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    cho_kenjatime

    @cho_kenjatime
    吉良雛、🦆🐺、🥴🐺、晶♂フィとアレファを推して書くタイプのオタクです。

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    cho_kenjatime

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    吉良雛本サンプル② 吉良雛本の第一章です。
    パスワードを解除いたしました。いつでもご覧いただけます。

    吉良雛本 第一章 太陽が暮れゆくのに伴い色濃くなった茜色の光を浴び、立ち並ぶ建物や道行く人々の影が長く伸びてきた頃。終業時間を知らせる鐘の音が、定刻通り瀞霊廷に響き渡った。
     鐘が鳴らされてから半刻後、吉良は三番隊の牢を離れた。
     脱獄ではない。叛逆の容疑を解かれてなお、望んで牢にて日々の業務を行っている吉良は、これまでの数日間と同様に退勤したのだった。定時を過ぎても、納得できる箇所まで仕事を片付ける性分の吉良にしては早い。 
     すれ違う隊士達の居た堪れなさげな視線を受け流し、吉良は急ぎ足で通りを進む。
     その淀みない歩みが止まったのは、花屋の前でのことだった。
     売り子の娘は吉良の顔を見ると微笑んで「お取り置きの品物ですね」と、予め選り分けてあった花を手際よく包む。
    「すみません、いつも遅くに」
    「いえいえ、お勤めご苦労様です。そんなに急がれなくても、すぐには閉めませんから」
     荒い呼吸か、それとも早足で歩いている姿を見てのことか。売り子は「大丈夫ですよ」と吉良に言い聞かせながら花束を手渡した。
    「お兄さんからお花を貰える人は幸せですね」
     ————幸せ。
     固まりかけた口元を無理やり笑みの形に整えて、吉良は礼もそこそこに店を後にした。 
     花屋の閉店時間を気にしていない訳ではない。けれども、吉良が急ぐ理由の多くはそこにない。
     手元を彩る、黄色や桃色に咲き染む扶郎花。
     可憐な花を抱えるにはひどく鎮痛な表情を浮かべている自覚は、吉良にはない。
     果たして目的の建物に辿り着くと、吉良は入口で受付を担う四番隊隊士に声を掛け、提示された紙に名前と訪問日時を書き込んだ。
    「部屋は」
    「変わっていません。こちらです」
     指し示された案内図の一室を確認し、吉良は努めて静かに目当ての部屋へ向かった。
     しかし、いくら静かにと心掛けても、板張りの床は踏まれる度に音を上げる。
     ——まるで僕そのものじゃあないか。
     こんな時にまでいやに詩的に思考する自身に呆れて、嘲笑とも嘆息ともつかない吐息を短く切り上げた。
     大した距離ではないはずのこの道のりは常に、隙あらば吉良の感傷に揺さぶりをかける。
     そうして会うべき人のいる部屋の前に立つとき、その心は大いに波立つのだった。
     吉良は人気のない廊下で、咳払いをひとつした。
    「御免。入るよ」
     返事は無いと承知している。
     それでも此処を訪れる際は、必ず一声をかけてから入室するようにしていた。礼儀作法として口にしているものでもあり、吉良が自身の心構えを固めるための合図でもあった。
     吉良は把手の金具と最早温度の変わらない指で、おそるおそる戸を開けた。
     室内に先客の姿は無い。吉良が見舞うときは、気を遣って人払いをしているのか、他の見舞客と鉢合わせることはなかった。元四番隊所属のよしみで、卯ノ花隊長が口添えしている可能性もある。あるいは、吉良が先に来ているとなれば、事情を知る人物としては機を改めようとするのが自然とも言える。吉良自身、阿散井以外の客が訪れているときに見舞うのは避けていた。
     日頃の業務に関する交流であれば無心で立ち回ることができる。けれども、でどのような顔をして他の死神と顔を合わせたら良いのか、吉良にはわからなかった。
    「雛森くん」 
     呼び掛けてから一拍置いて、中央に置かれた寝台に歩み寄る。
     障子張りの小窓から差した微かな夕陽が、病室を照らしている。
     寝台の脇に並べられた簡素な卓子がひとつと、椅子が二脚。卓子の上に、気を利かせて置かれた空の花瓶。背の高い鉄の台に吊り下げられた、然程中身の減っていない点滴の袋。そこから伸びる細い管に繋がれて、眠っている雛森桃。それが、この部屋に在るもののすべてだった。
     事情を知らぬ者が見れば、今しがた寝ついたようにも見える穏やかな寝顔。現実には、彼女の伏せられた瞳が閉ざされてからひと月が過ぎようとしていた。
     身体の治療を要するものにはすべて処置が施され、肉体それ自体は健全な状態が保たれている。現在は自発的に呼吸できるようになり、人工呼吸器も外されている。点滴は経口摂取できない栄養を補給するものであり、薬剤は投与されていない。
     雛森は回復傾向にあった。意識が戻っていないというただ一点を除いて。
     元々小柄で華奢ではあったが、病床に臥せて以降、その頬や身体の輪郭はいっそう細くなっていた。他方で、痛々しく目の下に落ちていた蒼い影は、皮肉にも昏々と眠り続けている間にすっかり消えていた。
     看護にあたっている隊士の手によってか、あるいは見舞いに来る者の手によってか、吉良が訪れるときにはいつも、雛森は綺麗に整容されていた。
     左肩にかかる位置でひとつに結わえられ、丹念に梳かれて黒檀に艶めく髪。手入れされた肌は陶器さながらに肌理細かい。他方で、色の白さばかりが目立つ赤みのない皮膚は、その下に血が通っていることを感じさせない。雛森がいつ目覚めても良いように、あるいは早くそうなるようにと願って、誰かが整えているのだろう。特定の一人が世話しているのではなく、雛森に同情や恩を寄せる複数の人々が、思い思いの方法で彼女を支えているのかもしれない。
     人々に復調を祈られ、繊麗に保たれていながらも——その身体からは、どうしても生気が感じられない。どうしても精巧に創られた人形のように映ってしまう。だからこそ、生きて見えるようにと必死に人々が手を加えているのでは、と吉良は連想した。
     吉良イヅルの知る雛森桃は、此処に居ながらにして、何処にも居なかった。
     ——帰ってきて欲しい。けれど、帰ってこない方が良いのかもしれない。
     ————帰ってこない方が良い?
     ——————誰のために、その方が良いと?
     立ち尽くしていた吉良は、無防備な女性を不躾に観察した呵責に衝き動かされて、ようやく花を生けることを思い出した。
    「ちょっと、水を汲みに行ってくるから」
     卓上の花瓶を手に部屋の外へ出ると、胸につかえていた空気を吐いて、廊下の冷えた空気を吸い込む。
     花束を置いておくなり、救護舎内の隊士に渡すなりしても差し支えはないところを、吉良は自ら申し出て生けていた。
     それは隊士の負担を軽減する気遣いでもあり、自身の逃亡を許さないための縛りでもあった。足早に救護舎へ向かうのも、決心を鈍らせないがためのことである。
     こうまで自分を戒めなければ、この場に立っていられる自信の無い己を、雛森はどう思うだろうか。
    「最低だ」
     答えられない雛森に代わって、自答する。
     せめて今の自分以下にはなるまいと、花瓶を水で満たしてすぐに病室へと戻った。
     枕元の卓子に置かれた扶郎花は、雛森を慰めるようにしばらく揺れていた。
     沈む寸前の赤々とした陽が、明るい花の色をより暖かに魅せる。
     殺風景な病室を塗り替える、朱色の彩り。
     皮肉にも、それは命の気配を感じさせない白に囚われた雛森との明暗を際立たせていた。
     眼下の雛森が生きていると吉良が信じられるのは、規則的な寝息が観察されているからに他ならない。
     最早、植物と変わらない。
    「ごめん……本当にごめん……」 
     きみをこんな風にしてしまったのは、僕の罪だ。
     ただ項垂れて謝罪するだけでは、とても償うことなんてできない。
     殊勝にそう宣いながら、実際にはきみが何も言わないのを良いことにただ謝ってばかりいる。
     まるで馬鹿のひとつ覚えのように、ごめん、ごめんと言うことしかできないなんて。
    「……最低だ」
     掌に爪が刺さるほど握り込んだ拳を震わせ、唸るように自虐の言葉を吐く。
     夕暮れ時の物寂しさや、雛森が臥せて長くなっていることが焦燥を煽るのだろうか。いつにも増して、吉良は自責的になるのを止められなかった。
     ——僕が責めないなら、誰が僕を責めるというのだろう。一番に僕を糾弾したい人はそれをできないというのに。
     ふと、死覇装の袖が何かに引っかかった感触に、吉良は視線を手元へ移した。
     吉良の袖を、白魚のような指が摘んでいた。 
    「どうして」
     笹鳴りに似た、か細い声。
     どくり、と重く心臓が跳ね、次第に早鐘を撞きはじめる。
     対照的に、異様に遅い体感時間。
     聞き間違い。
     思い過ごし。
     脳裏に過ぎる言い訳じみた可能性を、現実が否定する。
     ずっと、待ち侘びていたはずの瞬間だというのに。
     顔を上げずとも、確かな視線が向けられているのを感じる。
     それを意識した途端、ろくに酸素を取り込めなくなった喉が隙間風のような音を立て、浅く繰り返し鳴動する。
     あの日と同じ——燃え盛る敵意と底冷えする拒絶に彩られた双眸が、自分を見つめているのではないか。
     ——自らが背負った罪は、想い人の形をして今そこに在る。
     吉良は焦点の定まりきらない目を、やっとの思いで声の方へ向けた。
     声の主は微睡むような潤んだ瞳で見つめ返す。
     薄墨を刷いたような眉の下、黒曜石に似た双眸が視ている。
     吉良が恐れていた激情とは真逆の、静かで切なげな情緒を滲ませた眼差しが、吉良を射抜いた。
    「どうして、吉良くんがあやまるの」
     子どもが素朴に尋ねるような、あどけない問いかけだった。
    「吉良くんは——何にも悪いこと、していないのに」
     血の気のない唇は、淡い微笑を形取る。
    「ごめんなさい、吉良くん」 
     ごめんね、と重ねて詫びると、束の間光を宿していた雛森の瞳に、日が沈むようにして瞼が下ろされた。
     褪せた花弁に似た唇の間が、深く細い吐息を終えて閉ざされる。
    「——雛森くん」
     もう、声は返ってこなかった。
     二人の世界から遠のいていた音が、波が岸辺に戻るようにして帰ってきた。
     夕陽が去ってほどなく通り雨が訪れたらしい。蕭々と、降りしきる雨音と枝葉の擦れ合うざわめきだけが閉ざされた部屋に響いた。
     吉良の袖を留めていた白い手は、糸が切れたように空を掻いて床へ向けられた。
     吉良は弾かれたように席を立った。
    「雛森くん!」
     叫ぶより早く、寝台に身を乗り出して雛森を覗き込む。
     伏せられた瞼は動かない。
     揺さぶろうと肩に手をかけたところで、雛森の胸が浅く上下し、呼吸が継続されていることに気づく。首の付け根に手を添えると、一定間隔で脈打つ振動が伝わってくる。なおも安心できずに、吉良はしばらく雛森の脈拍を追っていた。霊圧に大きな変化はない。
     名前を呼んでも、触れても、何ら反応は返ってこない。先刻起きたことが幻だったと言われても信じてしまいそうなほどに、雛森が目覚める気配はない。時が経つにつれて、現実逃避のために自分の脳が視せた幻覚だったのだろうか、と疑問さえ湧いてくる。
     けれど、雛森は生きている。
     雛森の蒼白の両頬に、雫がぱたぱたとまばらに散った。
     気づいた時には自らの頬にぬるく滴っていたそれは、流れ出た血が肌を這う感触とよく似ていた。
     吉良はそれを呆然と見つめ、徐ろに指先で拭った。拭ったそばから、吉良の手を、雛森の顔を、新たに滲み出た水滴が湿らせる。
     水源を断とうと、片手の甲を自身の目元に押し当てた。それでも止められぬと悟ると、冷たい床に膝をつき、雛森を包む白布に取り縋って嗚咽を殺した。
     顔を伏せた途端に堰を切って、途方もない恐怖と、染みるような安堵と、自らへの失望とが綯い交ぜになって、痛みを伴って眼裏を灼き焦がした。
     雛森が藍染によって瀕死の重症を負ったと知らされて以来の、全身の血が引く感覚だった。 
     思考が凍てつき、千々に乱れた感情だけが吹き荒れる。
     市丸に附き従って、護廷十三隊に背く覚悟を決めたつもりでいた。その過程で、恋慕の情を断ち切ることになったとしても、二度と会えなくなったとしても構わないと、そう決心した。
     それらはすべて、雛森が無事でいることを前提にして成り立っていた。
     雛森には何もしないという上官の言葉を信じた。雛森が害されることは無いのだと、ざわつく心を宥めすかした。現に眼前で起きている矛盾を否定し続けた。その結果、雛森を命の危機に晒してしまった。
     二度と会えなくなるというのは、どういうことなのか。
     別れを告げるのは、相手の前から姿を消すのは、自分の方だとばかり思っていた。
     相手が先に自分の前から居なくなる未来を、まるで描いていなかったのだ。
     あの日、雛森が一命を取り留めたと聞いて、最悪の事態は免れたと安堵した。しかし、そのまま雛森の意識が戻らないことも、再び死の淵に戻ることも、充分に起こり得たのだ。
     雛森に伝えたいことを、何ひとつ伝えられないままに。 
     牢に入れられて、自責する時間は腐るほどあった。どんな大義があったところで自分の行いを正当化するつもりは毛頭なかった。認めたくない行動をとった自身を最低だと貶めた。内省に耐えられなくなると、自他問わず視界に入ったモノというモノを片端から傷つけ破壊した。拘束具を付けられて以降は、自らの精神を虐めぬくことに執心した。
     決して許されない最低の行いを犯したのだと、日々日々、自らに言い聞かせた。
     そう、許されないはずだったのに。
     何も悪く無いと言われて、胸が軽くなってしまった。赦されたと安堵してしまった。 
     無意識に求めていたものを、雛森に看破されてしまった。
    「狡いだろ、そんなの……」
     誰に向けた言葉なのか、吉良自身判然としなかった。 
     傷心から我を失った想い人に「敵として処断する」と宣って刃を向けたことに始まり、果てにはみすみす惨い目に遭わせてしまったのだ。
     そんな男が愛を訴えたとして、これほど酷い文脈の滑稽な告白もないだろう。
     わかっている。
     わかっている。
     ——それでも、斬り捨てたはずの想いが、ずきずきと疼く。
     きみの言葉に救われてさよならなんて、やめてくれ。
     僕からは詫びる言葉以外何も言えずに何処かに行ってしまうなんて、そんなことは。
    「居なくならないでよ、雛森くん」
     情けない僕を笑ってくれ。
     あの明るい声を聴かせてくれ。
     許さなくていいから、帰ってきてくれ。
    「好きだったんだ——きみのことが」
     血を吐くような慟哭。 
     二度と伝えることの叶わない想いが、凍えきって死籠りした卵のように転がった。
     もう孵らないのだとしても、この想いの行先はまだ知りたくなかった。

       * * *


     瞼越しに目を刺す、白々とした人工的な光。
     先程まで鮮明に再生されていた記憶が、無意識の彼方へ霧散する。
     暴力的な眩しさに眉を顰めつつ、死神は泥のような眠りから、意識を、五感を覚醒させてゆく。
     仰向けにされ、何かに繋がれて自由のきかない我が身。渇き切り下顎に張りついて動かない舌。ぼやけた視界一面に広がる、白いだけの無味乾燥な天井。鼻を衝く薬品の匂い。あちらこちらで規則的に鳴動する電子音。
     認めたくない、強烈な既視感。
     そして馴染み深い——毒々しい霊圧。
    「ごきげんよう。お目醒めはいかがかな? 吉良イヅル三番隊副隊長。こうして顔を合わせるのは久しいネ」
     忙しなく入力機器を打鍵していた指を止め、部屋の主は意識を取り戻した死神——吉良イヅルを笑顔で現実に迎えた。
     ほどの衝撃はない。しかし、なかなかどうして気分が悪い。そう思いこそしても、相手は上官である。吉良は返答すべく乾いた唇を開けようとしたが、舌も喉も碌に動かせない。已むを得ず、目の端で声の主を捉えると、目礼で応えた。
    「結構。今の君は発声できない状態になっている。歓談のひと時と洒落込みたいところだが、実に残念ダ。本日のところは暫しご清聴願おう」 
     文言と裏腹に嬉々とした口調である。
     マユリはストローの刺さった飲料缶から液体を吸い上げて完飲すると、一息吐いて吉良の顔面を真上から覗き込んだ。   
    「まずは君が抱いているであろう疑問に答えるとしよう。些事に気を取られて、本題が頭に入らないようでは困るからネ。まず一点目」
     横たわった吉良の枕元にあるテーブルに、マユリが飲んでいたものと同様の飲料缶がひとつ置かれた。
     開封前にも関わらず、どういった理屈か缶の内側からはゴボゴボぶしゅぶしゅと何かが拭き溢れんばかりに煮えているような、くぐもった異音が聞こえてくる。
    「これは技術局うちで開発した新商品。現世でいうところのエナジードリンクだの栄養ドリンクだのと呼び習わされている飲料ダ。現世に出回っている品を持ち帰ってみれば何のことはない。大した栄養価もなく宣伝文句ばかり猛々しい偽薬の有様だったが、コレは違う。ひとたび飲めば立ちどころに活力が漲り、二十四時間、脳の隅々まで焼き切れるほど冴え渡る。発売前だが、君には研究協力の恩がある。土産として遠慮なく持っていくといい」
     言い終えるより早く、既に置かれていた缶を弾き飛ばす勢いで、歪んだ巨大な立方体が無造作にサイドテーブル上に現れた。辛うじて箱と認識できるものの、内部に詰められた物達とそれを包む箱の断末魔が聞こえてきそうな、異様に膨脹した外観である。
     箱の影に収まって姿は見えないが、運んできた張本人と思しき少女の声が淡々と告げた。
    「三番隊の皆様にもどうぞ。隊士全員分ございますのでご安心を」 
    「リンゴ味だヨ」
     ——ああ、何も考えたくないな。
     吉良としては再度意識を手放したい想いだったが、この男の前ではそうもいかない。
    「二点目。なぜ君は此処に居るのか? 仔細は省くが、君は警備業務中に昏倒し、急遽精密検査の為に技術開発局へ運ばれたという訳ダ。結果としては異常は無かったが、どうもお疲れだったようだネ」
     マユリの供述をよそに、吉良は自分が昏倒手法について思索を巡らせた。
     自惚れではなく、現在の吉良を相手に正攻法で勝る死神はごく限られている。鬼道の類を使用されたというよりは、穿点のような物でも注されたか、あるいは涅マユリ独自の技術によるものか。その際に、強く作用する薬品あるいは何らかの術を使われ、現在の麻痺めいた状態に至らしめられたのだとしたら合点はいく。本当に疲労が元ならそれはそれで構わない、と些か問題のある思考処理を経て吉良は状況を整理する。
     最たる問題は、そんな強硬手段をとってまでマユリがここに吉良を連れて来た理由である。
    「というのは局外の有象無象向けの建前ダ。そんなものは君には必要あるまいし、凡そ察しがついているだろう」
     いけしゃあしゃあと虚言を認めると、マユリはひとつ頷いて腕組みをした。
    「近頃、君があまりに定期メンテナンスをすっぽかすものだからネ。地蔵菩薩が如く慈悲深ァい私としては甚だ良心の痛むところではあったが、少々手荒な手段をとらせてもらったヨ。あまり間を開けられては情報の純粋比較ができなくなる。何の為に一定間隔を保ってデータを採っているのか、今一度確認の上、今後とも末長くご協力いただきたい」
     メンテナンス。
     生身の人間に行う定期検診のようなものではあるが、吉良の場合は本人のために健康状態を確認することだけが目的ではない。涅マユリにとっての吉良イヅルは、一被検体であり、初めて臨床実践に至った死鬼術の治験参加者である。
     死鬼術——生命活動の一切が停止し、生理学、医学上は死亡と定義される状態となって以降も、生きているが如く活動し続けることを可能とする技術。吉良イヅルは、滅却師により右胸部穿孔および右上肢切断の重傷を負って斃れ、死鬼術をその身に受けた被験体の第一號となった。定期的に行われるメンテナンスは、施術後も条件を揃えてデータを採取し、術式の改良や先々の研究に活用するためのものでもあった。
    「それからダ。昨今の君の戦いぶりだが、随分と捨て身じゃないか。エ? ああ、安心したまえ。君を心配している訳では無いヨ。君がそんなものを求めていないことは百も承知ダ」
     一人で質疑応答をこなし、マユリは続けた。
    「ご承知おきの通り、君の体の修理費用は治験協力費として技術開発局ウチが出している。金銭負担の礼なら私ではなく、倫理上の問題がどうのと口喧しく騒いだ四十六室やら総隊長やら直属の上官に言いたまえ」
     先回りして「よくある(ありそうな)質問」を想定して答えるのは、マユリなりの親切だろうか。と考えたところで、吉良は自身の精神状態に不安を抱いた。
     マユリは身振り手振りを交え、懇々と説いてみせる。
    「当然ヤワに造った憶えは無いがネ、今の君にはお得意の回道では治療できない部位もある訳ダ。死体であることに開き直られて、好き勝手に暴れて費用の嵩むような真似をされては敵わない。世知辛くも、如何に尊い研究であろうと継続するにはカネが要る。我々は常に並行して複数の研究を走らせているからネ。ビタ一文たりとも浪費を許容するゆとりは無いのだヨ」
     滑らかに語っていたマユリだったが、物言いたげな吉良の視線を目敏く察知すると、鼻を鳴らして言い添えた。
    「先の飲料開発も研究の一環であり金策でもある。遊びでやっている事は何ひとつとして無いヨ」
     あれで金策と呼べるほどの資金を回収できるのだろうか。
     吉良は潔癖なまでに白い天井を見上げて、疑問ではなく反語として胸中で呟いた。
     口をきけず身動きもとれない状態にされたのは、メンテナンスを口実に新たな実験や改造を施すためではと危惧していた吉良である。しかし、マユリの説教とも愚痴ともとれる話を聞くに、積りに積もった吉良への不満を有無を言わせずぶつけることが主目的のようにも思えてきた。厄介ではあるが、非人道的なあれこれを施されるよりかはマシである。
     吉良は貴重な死鬼術一例目且つ、肉体改造技術の傑作であるとマユリが喧伝してやまない作品であり、今現在においても興味の尽きない研究対象である。そのためか、多忙を極めているはずのマユリが、合間を縫って検査に立ち会うことも珍しくなかった。局長直々とあっては手厚い待遇とも言えるものの、吉良は特にメリットらしいメリットを感じたことはない。
     マユリの性分を鑑みるに、既に数値化され知り尽くしたところである身体より、身体の変貌を受けて時とともに変化するであろう情動に好奇心をそそられているのであろう。メンテナンスを受けている間中、吉良はマユリの問答に付き合わされる。吉良にしてみれば決して愉快な時間ではないが、こうして器具に繋がれているうちは逃げようもない。これこそが、吉良が検査を御免被りたい理由の最たるものだった。検査をマユリが担当するときと阿近が担当するときとでは、心的疲労の度合いに著しい差がある。
    「とまあ、ここまでが前談ダ。お待ちかねのフリートークに移るとしよう。本日の論題は死生学だヨ」
     斯くして、吉良には何の自由も与えられないフリートークが唐突に幕を開けた。マユリとの交流を通して、あらゆる意味において「何でもあり」を体現した存在を前にしては、思考放棄が時として有用であることを吉良は学習した。 
     今のマユリの興味を惹いてやまないものは、吉良の精神にあった。確かにマユリにとってフリートークは待ちかねた時間と言える。
    「馴染みのないテーマでは退屈だろうからネ。君に身近な話題にしよう。何を以て生者と死者の境とするか、考えようじゃないか。私にとっては、疾うに結論に至り今更思索する必要も感じない論題でも、君の暇潰しには調度良いだろう」
     視線だけは吉良の表情に注ぎながら、マユリは何らかの記録を電子機器に入力し始める。
    「確かに君の生命活動を維持してきた機能は停止しているし、医学・生理学的見地において死亡と判ぜられる状態にある。一方、記憶は生命活動の停止以降も引き継がれ、思考能力、運動機能も生前と比して異常はない。かつての君と同じ働きをしている訳ダ。さて、そんな君が義骸に入ったとしたらどうかネ?」
     義骸という仮初の肉体。現世で生者に扮するために用いる、魂の容れ物。
     肉体の生命活動が止まっていたとしても、魂の器が変わったなら。
    「君が死体という容れ物に収まっている為に自らを死人と呼称しているのなら、生者と変わらぬ肉体に魂魄が入った場合、何と呼ぶべきだろうか」 
     吉良の表情は変わらない。
     遠慮のない視線への不快さから、せめてもと目を閉ざす。
     マユリが話の舵を吉良の逆鱗へ向けて切っているのを感じながら。
    「生者でありながら今のきみよりもよほど死人らしいモノ。心当たりがあるんじゃないカ? 例えばそうさな……」
     マユリは勿体つけると、嗜虐的に口端を吊り上げ、金色の牙を剥いた。
    「いつぞやの雛森副隊長とかネ」
     マユリは電子端末で検索をかけ、既に表示されていた吉良の記録の上に、雛森のページを重ねて開いた。各情報の記載日時を確認すると、斜め読みできるかさえ怪しい速度で各ページをスクロールしていく。
    「そうそう、彼女は破面どもとの戦闘後にうちの隊で看たこともあった。なかなか派手にやられたものだったが、経過良好なようで何よりだヨ。元四番隊の君があの場で応急処置を施したことも奏功したネ。命の恩人というやつダ」
    「やめてください」
     間近に居ながら敵との入れ替わりに気づかず、仲間の手でみすみす致命傷を負わせた。
     そんな自分が、あまつさえ命の恩人呼ばわりされることなど。
    「据わりが悪くて仕方ない」
     吉良は看過できなかった。
     あの時、本当に自分は雛森桃を治療していたのだろうか。どの時点から、そう錯覚させられていたのだろうか。
     何もかもが疑わしい。
     現実に在ったのは、日番谷冬獅郎に胸を貫かれ、瀕死に陥った雛森桃の姿だけ。
     雛森へ自分が抱いている感情を見透かしていた藍染に、心の隙を突かれたのかもしれない。
     あの時、一瞬でも彼女を救えたと思ってしまった己を恥じ、悔いた。
     沈黙を破った吉良を、マユリは蝶が羽開くように大袈裟に手を叩いて賞賛した。
    「流石、呼吸をするように自らの価値を否定する君。素晴らしいネ、吉良イヅル。もう少し喉を休めていることもできたろうに、感心感心。覚醒水準は正常なようだネ」
     入力にひと段落ついたのか、マユリは端末の画面に表示された吉良の記録全体にスクロールして目を通す。入力を終えたタイミングから、恐らく今の会話の逐語録を起こしていたのだろう、と吉良は見当をつける。
     マユリはページの最下部まで経過記録を確認した後、基本情報が記載された表紙に画面を戻し、一点に目を留めた。
    「三月二十七日生まれ。もうすぐじゃないか。先んじて祝意をお伝えするヨ」
     平坦な声音で「ありがとうございます」と返してから、吉良は溜息を吐くように続けた。
    「この期に及んで、生まれた日に意味なんてないでしょう」
    「あるとも。他検体との区別化、生後から現在に至るまで君が生存していた場合を想定した諸数値の演算、それらと実際に計測した現在のデータとの比較検討、その他諸々。生誕に意味などないと云うのなら、誕生日ではなく命日を祝うのはどうかネ」 
     吉良は答えない。
    「後悔というのは」
     脈絡なく、涅マユリは謳うように語り出す。
    「既遂の罪を過去の愚かな己に被せ、賢しらに過去の失態を認め悔いている現在の己の価値を保障する行為ダ。過ちを過ちと認めることができたのだから、少なくとも現在の自分は当時より価値のある存在だ——とネ」
     私には縁のない思考様式だが、と入力機器を打鍵する手を休ませずにマユリは続ける。
    「つまるところ、かつての過誤にこそ目を向けてはいるが、今まさに新たな過ちを犯している可能性には瞑目しているのだヨ。これを殊勝に反省なぞと言い換える輩も在るが、過去と未来の視点はあれど往々にして現在への視点が抜け落ちる。これから、と宣いながら今現在のことは意識の外ダ」
     吉良の視線を流し目で受け、「なに、独り言だヨ」とマユリは嘯いた。
    「生きていようが死んでいようが、君が死神としてこの世に存在しているのは不変の事実だ。精々余生とも呼べなくなった時間を悔い無く消費したまえ、吉良イヅル」


       * * *

    「面白い。が、つまらん」
     吉良が去った後、マユリは小気味よく首を鳴らして呟いた。
    「哲学的ですね、隊長」
     マユリに頼まれ、電子端末を運んできた阿近がちょうど部屋へ入ってきた。
    「熱心にデータを追い掛けても、目新しい成果が出ないからつまらない、ってことですか」
     マユリに端末を渡すと、阿近は電子画面上に開かれていた吉良のファイルにそれとなく目を向ける。
     吉良に使ったバイタル測定機に、眠八號を従えて改良を施しながら、マユリは零す。
    「吉良イヅル個人の情緒的な反応は面白いが、目に見える成果物が欲しいネ」
    「と言うと」
    「懐かれている四十六室の娘っ子でも例の副隊長でも孔に興味深々の黒猫でも良い、生殖行動の真似事をしてみてほしいものダ。この際相手は女でも男でも獣でも構わん。そら死人ダ、子種は枯れているが、モノはいくらでも満足いくように換装可能。究極、脳が電気信号から快楽を拾えれば良い訳だからネ。安心して事に及べば良いものを」
     興味本位で尋ねたことを、阿近は悔いた。副隊長同士であり、男性死神協会での付き合いもある相手の名誉のためにも、やんわりと牽制を試みる。
    「隊長、ただでさえ検査渋られてんのに、吉良の前でそんなこと言ったらいよいよ来なくなりますよ」
    「何故? 下級貴族の生まれで天涯孤独の身の上、実子が望めなくなった事実を今更気に病んでいるとでも? 貴族なんぞ、家名を保つために養子を迎えることもザラだろうに」
     それ以前の問題である。簡単に割り切れることではあるまい。家系に関わらず、誰であれ己の性生活に踏み込まれたくは無いだろう。
     そう指摘しようにも、この男に常識を説いたところで理解も賛同も得られまい。重々承知している阿近は口を噤んだ。 
    「お前ならわかるだろうが、私が言っているのはただの下世話ではなく切実な問題だヨ。死後も三大欲求を満たせるという前例ができれば、次の被験体にも死鬼術がもたらす利益を説明しやすくなる。広く被検体募集をかけて、生前に希望者の同意を得ておきたいところだからネ。検体がいつまで経っても一人だけというのでは話にならない。これならば上も一例目ほど五月蝿いことは言わんだろう。我ながら丸くなったものだヨ」
     自身の発言にしみじみと頷いて、マユリは吉良が手をつけなかったエナジードリンクを呷った。
    「そうっすね」
     問答無用で部下に爆薬を仕込んでいた頃と比べれば、それは丸くなったと言えるだろう。局員特有の価値判断で、阿近は首肯した。
     先般の見えない帝国との戦闘によって落命した隊士、戦線復帰困難となった隊士の数は尋常でない。
     新人死神を迎え入れるにあたり護廷十三隊の体制も大きく変化したが、真っ先に労働環境の是正を勧告されたのは十二番隊であった。
     かつてない深刻な人材不足に陥った護廷十三隊としては、入隊希望者確保のため、僅かな醜聞も看過できない状況であった。志望者が入隊を躊躇することや、新人の士気を落とすことは、なんとしても避けたい事態である。
     勧告を受け、隊内では各方面において倫理的配慮がなされるようになった。隊士は勿論、被験体となった存在にも有益な改革ではあったのだが、マユリの探究心はそれでは満足いかないらしい。
    「まあ、吉良は色々と繊細なんで。お手柔らかに頼みます」 
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