約束の時間から、既に二十分は過ぎてしまった。
完っっ全に遅刻だ。
彼をひとり待たせているかと思うと、心が痛む。
大学の側にあるデカい公園の中をオレはひたすら走り続け、やがて目的地──売店近くのベンチで、ぽつんと腰掛けている男の子を発見した。
「おっ、お待たせしました~~!!」
大声で呼び掛けながら駆け寄ると、こちらを向いた彼が笑顔でベンチから立ち上がる。
「ジェイさん!」
こんにちは、と礼儀正しく挨拶をしてくれるアラタさん。学ランの下にパーカーを着込み、リュックを背負っている姿が高校生然としていて、可愛らしい。
「いやほんとすみません……教授に……いきなり雑用押しつけられて……」
少し折り曲げた両膝に手をつき、ゼイゼイと息を切らしながら。
オレは苦笑を浮かべ、アラタさんに謝罪する。
本日最後の講義が終わり、速攻荷物を片づけて。
アラタさんとの待ち合わせ場所に向かおうとした、まさにその時だった。
「ジェイ、ちょっと待て」
講義室の扉近くで、アルロー教授から呼び止められたのは。
何となく嫌な予感を覚えつつも、恐る恐る振り返る。
「な、なんでしょう……?」
「おまえさん、力有り余ってるだろ? 運ぶの手伝ってくれよ」
「えっ!? オレこの後デートあるから、勘弁して下さいよぉ!」
普段なら全然構わないが、今はアラタさんと約束してるし。
そういう訳で、と逃げ出そうとしたんだけど……ガキが色気付いてんじゃねぇとか言われた挙げ句、この前のテストの結果をチラつかされて、仕方なく機材と資料運びを手伝ったんだ。
恐らくアラタさんは既に公園へと到着してる。逸る気持ちのまま、オレも急いで手伝いを終わらせたものの、それでもだいぶ待たせるハメになってしまった。悪い事したなあ……
「──よし」
額の汗を拭い、一度大きく深呼吸して息を整えると、
「とりあえず、駅前の方まで移動しましょうか。そこでモール寄っても、別の場所に出かけてもいいですし」
「はい」
笑顔でこくんと頷くアラタさんと共に、歩き始めた。
風に乗って漂ってくるのは、緑の匂い。
ここはかなり規模の大きい公園で、敷地内には木々や花を始めとした植物が多く、いくつかの売店や、スワンボートが漕げるような大きな池もある。入園だけなら無料だし、そのため普段から親子連れやカップルにも人気のスポットだ。
途中、営業しているキッチンカーを、アラタさんが横目で見ていた事に気付く。ホットドッグや唐揚げ、フライドポテトなどの軽食を取り扱っている店だった。
放課後だし、時間的にお腹が減ってるのかな。
オレも似たような状態なので、メシ屋にも行きたいところではあるが──
「だいぶ遅刻しちゃったし、何か食うならオレに奢らせてください……」
「もう、気にしなくていいですってば。今日会えますかっていきなり聞いたの、俺の方なんですから」
小さく苦笑するアラタさん。
さっき、約束の時間より遅れる旨を伝えた時だって『慌てないで気を付けて来てくださいね』なんて優しい返事をくれたし。
ほんといい子だな……と感じ入りながら、オレは近くで揺れてる彼の手にチラリと視線を向ける。
……手、繋ぎたいなあ。
今なら周りの人も少ないし……公園の中だけでも……
「あっ!!」
そっと手を伸ばそうとした瞬間、アラタさんが突然大声を上げた。
目論みがバレたかと思い焦ったが、どうやら違ったらしく、彼は前方を指差すと、
「犬だ! 犬がいっぱいいますよ、ジェイさん!」
瞳を輝かせながら、オレを見る。
い、犬……?
彼が指差した方角。
そこは時々イベントなどが行われている広場だった。
大勢の人と……アラタさんの言うように、リードに繋がれた犬がたくさんいる。そして広場の入り口に置いてある立て看板。目をこらして文字を読んでみれば──
わんわんフェスティバル、と書いてあるように見えた。
名前や広場の様子からして、犬を飼ってる人達が集まるイベントなのかな……?
明らかにウズウズしているアラタさんは、オレの顔とわんわんフェスティバルの方を見比べるように、忙しなく視線を動かしていたが、
「ちょっと見て行きますか?」
「はいっ!!」
オレの言葉を聞くと同時に大きく頷き、急ぎ足で広場に向かう。
よっぽど嬉しいんだろうなあ……と苦笑し、オレも彼の後を追った。
前にちょっと聞いたんだけど、アラタさんは動物が好きらしい。
動物園にいるような動物たちはもちろん、身近な犬猫や小動物。実家で柴犬を飼っているから、特に犬が好きみたいだ。
オレも動物は好きな方だが、こんなにはしゃいでるアラタさんを見てると、逆に冷静になってくるというか……正直、アラタさんを観察してる方が面白いなって思ったりもして……
「わぁ……」
頬を紅潮させながら、周囲を見渡すアラタさん。
イベント広場には、様々な種類の飼い犬たちの姿。ペット用品の販売や飲食店の出張などもあって、とても賑やかだった。
オレ達は犬を連れていないから、他の参加者の恩恵に預かるだけではあるが……それでも可愛い犬を近くでたくさん見る事ができて、眼福だ。
「あっ、アラタさん、あっちに『おさわり・おさんぽ体験コーナー』っていうのがありますよ」
「!!」
ソワソワしっぱなしのアラタさんと共に訪れた体験コーナーは、周囲が簡単な柵で囲まれており、イベントスタッフ数名と、小型犬から大型犬まで、結構バリエーションに富んだ犬たちがいた。しかしアラタさんの目はもう大型犬に釘付けで、
「わ、わ……」
なんだか語彙が、小さくてかわいいやつみたいになってしまっている。
こんな状態のアラタさんを見るのは、本当に初めてだ。
彼は基本的に真面目で礼儀正く、一人暮らしをしているのもあって、しっかりした子だなと思ってたんだ。だから年相応……と言っていいのか分からないが、今の様子は普段より年下らしさが強調されている気がして、オレの目にはちょっと新鮮に映った。
「ゴールデンにラブラドールレトリーバー、ハスキー、サモエド、グレートピレニーズ、シェパードもいる……」
そして視線を巡らせつつ、犬種を口にしていたアラタさんは、
「こ、この子たち、みんな触っていいんですか!?」
スタッフと思われる男性に確認をとるや否や、その中の一匹──白くて大きな犬の首筋に、ぎゅうっと抱き付いた。
「俺、こういうでっかい犬に、ぎゅ~~ってするのが夢だったんです!」
うれしい、うれしい、って繰り返しながら、白い犬を抱き締め続けるアラタさん。そんな彼にオレは無言でスマホを向けると、やはり黙ったまま連写モードで撮影しまくった。
あ、そうだ。ついでに動画も撮っておこう。
その場に屈み込んで彼らの様子を録画していると、やがて他のフリーだった犬たちもアラタさんの周りに群がってきて、彼のほっぺを舐めたり、匂いを嗅ぎ始める。
スマホの画面越しで、くすぐったい、と無邪気に笑ってるアラタさん。いやもう、可愛いが過ぎる。
すっかりアラタさんと犬たちに気を取られていると、オレの側にも一匹の大きい犬が近寄ってきて、そのまま頬擦りされた。
……せっかくだし、オレもモフモフしよっと。
よしよし、と犬の顔周りを撫でていたら、犬まみれのアラタさんと、ふと目が合って──ふたり同時に笑ってしまった。
幸せって、こういう事なのかなあ……
犬に顔面をベロベロ舐め回されつつ、ボンヤリ考え込んでしまうオレなのだった。
この体験コーナー、さっきも見たけど『おさんぽ』と題してるだけあって、好きな犬を一匹選び、この周辺を短時間散歩する事も可能らしく。ほんの少し悩んでから、アラタさんはさっき抱き付いていた白い犬を選択した。
スタッフの『いってらっしゃい!』という声を背中に受けて、出発するオレ達。リードはアラタさんが持ち、オレは彼の隣に並んで歩く。
「この子、サモエドって犬種なんです。いつも笑ってるような表情で、可愛いんですよね」
そう話しているアラタさんの顔も、ニコニコと嬉しそうだ。
「アラタさん、ほんと犬が好きなんですねぇ」
オレが何気なくそう言うと、彼は照れたように笑って、
「俺、昔から大きい犬に憧れてて……でも飼いたいからって簡単に迎え入れる訳にもいかないし……もちろん実家にいる太郎丸は大好きだけど、それとは別にこういう大きな子、いいなあ。触ってみたいなって思ってたんです」
なるほど。
デカい犬って確かに可愛いけど、実際に飼うとなると大変な事が多そうだもんなあ。
家の広さとか、メシに散歩。好きだからこそ、考えなしに飼ったりしちゃいけないってのはオレにも分かる。
「……あ、すみません! 俺ばっかりリード持っちゃって……ジェイさんも、どうぞ!」
ハッとした様子でリードの持ち手を差し出してきたアラタさんだったが、オレは彼の提案をやんわり断って、そのまま散歩を続けてもらう。嬉しそうにしてるアラタさんを見ているだけでも、オレは満足なのである。
「そうだ、記念にその子と一緒に撮影してあげましょうか」
「え、で、でも……」
「こんなチャンス、滅多にないでしょう?」
そう言うと、戸惑い気味だったアラタさんも納得してくれたようだ。
道端に寄ると犬をお座りさせ、その隣に立つ。しかし緊張しているのか、ピシッと直立している彼の表情も身体も強張って見えた。何だか入学式の記念撮影みたいだな、と内心苦笑する。
「アラタさん、ほら笑って」
「う……は、はい……」
少し恥ずかしそうに微笑むアラタさんと、おとなしくお座りを続けている犬にスマホを向け、パシャリと撮影した。
……うん、可愛い。
アラタさんと犬で可愛いの二乗だ。スマホの待ち受けに、こっそり使わせてもらおうかな。
撮った画像をアラタさんのスマホに送ってあげると、やはり照れ臭そうにそれを見つめていたが──
ほんのちょっと口元を綻ばせたのを、オレは見逃さなかった。
「みんなすっごく可愛かったなぁ……」
犬の散歩を終えて、わんわんフェスティバルから撤退したオレ達は、当初の目的である駅方面へ再び歩き出した。だがアラタさんは未だ夢見心地な様子で、ほぅ、と感嘆の溜息を漏らしている。そんな彼に向け、オレは静かに声を掛けた。
「……あの。オレ達、一緒に暮らすようになったら……いつか犬飼いたいですね」
オレも元々犬は好きだし、さっきイベントで見ていて、あの可愛らしさに惹かれた部分は確かにある。
でもそれ以上に、アラタさんが本当に嬉しそうだったから。やっぱり好きな子には何かしてあげたいというか、喜ばせたくなってしまうんだ。
まあ、命を預かるわけだから、その為の環境や生活基盤をしっかり整えてからの話にはなるけども……
ていうか、さりげなく同棲を匂わせてしまったが、気が早かったかな。何言ってんですかって否定されたらどうしよう。
「……そうですね。いつか飼えたら……うれしいな」
オレを見上げて、小さく笑うアラタさん。
さっきの提案を嫌がってる素振りも見えない事に、ひとまずホッとする。
どの子をお迎えしようか。
名前は何にしようか。
なんてアラタさんと話し合うのは、きっとすごく楽しいだろう。
まだまだ先の話ではあるが、想像しただけでも顔が緩み始めてしまい、
「犬に関してはアラタさんの方が先輩ですからね。その時はいろいろ教えてください」
「は、はいっ! がんばります!」
真剣な面持ちで頷くアラタさんに、オレもまた笑みを返したのだった。