コイとユーレイ② 覚えていないのだというのはすぐに分かった。否、俺の勝手な希望を押し付けていただけに過ぎず、もしかしたら覚えていた上で知らない振りをされたのかも知れないけれど。落とした財布を拾い上げて、「落としましたよ」とかけられた聞き覚えがあり過ぎるその声に期待して振り向いた俺が勝手にがっかりしただけなのだ。
鯉登少尉ならきっと満面の笑みで俺の名を呼んで駆け寄ってくれるんじゃないかと、勝手に期待していた。だから、よそ行きの笑顔で差し出された財布を受け取りながら、ああ彼は俺の知っている鯉登少尉ではないのだと悟ったのだ。
「いや知りませんけど」
ざわつく居酒屋で、俺の正面に座った江渡貝が腑に落ちない表情でつるつるに磨かれた木の机の上にジョッキを勢いよく置く。まあそう来るだろうとは思っていたから、特にそれには驚きも咎めもせずに枝豆を口に放った。
「ていうか覚えてるとか覚えてないとか関係あります? 会いたかったんでしょう、その人と」
「あー……」
会いたかったのかと訊かれると素直に頷くことができないのはきっと、邪念が大き過ぎるせい。何の根拠もなしに、きっと彼は俺のことを覚えていて、だから再会したら、などと夢を見ていた。それがそうではなかったと現実を突き付けられてしまった今、本当に会いたかったのかどうかすら自信がない。
「そもそも、向こうが覚えていなければ接触しないと決めていたし」
「なんで? 全然分かんないんですけど。会いたかったんですよね?」
「んー……」
記憶のない彼と接触はするまいと決めていたところからも、純粋に鯉登少尉に会いたかったのではなく、俺のことを覚えていて、俺のことを好きな彼に、会いたかったのではないかという自身への疑念が湧いて来る。纏まらない考えを誤魔化すように残り少なくなったジョッキを持ち上げてビールを煽った俺に、江渡貝が大きく溜息を吐いた。
「月島さんて結構めんどくさいですよね」
「俺は元からめんどくさいよ」
「知りませんけど」
「それより江渡貝、文化祭の件だが、前山も都合つくみたいだから観に行くよ」
「本当ですか!?」
ぱっと顔を明るくした彼が身を乗り出す。その拍子に彼のジョッキが大きく揺れて、零れる前に咄嗟に支えた。
以前の生では随分と短い間しか過ごさなかったけれど、どうにも縁があったらしい彼とは既に数年の付き合いだ。知り合った時は高校生だった江渡貝も今は服飾科に通う大学生で、次の文化祭で彼の作った服をお披露目するのだと言う。それを是非観に来てほしいとチケットを三枚押し付けられたのに、ちゃっかりしているなと小さく息を吐いたのは数週間前だ。
「鶴見さんもいらっしゃるんですよね?」
「今のところはな」
「気合入るなあ!」
ぐっと拳を握った江渡貝を横目に茗荷寿司をつつく。大本命は今世でも俺の上司である鶴見部長だろうが、案外前山のことも気に入っているらしい。同僚である彼はこの件を話したら、つぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせて、もちろんと頷いてくれた。
江渡貝は、むかしのことを覚えている。だから数年前、高校の制服姿の彼と偶然目が合った時、何の疑いもなく満面の笑みで「月島さん」と声を掛けて来た。
「あの時、俺が覚えてなかったらどうしてたんだ?」
「え? ああ、再会した時ですか? どうもしませんよ。それならそれで、人違いでしたって言って別れてたんじゃないですか」
握った拳で今度はジョッキを握り、ちびりと傾けた彼がさも当たり前のような顔をして答える。案外大雑把な所がある江渡貝の、妙にポジティブというか、なるようになれ精神というか、こういう所は考え過ぎる気がある俺には真似ができないなと感心した。
とは言え、鶴見部長に対しては慎重なアプローチをしているのを見ると俺や前山に対しては雑でいいかと思っているのかも知れないけれど。けれどその大雑把さが何となく心地よかった。
誰もいない部屋に帰って、ふと短く息を吐く。鯉登少尉の通う大学に納品に行くのは、楽しみでもあったけれど憂鬱でもあった。当然のように全てを把握している鶴見部長は半ば面白がって俺を派遣しているのだろうけれど、もうそろそろ誰か別の人間に代わってくれないかと相談してみよう。時折敷地内で見掛ける彼が俺をちらと見たところで、声を掛けて来るでもなく、笑いかけて来るでもないのがひどく辛い時があった。
俺が覚えているからといって、彼もそうだとは限らない。そんな当たり前のことにすら思い至れなかった自分の思い上がりを恥じながらスーツをハンガーに掛け、ネクタイを緩めた。スラックスのポケットでスマホが震え、画面を確認してから万年出しっぱなしの炬燵の上に伏せる。今は何となく読む気になれなくて出だしだけ確認したメッセージの言葉を頭から追い出した。
『結婚式の相談なんだけど、』という書き出しは差出人を確認せずとも誰だかは分かっているのだけれど。今は少し、今だけでも、俺のことを好きだった、鯉登少尉の想い出に浸っていたい気分だった。
長年賃貸で借りているこの部屋は築年数は古いけれど、風呂が広くて気に入っている。湯船に身を沈めて深く息を吐き出した。大学で見掛ける鯉登少尉はよく杉元とつるんでいるらしい。顔に傷がない杉元は最初誰だか分からなかったけれど、彼らを遠巻きに見ていた女子生徒が「鯉登くんと杉元くんだ」と言っているのでやっと認識した。平和な現代で顔にあれだけの傷があったら逆に何があったのかと心配になるかと一人小さく笑う。それにしても、二人とも顔の作りがいいせいで随分と目立っていた。身長もあって顔も整っていて、あの大学の偏差値を考えると頭もいいのだろう。そんな彼らはきっと引く手あまたなのだろうなあと浴槽の端に頭を預け、水滴のついた天井を見上げた。
何もわざわざ俺のような者を彼の人生に関わらせずとも、いまの鯉登さんが幸せであるならそれでいいじゃないか。あの頃は何もかもが極限状態だった。昨日まで共に戦った者が明日には裏切り、目標にしてひた走っていたその先が単なる空虚であるような。そんな中で唯一身を寄せ合うしかなかった相手だったから、魔が差しだのだろう。そう考えなくては、辻褄が合わないのだ。そのくらいに、俺と、鯉登少尉は何もかもが違い過ぎた。
家を潰すわけにはいかないと、結婚を切り出された日の事はよく覚えている。今にも泣き出しそうに眦が赤くなって、それでも決して目を逸らさずにいた彼の熱視線は俺の些末な独占欲や嫉妬心を焼き払った。
時折仕事のついでに彼の私宅に寄って赤子の相手をする。俺にもよく懐いてくれたその子は心底可愛かった。美しい奥方は美しい鯉登少尉とよく似合っていて、絵に描いたような幸せな家庭だったと思う。俺にもいくつか縁談はあったけれど、すべて断った。単純に俺の血を残したくなかったというのもあったし、家庭を作る自信がなかったというのもある。だから、その分。鯉登少尉のご家庭をサポートして、疑似的な体験をすることで満足だったのだ。
極稀に込み上げる、彼に対するやり場のない激情さえ飲み込むことができていれば、表面上は何ら問題はなかった。晩年、彼よりも先に旅立った俺を、彼はどんな風に見送ったのだろうと考えることがある。所詮は詮無き事なのだけれど、俺のために泣いてくれたのだとしたら、その涙を見たかったなと考えることがあるのだ。
両手で掬った湯で顔を洗って、深呼吸をする。俺のこの後ろ暗い感情は、彼にはとても似合わない。健全に、真っ当に彼を見守ると決めたのだ。そもそも、鯉登少尉に記憶がないのなら彼には必要以上に接触しないと決めていたのだから、もうそれでいいはずだ。
それでも、やっぱり彼の眼に自分が写ることを望んでしまうのはもう、仕方のない事なのだろうか。我ながら未練がましいなと苦笑して、水面に写ったその顔がいやに歪んで見えた気がした。