夜の闇を渡る風が、静かに頬を撫でていく。
一緒に運ばれてくるのは、かすかな潮の香り。
この匂いにもすっかり慣れたなあ、なんて思いつつ、俺は暗くなったエルガドをひとり歩いていた。
今日も今日とて、朝からクエストに出かけていた訳だけど──
お目当ての素材がなかなか拾えず、やっと揃ったと思った頃にはすっかり日も暮れ落ちていた。
エルガドに戻り夕飯を食べ、店を出てみると辺りは完全に真っ暗で。疲れたし、今日はもう帰って寝よう……と歩みを進めていると、知った顔が道向こうからやってくるのが見えた。
あれは……アルローさんだ。
だけど様子がちょっとおかしいというか、足元がフラついてる気がする。お酒でも飲んでたのかな……
アルローさんも俺に気付いたらしく、笑みを浮かべながら片手を挙げ、
「よぉ、アラタじゃねぇか」
「こんばんは、アルローさん。ずいぶんとご機嫌ですね」
「ジェイが美味い酒奢ってくれてな。持つべきものは弟子だぜぇ」
赤ら顔で豪快に笑うアルローさんに、小さく苦笑を返す俺。これはかなり酔ってるなぁ。
つい心配になって、大丈夫ですか、部屋まで戻れますか、なんて聞いてしまった。が、アルローさんはそれには答えず、急にハッとした様子で俺をまじまじと見つめ、おもむろに口を開く。
「……なぁアラタ。お前さんにちょっと頼みがあるんだが、いいか?」
* * *
「えっと……確かここだったよな」
酒場の入り口に立った俺は、看板を見上げてその名前を確認する。
『実はジェイの奴がまだ店に残ってるんだけどよ……あいつも相当飲んでたからな。悪いが様子見に行っちゃくれねぇか?』
さっき、アルローさんから言われた頼み事。
俺の予定といえば部屋に戻って寝るだけだし、件の店もそんな遠くなかったから、お安い御用とばかりに首を縦に振ったんだ。
なんで俺に? って疑問は少しあったけど、予定外のところでジェイさんに会えるのが、その……嬉しくて。つい引き受けてしまったというか、何というか。
そしてアルローさんに教えてもらったこの酒場は、俺も以前ジェイさんと訪れた事がある店だった。ちょっと恰幅のいいヒゲのおじさんが店主をやっていて、俺は酒が飲めないから普通に食事をしただけなんだけど……ジェイさんのオススメで注文された料理は、どれも美味しかったのを覚えている。
店の窓から漏れているオレンジ色の明かりと、扉越しでも聞こえる楽しそうな話し声。今日も仕事を終えた船乗り達が一日の疲れを癒し、互いを労っているのだろう。
俺はゆっくり扉を押し開け、何となく小声で『おじゃまします』と口にしながら、店内に入った。流石に中はすごく賑やかで、みんないい感じに出来上がっているのか、あちこちから笑い声が上がっている。こういう光景を見ていると、里の宴会を思い出すなあ。
ジェイさん、どこにいるんだろ……
忙しそうに往復している店員さんの邪魔にならないよう、壁際に寄って店の中をぐるりと見渡した。
──あ、いた。
カウンター席に腰掛けて、店のおやじさんと何か話してる。
アルローさんに言われた通り、とりあえず酔い具合を確認してみようか。大勢のお客さんでちょっと狭くなってる通路を通り抜け、カウンターの方に近付いて行くと、やがてジェイさんの声が聞こえてきて──
「それがですね、全然気付いてもらえないんですよ……こんなに好きなのにぃ!」
手にしていたジョッキを、だん! とテーブルに叩きつけるジェイさん。
少し離れた位置から彼の名を呼ぼうとしていた俺は、その一言で思わず固まってしまった。ジェイさんは背後の俺に気付く事なく、おやじさんに対して愚痴のような話を続けている。
「結構二人っきりになったりもしてるんですけど……全然進展しないんですよねぇ……」
「ふぅん。肩書きだけならジェイさんだって立派なモンだろうに。貴族出身で尚且つ若手の王国騎士なんて有望株、引く手あまたじゃないのかい」
「肩書き『だけ』って何ですか『だけ』って! ……残念ながらオレの狙っている人は、そういうのが一切通用しないタイプなんでぇ……そこがいいと言えばいいんですけどぉ……」
「筋肉バ……トレーニング命のジェイさんにしちゃ珍しく、随分と入れ込んでるじゃないか。よっぽど魅力的な子なんだね」
「そうなんですよぉ! すっごく可愛いから、他の人に取られちゃったりしないかなって心配も──」
ふたりの会話を、最初から全部聞いてた訳じゃない。
でも、話の端々から大体想像がついてしまう。
……そっか。
ジェイさん、好きな人……いたんだ。
ついさっきまで浮ついていた気分が、急速に萎んでいくのが自分でも分かった。
何となく声が掛けづらくなって、その場で立ち尽くしていると、カウンター向こうのおやじさんと目が合い、
「あれ? カムラの英雄さんじゃないか。いらっしゃい」
「……え?」
ゆっくり後ろを振り返るジェイさん。そして──
「うわあああああ!? あ、アラタさんっ!?」
俺の姿を認めるや否や、悲鳴のような声を上げて椅子から転がり落ちてしまった。思いっきりお尻打ってたけど……大丈夫かな……
ジェイさんはアタフタしながら椅子に這い上がろうとしていたが、酒のせいで足腰に力が入らないようだ。椅子にしがみついて、ひどく狼狽えた様子でこちらを見やる。
「ど、どどどどうしてここに!?」
「あ、あの、アルローさんに、ジェイさんの様子を見てきて欲しいって言われて……」
「えっ、アルロー教官が!?」
「ほらジェイさん。心配してもらってるみたいだし、そろそろ撤収したらどうだい。明日に響くよ」
ジェイさんはまだ何か言いたそうにしていたけど、そんなおやじさんの言葉を聞いて、よろめきながらも何とか立ち上がり、
「ふぁい……お会計お願いしまっす……って高ぁ!?」
「ははは、教官殿がだいぶ飲んでたからなあ。毎度あり」
伝票らしき紙を受け取った直後、目を剥いて叫ぶジェイさんと、楽しそうに笑うおやじさん。
「英雄さんもまたメシ食べにおいで。サービスするからさ」
ひらひらと手を振るおやじさんに、軽く会釈して。
足元の覚束ないジェイさんに肩を貸すと、俺はその酒場を後にしたのだった。
* * *
「……大丈夫ですか?」
「はい……すみません、ご迷惑お掛けしまして……」
月明かりの下、ふらつくジェイさんを支えながら帰途に就く。
面目ない……と謝罪してくるジェイさんの顔が青白く見えるのは、決して月の光のせいだけではないだろう。
「オレもここまで飲むつもりはなかったんですが、ついつい話が弾んじゃって……」
「気にしないで下さい。教官が酔っ払った時、こんな風に送り届けた事が何度かあるので……慣れてますから」
苦笑混じりに答えると、ジェイさんの表情が一瞬だけ強張ったような……気がした。どうかしましたか、と尋ねる前に、ジェイさんが先に口を開く。
「そ、そうだ、アラタさん。ちょっとお伺いしたい事があるんですが」
「はい?」
「さっきの酒場で、オレとマスターの話……聞こえてたりしました……?」
さっきの、って……
ジェイさんの、好きな人に関する話題だろうか。多分そうだよな。他人に知られるのが恥ずかしいのかな。
「……えっと、何か話してるのは見えましたけど、お店が賑やかだったので話の内容までは……」
よく聞こえませんでした、と。
何故か俺は、ウソをついてしまった。
──ばっちり聞こえてました。ジェイさん、好きな人いるんですね。
そんな風にしれっと言えるほど、俺の心は強くなかったんだ。
「あっ、それならいいんです! 変な質問してすみません!」
ホッとしたように笑うジェイさん。
……本当に、聞こえてなければ良かったのに。
いや、早いうちに知れて、むしろ良かったのかもな。後になればなるほど、辛くなってただろうから。
一体誰なんだろう。同じ王国騎士の誰かかな。それとも……俺の全く知らないひとだろうか。
フィオレーネさんを始め、エルガドで出会ったいろいろな人達の顔が浮かんでは消えていく。だけどいくら俺が考えたところで、答えなんて出るはずもなくて。結局、ジェイさんに好意を寄せられてるその相手が……ひどく羨ましくなっただけだった。
「……っと、ここまでで大丈夫です。ほんと、ありがとうございました……」
ジェイさんの声にハッとして顔を上げると、彼は俺からゆっくり身を離す。気付けばジェイさんの部屋の近くまで来ていたようだ。まだフラついてはいるけど、自力で歩けるぐらいには回復したらしい。気を付けて戻ってくださいね、とジェイさんに告げると、
「──アラタさん」
俺の名を呼び、じっと見つめてくるジェイさん。
その表情はどこか緊張しているような、躊躇っているような、そんな雰囲気が感じられた。
「ええと、オレの勘違いならいいんですけど……何か、ありましたか?」
「……え?」
「その……何だか元気が無いように見えて……」
思わず息を呑む。
気付かれた。気付いてくれた。
誤魔化さなくちゃという焦りと、心配してもらえた嬉しさがごっちゃになって、少し動揺してしまったけれど、
「……だいじょうぶ、です。今日は朝からずっとクエスト行ってたし、少し疲れたのかな」
そう言って小さく微笑み返す。しかしジェイさんはあんまり納得していない様子で、俺に片手を伸ばしてきた。
いつもみたいに、頭を撫でてくれるつもりだったのかも知れない。でも、俺は──
「それじゃ、俺も部屋に戻りますね。おやすみなさい」
一歩後ずさってその手を躱し、ぺこりと頭を下げ。
ジェイさんの顔も見ずに背を向けると、彼の前から足早に立ち去った。
* * *
ジェイさんと別れ、歩き続ける事しばし。
さっきの態度は、流石に失礼だったかも知れない。明日、ジェイさんに謝ろうかな……と思う反面──もう、どうでもいいじゃないか。嫌われたところで何の問題もないんだから、などと考えてしまう。
狩りやそれ以外の事に誘っても快諾してもらえるのが嬉しくて、浮かれてたけど。
ジェイさんは誰にでも優しいから、断らなかっただけで。他にもっと仲良くなりたい人がいるなら、俺はジェイさんの邪魔をしていたんじゃないか。だから明日からは、ジェイさんを誘うのも少し控えるようにしよう。うん、それがいい。これ以上好きになってしまう前に、気持ちの整理をつけなきゃダメなんだ。
そもそも、俺が一方的に好意を抱いてただけなのに。
優しくしてもらって、勝手に期待していただけなのに。
男同士ではあるけれど、もしかしたらジェイさんの方も、なんて──とんだ勘違いだ。恥ずかしいにも程がある。
自嘲しつつも、俺の胸はまるで大きな穴が空いてしまったかのようで。
それが苦しくて苦しくて、堪らなくなって。
「……バカだなあ、俺……」
足を止め、ぽつりと小声を漏らす。
胸の苦しさと、自分への情けなさで、歪み始めた視界の中──
諦めなきゃ。
そう思ってはいるのに、あのひとの笑顔と、頭を撫でてくれた手の心地よさがどうにも忘れられず。
ジェイさん、と震える声でその名を口にしてしまうのだった。