だし、本当に事故で、もしその場にいた誰かが助けずに逃げ出したんなら、そいつは」
水戸はそこで言葉を切って、一度息を吸って、吐き捨てるように言った。
「…とんだクソ野郎だもんな。」
「何か困ったことあったら、相談して」と念を押すように言いながら、✿を駅まで送り、3人は別れた。
街頭と店の明かりがともる駅前通りを歩きながら、野間がごちた。
「バレバレな嘘つくよなぁあの子。可哀想に、綺麗な顔に傷作ってまでさぁ。何を考えてるんだか…。」
「まぁ、何かしら庇ってるんだろうな。あそこまで意地はるんなら仕方ねぇよ。」
「…傷、残らないと良いよなぁ。」
「だなぁ。」
◆◇◆
病院に行った後、心配した母に事情を説明し、少し休むといい自分の部屋に帰り、潜った布団の中で考える。
桜木親子の件はよかった。素直に嬉しかった。
ただ、それでも✿の心に影を落とすのは、あの夕暮れの教室での、三井とのやりとりだった。
(私、三井に何て酷いことを言ってしまったんだろう…。)
言葉が止まらなかった。✿にあそこまで言わせてしまった衝動はどこから来たものだったろう。
「宮城が、三井と、その不良仲間と喧嘩になったって」
木暮から聞いたのは春も近い2月の半ば。珍しく神奈川に雪の降ったあたりだったか。
その連絡を聞いた翌週、もう一度木暮から✿に電話があった。
「宮城が、バイクで転倒事故を起こした…。」
警察からの検分から聞く分には、宮城個人のスピード超過による転倒事故。酒気はなく、運転手である宮城本人の過失と断定された。
けれど、そして木暮や✿は赤木や3年の間で「生意気」「態度が悪い」と称される宮城との軋轢を知っていた。自分が至らず宮城を追い詰め、三井の件だけではなく、自分も宮城の暴走事故の原因の一端になっていたと自責の念にかられる若き主将の背中を見ていた。そんな時に木暮が悔しそうにぽつりと「こんな時に、三井が戻ってきてくれていたらと思うよ」とつぶやいたことを✿は覚えている。
✿が三井にたたきつけた言い分は、一方的に決めつけた話だ。三井がこれまで何を思って、何に悩んでいたのか、本人から聞いているはずがない、もはや聞くことすらかなわないだろう。
2月に起きたあの事件だって、あくまで、宮城と三井の関係性の話で、✿はどう見ても部外者だったのだ。ただ、その事件をきっかけに様々な不和や亀裂が生じるのを見てきた✿には、この悲しみに、悔しさにつける名前が見つからなかった。
宮城との暴力事件について知った時、✿は三井を信じているわけでもないのに、三井に裏切られたと思ってしまった。それは✿が作った偶像の押し付けにすぎない。
かつての三井は才能に恵まれた3Pシューターではない。確かに、試合しか知らない校外の人間から見ればそうだろう。だが✿や三井をよく知る部の仲間から見れば、彼は努力に裏打ちされたオールラウンダー。監督との信頼関係を築き、主将として仲間や後輩思いで、自身は陰で努力を惜しまず、そう言う男だった。そんな三井を✿は尊敬し、自身の目標にすらしていた。
その自信が怪我による戦線離脱で覆る。自分が強くしようと誓った部が、自分がいなくなっても回っていく。その絶望はどれほどだっただろう。
自分は高校で三井に起きたことを人伝に聞くばかりで、三井の胸の内を知ろうともせず、「三井がそんなことするはずない」などと信じていて。
三井はそんなことしない、そんなやつじゃない、本当はバスケがしたいはず、絶対また戻ってくる、そんなふうに勝手に祭り上げられた挙句、「結局諦めたのか」「全国制覇なんて口だけだったじゃないか」と勝手に失望されていたら。彼の抱えた孤独や不安に寄り添うものがいなかったとしたら。
そんな三井に自分はなんて言葉をかけた?
(……最低だ、あたし。)
『偉そうなこと言いやがって、わかったようなこと言ってんじゃねぇぞ!』
その通りだ。
(ごめんね、三井……ごめんなさい……!)
そんなことを言う資格は✿には無かったのに。
少しだけ浮上したはずの心が、くるりくるりと深い海の底に落ちていくようだ。
三井に殴られた頬より、倒れる時に切った傷よりも、今この瞬間の方がずっと痛い。
彼が欲していたものは何だっただろう?
つらかったよね、寂しかったよねという一言すら言えなかった。
あの日、泣きじゃくる桜木花道には、あんな事を言っておいて、自分は長い付き合いの友人に、なんて言葉を吐いたのか。
「ごめん…なさい…。」