社長夫人を推してるモブ社員の話ホテルの大広間を借りた社の創立記念のパーティーは、今年は大きな節目だと言うこともあり一層華やかだった。自分達平社員もなんならその家族も参加して欲しいという豪快な社長の要望により、気怠い社内行事という雰囲気は無く皆着飾って楽しくこのひと時を過ごしているように見えた。彼女もいない独り身の自分はただひたすらに自分では買おうとも思わない高い酒とビュッフェを食べては同じような境遇の同僚たちとそれなりに楽しんでいた。
もちろん肩身が狭い、そもそも騒がしい所が苦手などの理由で参加しない同僚とかもいるのだが、自分にはある目的があるからこういう社内の催しには出るようにしている。
「藻部、食べてるな」
「はい、明日は何も食べなくて良いくらい食べて帰ります」
自分の意気込みを聞いた課長はそうかそうかと思惑通り笑ってくれた。しめしめと思っているとステージ側がぱっと明るくなり、椅子に座っていた社員は立ち上がって、歓談していた社員は話すのをやめて、拍手を始めた。自分も慌てて手を叩きながら立ち上がりステージに目を凝らす。
ステージには進行役の女性がいて、パーティの開催の挨拶を述べているだけだ。となれば、と思い、自分はステージ脇に目をやるとやはりそこには紅井社長がいて、隣には自分の目当てである紅井社長の夫人がいた。
紅井社長の夫人は眼鏡の似合う長身の美人で元はモデルだったとかいう噂だ。社長ともなればモデルと知り合うなんて簡単なことなのだろう。
社長と2人で何かひそひそと楽しそうに話していると思うと、社長夫人は甲斐甲斐しく社長の蝶ネクタイを結び直してあげている。
その様子を見て思わず口角が上がってしまった。
普段の飲み会には欠席が多い自分がこういった大規模な会社のパーティなどには出席する理由は社長夫人が見れるからに他ならない。
そこにあるのは恋愛的な思いではなくあくまでも綺麗な社長夫人と、その社長夫人が社長と仲睦まじくしているのが見たいという思いだけだ。
お礼にと社長はその頬にキスしたのか一瞬だけ2人の顔が重なり、社長は拍手喝采の中で壇上に登った。
近くで2人がイチャイチャしたいのをもっと見たいがそんな機会ないのだろうと思った。
「ここは…」
「商品企画部二課ですね」
しゃ、社長だ!
いきなり自分達の課のテーブルに、秘書の東雲さんを連れ立ってやって来た社長に自分はひっくり返りそうになった。しかもちゃんと社長夫人も一緒だ。
遠くからはドレスのようにも見えたスーツはきっとオーダーメイドなのだろう。細身の彼にとてもよく似合っている。そしてあくまでも微かにだが良い香りのする香水をつけているのが分かる。
「社長、わざわざありがとうございます」
課長は跳ねるように大慌てで社長の前に行きペコペコ頭を下げている。
「いつも頑張ってる社員の顔を見たいのは社長として当然のことだ…ですよ!」
そう元気よく話す社長は途中まで年相応の今時の若者っぽい話し方だったが、東雲さんに視線だけで嗜められてしまい最後の方は繕おうとしてチグハグな敬語になってしまった。
こういうところを見ると、給湯室で密かに社長って可愛いよねって話している女子社員の気持ちが少し分かる。
「皆にも紹介するぜ、オレじゃなかった私の妻の、玄武だ」
そういって紹介された夫人はすっと頭を下げた。
「いつも主人がお世話になってます」
うわ、めっちゃ声が良い。顔も良くて声も良いとか本当にモデルだったんだろうなぁ。
課長は同じことを思ったのか夫人に声をかける。
「あ、あ、例のモデルと噂の奥様で…」
すると社長と社長夫人はきょとんとして顔を見合わせてしまった。やっちまったという顔の課長を見て口走らなくて良かったと思った。
「お前、モデルなんかしてたのか?初耳だぞ?」
「スカウトは何回がされたが…」
社長夫人はそこまで言って青い顔の課長を落ち着かせようとするのが先だと思ったのか、課長ににこやかに微笑む。
「よく間違われるので気にしないでください」
思ったより気さくな人だったことに安心したのか、コミュニケーションのハードルが下がったと思ったのか好奇心旺盛な後輩の女子があの、と2人に声をかける。
「お二人の馴れ初めとかってどんな感じだったんですか」
それを聞ける度胸に周りの同僚課長も驚いたが、内心自分としてはよく聞いてくれたという気持ちでいっぱいだ。こんな素敵な2人だからさぞロマンチックに違いない。すると、社長夫人は嫌がる顔を少しもせずに答えてくれた。
「自分はこの会社と取引のある貿易会社の営業だったんです。お恥ずかしい話、行く度に話しかけてくる彼のことを社長とは最初気付かなくて…」
こんな美人な営業マンいてたまるかと思ったが、他社の営業を積極的に口説いていた社長に驚きだ。これは秘書の東雲さんも知らなかったらしく目を剥いている。
「社長、目を離した隙にそんなことをされていたんですね」
優秀な東雲さんには頭が上がらないのか社長は途端に悪戯が見つかった子供のようになってしまった。
「だって、一目惚れだったから見かけたら声をかけないなんて出来なかったんだよぉ」
一目惚れされていたことに気付いてなかったのか社長夫人の頬がぽっと赤く色付いたのを自分は見逃さなかった。
可愛い…。でも近すぎて直視ができない…。
もう少し続きそうなこのひと時を噛み締めると共に、でもやっぱり推しが近くにいるのは心臓に悪いなと痛感した。