戦う 穏やかな朝。朝起きて、部屋を出ると台所からは卵焼きの良い匂いがした。母親が朝食の準備をしている。顔を洗わぬまま、台所へ行っておはようと声をかえると、必ず笑顔で振り返って答えてくれる。母子二人暮らし。暮らしは貧しいけれど、母親が隣にいてくれるだけで幸せ。
高校へは徒歩で行く。なるべく通学費用がかからないところを選んだ。
高校の塀が見えてきたところで、不意に声をかけられる。振り返ると、そこには筋骨隆々とした男がいた。額から目にかけて大きな傷跡が目立っている。それに、なんとも険しい表情をしている。フィクションから出てきた不良のような存在だ。こんな表情をする人間とは、これまで縁のない人生だったので、声をかけられ心臓が跳ね上がった。
「加茂ッ!何してんだッ!!早く思い出せ!!」
そのまま勢いよく胸ぐらを掴まれ、凄まれる。恐怖で言葉が出てこない。きっと誰かと勘違いしているのだ。
僕は知らない。
怖い。怖い。怖い。誰なんだ。
「……ひっ、人違いではないですか?僕は、そんな名前じゃありません」
振り絞った声は裏返っていた。冷や汗が流れる。
同時に男は舌打ちをして、不機嫌そうに名を聞いた。
「僕は、……ノリトシ……」
「やっぱり加茂じゃねぇーか!」
「違う……加茂なんて、知らない……」
「じゃあ、なんだ?オマエは何者だ?」
「えっ……あ……」
答えられない。怖い。今度は声を振り絞ろうにも、息ができない。目が熱い。血液が沸騰しそうだ。
僕は、何者だ?
僕はノリトシ。名はある。母親が与えてくれた名はある。しかし、それ以上を思い出せない。冷や汗が止まらない。背中が冷たくなっている。相手が怒っているのが分かった。
「早く、戻ってこい」
そう凄まれても、僕には分からない。
どこへ?
「おい!何やっているんだ!!!」
校門の方から教師が叫んでいる声がした。
良かった。助かったと安堵した矢先、目の前の空間がぐにゃりと歪み、胸ぐらを掴んでいた男が消失した。
すとん、と身体が地面に崩れ落ちる。駆け寄ってきた教師が隣で何か言っている。聞こえているはずなのに、頭に入ってこない。ぐらりと、意識が遠のいていく。
◇◆
正体不明の呪霊が空き家に現れたとして、急遽二年の三人が任務に就くことになった。空き家と言っても、どこかの由緒ある一族が住んでいたらしいとされる古い屋敷だ。そこで、子供が行方不明になると噂されている。
まずは、西宮が屋敷の上空を偵察。安全を確保した後、東堂が先発で侵入。少し間を持って、加茂と西宮が後方支援として入る。
屋内は黴びた匂いが鼻につく。障子や襖は破れ果てている。
「東堂、あまり先走るな」
「うるせー、こっちはなんもねぇ。早く来い」
「おいっ、和を乱すな」
「あー。もう。いい加減にしなよ」
三人寄れば、大体この展開になる。西宮が呆れ果て、東堂に追いつこうと足を進めた。
「ほら加茂くんも」
西宮が振り返ると、一人で硬直する加茂がいた。よく見れば汗をかいている上に、呪術式を使用しているのか、目から血が滲む。
「加茂くん?」
「手を、手を引かれている……。西宮、東堂を呼っ……」
加茂が言い切る前に、黒い球体が加茂を覆った。恐らくこれは、呪霊の領域。加茂がソレに引きずられた。
異変に気付いた東堂は、すぐに丸く覆われた領域を破壊するため打撃を放った。力技でかち割るしかないと思ったところ、拳はすんなりと壁を通過し、振り切った拳の勢いのまま東堂自身も領域に飲み込まれた。
「東堂くんッ!!」
同級生、しかも一級と準一級が予期せぬ事態で目の前から消えてしまったのだ。西宮はパニックに陥りそうだった。しかし、自分が取り乱せば、彼らの生存率が下がってしまう。息を整え、三分待つ。それで二人が戻らなければ、外にいる補助監督に連絡。
呪霊がこちらを攻撃する可能性もある。警戒しながら、西宮はじっと構えた。