車内「三井サン、ガム食う?」
「お、食う食う」
沢北と一緒に空港で買ったガムを開ける。ペリペリとフィルムを剥がすだけなのに、どうして沢北がやるとあんなにもうるさかったのだろうかと数分前の出来事を思い出してため息が出た。
眠気覚ましのための粒ガムをひとつ取り出して、三井の方へ向き直る。こちらが何も言わなくとも、三井は無防備に口を開けていた。甘やかされ慣れているのは相変わらずかと笑ってしまうが、そこから覗く赤い内部にどきりとする。これが板ガムだったならまだしも、粒ガムという小ささでは指が唇に触れるのは避けきれない。
今までもっと上の接触も経験してきているのだが、いかんせん帰国してまだほとんどこの人と触れ合っていないせいで妙に緊張してしまう。
加えて後部座席からの視線も気になっていた。あの何を考えているのかわからない瞳がじっと宮城を見つめている気がする。
「宮城?」
早くしろよと三井に急かされ、宮城はガムを三井の口に押し当てた。むにと柔らかな感触が指に伝わる。
「さんきゅ」
ほとんど一年ぶりの唇だ。思わず離れた後も指先を擦り合わせてその感触を確かめる。あーキスしてえ。コイツらさえいなきゃなあ。後部座席の邪魔者たちにどうしても苛立ちが芽生える。「……むっつりピョン」という声が聞こえたが、宮城は聞こえなかったふりをした。
「深津さん深津さん! アメ! アメ食べてください!!」
深津と同じく宮城と三井のやり取りの一部始終を見ていたのだろう。沢北がまたエンジンを噴かし始める。
「いらないピョン」
「そんなこと言わないでくださいよ〜! せっかく買ったんすから」
オレもあーんってしたいです! と喚いていた。
ちらりと隣を見ると、三井の頬も薄らと赤くなっている。当たり前のように甘受していた行為をわざわざ指摘されたせいだろう。宮城自身も恥ずかしい思いをしているのだが、こんなかわいい反応を見せられると少しばかり余裕が出てくる。宮城はへへ、と笑ってシフトレバーの上に置かれた三井の手の甲をそっとつついた。
有料道路の入り口はかなり都内に近づかなければ存在せず、しばらくは一般道を走ることになった。細い道に信号でいちいち足止めを食う。
「俺がナビしてたらもっと速く着くピョン」
後部座席から静かな声が聞こえた。その隣の騒がしかった男は、自分が献上した飴を逆に自分の口に放り込んでもらい――宮城が見た限り「あーん♡」などというかわいらしいものではなかった。パスのような正確さとスピードがあった――それを舐め終わるまで口を開くなと言われているので大人しい。
せっかく数十分ぶりに訪れた静寂だったにも関わらず、運転席の三井がひくりと口角を動かした。
「お前が最初に高速の入り口ちゃんと教えてくれりゃもっと速く着いたんだよ」
「仕方ないピョン、東京の地図はわかりづらいピョン」
いやここ千葉だし、と宮城が内心つっこむと、同じタイミングで三井がつっこんだ。
「ここは東京じゃなくて千葉だけどな」
「関東なんてみんな似たり寄ったりだピョン」
何言ってんだコイツ。宮城の眉間にシワが寄る。それを察したのか、今度は三井の手がハーフパンツから覗く宮城の膝にそっと触れた。
「深津はこーいうやつだから」
「……はあ」
そうイライラすんなよと言外に言われているのはわかるが、三井のそのしたり顔自体も面白くなかった。
「深津さんはなーーーんにも悪くないっす!」
そのタイミングで飴を舐め終えた男が復活する。
「あんだと沢北! 降ろすぞてめぇ!」
「それがいいピョン、沢北降りるピョン」
「なんでそんな酷いこと言うんですか深津さぁん!!」
「車の中では運転手の言うことが絶対ピョン。降りるピョン沢北、降ろすピョン宮城」
「え、オレっすか」
「リョータはオレの味方だよな!?」
ガシリと後ろからシートを掴まれた。
「お、おう……」
アメリカでさんざん深津への愛を聞かされている身としては、沢北には同情的だ。そうでなくともこんな何もない住宅街で本気で降ろされるとは思っていない。深津は知らないが、少なくとも三井はそんなことをする人間ではない。
「本気で降ろしたりしねえよバカ」
この通りである。
「三井………さん……」
本気で車を降ろされる可能性を危惧していたのか、沢北がウルウルとかわいこぶった顔をして三井を見つめる。それを面白くなさそうに見るのは深津だ。
「おい三井、いいのかピョン? コイツらが結託するとロクなことにならないピョン」
「深津、お前なあ……」
「ちゃんと聞いてたかピョン? コイツ今宮城のこと下の名前で呼んだピョン」
過度に沢北を庇うつもりはなかったが、要らぬ波風を立られるのは困る。
「向こうじゃファーストネーム呼ぶのがフツーだから」
宮城が慌てて後ろを振り返り会話に割って入るも、それを制したのは三井だった。
「そんくらいいいだろ」
「いいのかピョン?」
「そんくらい別に、」
「お前らはいつも下の名前で呼び合ってるのかピョン?」
ガタン、と大きく車体が揺れて止まる。慌てて前を向くと、信号は赤。状況だけを見るなら、信号が赤だから停車した、それだけ。でもそれだけではないということは、運転席の真っ赤になった耳が証明してしまっていた。
あちゃーと宮城は手で目もとを覆う。
「い、つも、じゃねえけど……俺だって下の名前で呼んだことくらいあらぁ」
ぼそぼそと小さな声でそんなことを言うものだから、もう見ていられない。恥ずかしい。直接的には何も明らかにしていないのに、丸裸になった気分だ。
そんな三井を憐れんでか、それとも共感性羞恥を招かれたせいか、さすがの深津も口を噤んだ――だというのに。
「いつ? いつ呼んだの?」
沢北が無垢な顔をして尋ねる。
「〜〜〜っ!」
顔を真っ赤にして口をパクパクさせる三井が、今度は車を急発進させた。
「沢北、空気読めよ……!」
「だってオレも深津さんのことカズナリさんって呼びたいし、参考にしたいじゃん」
「黙れピョン、お前には一生呼ばせないピョン」
「なんで!?」
「やっぱりコイツ降ろすピョン」
「ヤダ! 深津さんの隣は譲りませんよ!」
「お前が降りれば後ろを俺が広々使うだけだピョン」
「深津さぁん!!」
とりつく島もない深津の腕を掴むも振り解かれた沢北の次なるターゲットは宮城だった。
「なあリョータ〜、いつ呼ばれたんだよ教えろよ〜」
「あーうるせ〜うるせ〜」
ぜってー言わね〜と目もとを覆っていた手で両耳を覆う。察しろよ、とは思うが、沢北はこういった――『察してくれ文化』を敢えて無視する傾向がある。日本にいた頃からそうなのか、はたまたアメリカに行ってあちらに感化されたのかはわからない。少なくとも宮城がアメリカで沢北と再会した時にはすでにこういったタイプだった。
こうなれば根比べだ。沢北が何と言おうと、言いたくないことは言わない。NOと大声で言うしか対抗策はない。
「ぜってー教えねーし、無事に箱根に着きたきゃ三井サンにも聞くなよ?」
ひとまず車の安全を最優先事項に位置づけたらしい沢北は、口をへの字にひん曲げて黙った。