あたしのロブスターヘッド:一人前の神官 浜辺に暮らすことの欠点:人魚と仲良くなりすぎる。ザム漁港には無数の人魚がいつだって戯れていて、お歌を歌ったり、けらけら笑ったり、喧嘩をしてほっぺたをつまみあったりしてる。あたしが漁師の娘だったら、それはこの町の長点だというに違いない。なにせ人魚は魚をうまく誘導して、漁師が捕りやすいようにしてくれるんだもの。でも、人魚と仲良くなるなんてこと、神官の娘としたらサイアクの事態。だってこの町にはロブスターヘッドがいるんだから。
ロブスターヘッドは1000年前からこの町にいるって、昔おじいさまがいっていた。おじいさまももちろん神官で、カミであるロブスターヘッドに仕えていた。それがあたしの血筋の役目。13で神官見習いになって、18くらいまでには儀式を終えて神官になる。それで今あたしは16歳。いまだ儀式を終えられずにいる。
ロブスターヘッドのことを、たまにくる旅人に説明しても、最初はだれも信じやしない。あたしはこういう。ロブスターヘッドは、赤い肌の人間みたいな体をしてて、でも首と頭がぜんぜん違うの。そこだけロブスターなの。お嬢さん、旅人は笑う。そんなのあるわけないだろ。ハハハ。
旅人の笑いはすぐに凍り付く。たいてい、知らぬにおいを嗅ぎつけてロブスターヘッドご本人が神殿から様子を見に来るからだ。失神する人もいるし、悲鳴を上げて逃げていく人もいるし、硬直して冷や汗を流す人もいる。ロブスターヘッドは何も言わない。ロブスターヘッドには人間と同じ声帯はないから。人間と同じ指言葉を使って話すのだ。指を動かしてロブスターヘッドはこういう。
「光のナナメ、西の首。落石のアトはみじめ」
それはロブスターヘッドなりの挨拶だと、あたしたち神官一族はとらえている。新しい人と出会うと、ロブスターヘッドはいつもそういうのだ。意味はぜんぜんわからない。
旅人はだいたいすぐ退出したがるから、心を落ち着かせるために、だいたいそのあと人魚に会わせて、まあそのくらいであたしはほかの人に旅人の世話を任せてしまうから、あとはいろいろ。
とにかくロブスターヘッドはほかの地域にはいないらしい。ロブスターヘッドがなぜこの地を選んでここにいるのか、それともロブスタ―ヘッドがいるからここが存在しているのか、何もわからないけれど、あたしたちはロブスターヘッドの加護のもとで暮らしを営んでいる。ロブスターヘッドが500年以上前にいちどこの地を離れて川に入ってしまったとき、それは恐ろしい不漁とわざわいがこの地を襲った。ロブスターヘッドはこの地を襲う数万の軍勢をひとりで殺したこともある――海の呪いというのを使って。(あたしたちが勝手に海の呪いと呼んでいるだけで、ロブスターヘッドはどうやらそれを「こはくの夕暮れ」と呼んでいるようだ。)
話を本題に移そう。あたしはもう16なのに、まだ神官になるための儀式を終えられてない。でももういい加減やらなくちゃ。ということで、儀式に必要な石のナイフを、石工職人の叔母様に貰って帰ってきたところ。そこに、町をうろついていたロブスターヘッドが通りかかって、あたしに指言葉でこういった。
「雨は削られたペン」
「ロブスターヘッド、あたしとうとう儀式をやります」
ロブスターヘッドの言葉の意味など誰にもわからない。だから無視して会話するしかない。うなずく、という動作ばかりは、ロブスターヘッドもちゃんと心得てくれている。ロブスターの頭がコクリとうなずいた。
「ロブスターヘッド。あたし後悔しません」
あたしはいった。しぜんと頬を涙が流れていった。
「すべからく斧の夢。蜻蛉が激高する夕べ。人魚の祈らぬ朝は山辺」
人魚、の単語だけがあたしの心にぽとりと落ちて、あたしの顔は歪んだ。
がんばれといってくれているのかな。それとも、これは何か冷たい言葉なのだろうか。
考えるだけ無駄だ。あたしはロブスターヘッドの言葉を考えるのをやめた。すでに心の大部分は人魚のことを考えていた。
ミルメ(琥珀色、の意)という人魚がいる。漁師一族と仲良くしている血筋の末っ子で、美しい夕陽色の髪とエメラルドグリーンの瞳、琥珀色の頬がきれいで、まばたきがすてきな齢22の子。子といってもこれは――子猫の子、みたいなもので、もちろんあたしたちは人魚を人間と同等に扱ってはいない。人魚は人間と半分は似ているけれど、半分はハッキリと魚だ。明確な言葉を離すことはないし、きちんとした意思疎通だってできない。オオカミのほうがずっと頭がいい。それでもうまく共存してきた。
利用もしてきた。
ミルメを選んだのは単に、町中聞いてまわったところ、誰も彼女に執心していないことがわかったから。ミルメの血筋は子だくさんで、一匹減ってもたいした問題はないと、長老たちもいっていた。だからミルメにすると決めて、現神官のお母さまと漁師一族の頭領に承諾ももらった。
可哀そうなミルメ。
あたしはついに心を決め、何年も逃げてきた儀式を始めることにした。
夜はきれいに輝いて、海は凪ぎ、海面は月光をめいっぱい浴びてほろほろと光っていた。
海沿いの洞窟に、一人ひそやかに足を踏み入れる。はだしだ。はだしで、どんな傷も受け入れると決まっているのだ。
どこかから、ロブスターヘッドの視線を感じる。なんらかの方法で、ここにいないにも関わらず、ロブスターヘッドは儀式の完遂を見届けるのだ。
あたしはミルメの一族がくっつきあって寝ているのを見つけて、息を殺したまま、夕陽色のミルメに近づいて行った。
そしてまず、リネンの包帯でそっと口を塞いだ。ミルメが起きる前に、何度も弟相手に練習した通りに、ミルメの両手をロープで縛る。そして、目を覚ましてキョロキョロするミルメに、人魚の子守歌を口ずさみながら、彼女を横抱きにして洞窟を出た。
足に海藻が絡みつく。ミルメの下半身、つまり魚の部分が、ぬめぬめと滑る。
それでもなんとか神殿までたどり着き、あたしは石の長テーブルにミルメを降ろした。
ミルメの目はおびえていた。
儀式が終わり、あたしは咀嚼音を聞いていた。ロブスターヘッドが琥珀色の頬の人魚を食べる音だ。むしゃ。バリ。べろん。むしゃ。あたしは体が震えるのを、心の中で罵った。神官らしくない悪態をたくさんついて、頬を涙で濡らした。
食事を終えたロブスターヘッドが奥の部屋から出てきて、あたしにつかつかと歩み寄ってきた。ロブスターヘッドはあたしの鼻を左のひとさし指で触り、右手の手のひらと甲をつかってあたしの頬を撫でた。頬になまぬるい感覚がへばりつき、あたしはぞっと震えた。
「見た輪の壁は渦巻き。羽を毟る足音」
それは儀式終了の合図だった。
あたしはその場にしゃがみこんで、両手で頬を触った。朝日が明り取りの小窓から差し込んでくる。やわらかな光の中で、あたしの両手はつややかに赤く輝いた。
こうしてあたしは一人前の神官になった。(了)