「亡霊の再臨、或いは死神の登壇」鬱、と呼ばれる青年の過去は、およそ謎に包まれている。
出身はもちろん、家族構成や身の上話などを彼が口にすることは殆どない。
せいぜい、現総統であるグルッペンと昔からの知り合いであることと、そのグルッペン直々にヘッドハンティングされたこと、そしてこの軍に所属してからのことしか明確なことはわかっていない。
煙に巻いたように掴み所のない冗談を重ね、嘘だと笑い、揶揄う彼。
噂は噂を呼び、実はとある国からのスパイであるとか、某国の元首相であるとか、凄腕の暗殺者であるとか、果ては宇宙人説まで出てくる始末。けれども、まぁ最後には、彼に関わった全ての人間は「そんなわけないだろうけど」と笑っていた。
——そう、そのときまでは。
「——へえ、生きとったんや?」
常ならは眠たげに伏せられたその瞳の中の瞳孔を見開き、ギラギラと強烈な殺意を宿して彼は笑っていた。
その仲間の一人の姿に、ほとんどのメンバーは呆気にとられた。
彼の強い感情の発露を、初めて目の当たりにしたからだ。
映像に映っているのはただの壮年の男性だった。鬱以外の誰も、その男のことを知らない。なんの情報もない。だが濃紺の瞳が、冷え冷えするほどの殺意を乗せて男を睨め付けている。
穏やかに彼らを見守り、いつもへらりと笑っている男とは思えないほど鋭い気を纏う彼に、誰かが戸惑いの声を漏らした。
「——鬱」
低い声が、彼を呼ぶ。激情に瞳をぎらつかせながら、彼は濃紺の瞳を声の主に向けた。
「……なんや、グルッペン」
懐かしい瞳だ、と目を細めた。
まだ自分も彼も、今よりもっと若かった頃。
別離から再開したとき。彼の足首にまだ無骨な金属の足枷があった時の瞳。
殺意を飼い慣らし、怨嗟を押し込み、ただ復讐することを胸に生き延びていた彼が、自分の手を取ったときに捨てた「才能」。それが、今の瞳には見え隠れしている。
ならば——邪魔をするのは、野暮である。
彼の怨敵は、同じく自身の仇であるのだから。
「鬱、説明は後でいい。やらねばならないことがあるのだろう?——私が許す。自由に動け」
「っはぁ⁈何言うとりますのグルさん!」
傍の書記官が唖然として叫ぶ。ほかのメンバーも似たり寄ったりの顔だった。
彼の瞳から一緒、瞬きとともに殺意が消える。あどけないほどの顔つきで、青い瞳を瞬かせた彼は、暫しの沈黙の後くつりと笑って、片手で態とらしく敬礼の形をとった。
「ハイル、マインフューラー。さいっこうやで。これだからグルちゃんに着いていくのはやめられんわ。時間もないからさっさと仕事してくるわ。
ま、開戦の準備でもして待っててな」
へら、といつものように笑い、彼は言う。会議の途中にも関わらず円卓の席から立った彼を引き止めるものは、もういなかった。
「これは推測でしかないが……、おそらく彼は我が国の前身であった国の、中枢にいた生き残りだろう。あぁオスマン、お前が見覚えないのも無理はない。中枢と言ってもそれは内政の中枢ではなく——国の裏側、諜報機関の中枢だ」
「……それが、なんで大先生だけ分かったん?」
「……さて、それは本人に直接聞くしかないな。尤も、素直に話してくれるかは知らんが。
まぁいい。ロボロ、全軍に通達。鬱から情報が入り次第、我々は開戦に入る。それまで英気を蓄えるなりしておけ」
目の前の壮年の男から溢れた赤にまみれた彼は、静かに銃を男に向けた。
「馬鹿やなぁ。知らんの?『良い子にしてなきゃ死神が来るよ』って、そこらのチビっ子でも教えられとるで」
「っお、まえ……!やはり生きていたのか!」
「いいや、いいや。此処にいるのは亡霊だ。かつてお前たちが火刑にかけた狗の亡霊。首刈りから鎌を取り上げるには、あの炎は些かぬるすぎたんだよ、元長官殿」