シャチは人との恋を夢みるのかショーを終えたプールで玄武は相棒とも言えるイルカ達に魚を与えていた。
「今日もお疲れ様。見に来てくれた人達は皆、お前たちがジャンプすると、喜色満面、大喜びだったぞ」
イルカ達に観客の喜んでいた様を伝えると、彼らも嬉しそうにキューキューと音を鳴らした。一番若いイルカが玄武に撫でてくれと、甘えるように顔を水面から出したので、撫でてやっていると、隣でザバッと大量の水飛沫と共にイルカ達とは比べ物にならない大きさの顔が玄武に迫った。
「コイツ達が怯えるからやめてくれって言ってるだろ、朱雀」
プールサイドに上体を乗せた時の衝撃で大量に水を浴びた玄武はびしょ濡れの髪をかき上げながら、犯人であるシャチの朱雀を睨む。
しかし、朱雀はキュイキュイと鳴いて玄武に甘えようと顔を近づける。
「こら、お前は大きいんだから優しく」
朱雀にとってはイルカのように可愛らしく甘えているつもりでも、その巨体を押し付けて人間の玄武を圧死させるなど造作でないことだ。それでも構って欲しいのか尾びれをビタンビタンと跳ねさせてアピールする。
「しょうがないな。お前もよく頑張ったよ」
そう言って大きな口に魚を一匹放り込んで、口の周りを撫でてやると、嬉しいのか、もっともっとと先程より強く迫ってきた。
「こ、こらっ!落ち着け!んっ、キスは無しだ!」
すっかりはしゃいでしまった朱雀を宥めていると、ピッと笛の音が鋭く鳴り、朱雀の猛攻がピタリと止む。隣を見ると朱雀を担当している先輩飼育員の英雄が笛を咥えて立っていた。英雄は、玄武と同じイルカやシャチ等の海獣を担当する班の一人で、元々野生だった朱雀に芸を仕込んだ凄腕の飼育員だ。
「英雄アニさんか。助かったぜ」
「俺が目を離した隙に朱雀がごめんな。イルカ達も怖かっただろ」
英雄がイルカ達にも謝ると、イルカ達は気にすることないと言いたげにギィギィ鳴いた。そして口を開いてちゃっかり魚を催促する彼らに苦笑して魚を投げ入れてやる。
「お前達は抜け目ないな。玄武、そろそろショーエリアを閉めるから、イルカ達を水槽に戻してあげてくれ」
英雄が言うように太陽は十分に傾いていて閉館時間が近いことを知らせてくれている。玄武は分かったというと手を挙げてイルカ達に帰るぞと合図する。イルカ達も陽の傾きが分かるのか、水の中を滑るように移動し始めた。後ろで笛の音が聞こえたので、英雄も反対側にあるシャチの水槽に朱雀を誘導しているのだろう。
玄武は泳ぐイルカ達の隣を歩きながら、朱雀と初めて会った日もこんな夕暮れ時だったのを思い出した。
餌を求めて群れから離れすぎてしまったオレは何処か知らない海にいた。マズイと自覚した頃には、周囲を船で囲まれていて、人間の住む場所にあまりにも近くなり過ぎていた。海を隔てて聞こえる人間の騒めきは、オレに対する好奇と恐怖が込められていた。パシャパシャと水面を通して見える太陽よりも強い光の連続がオレの目を刺激して、怖くて体を捩らせると、ガンッと何か硬いものが背びれに当たって人間の声が一層大きくなった。凶暴なシャチだ、頭が良いから俺達を攻撃してきたんだ、そんな声が聞こえてオレの体に石がぶつけられた。
ただでさえ腹が減っているのに、知らない海でいきなり人間から石を投げられてオレはパニックになった。この場から離れたいけど、何処か分からなくてどうやって、ここまで入り込んでしまったのかもわからない。
どうしよう、どうしよう、と泣きそうになっていると、キーンッという甲高い音がして辺り一体に人の声が響いてきた。
「水族館職員です。これからシャチの保護を行いますので、一般の方は退避をお願い致します。繰り返します…」
沢山あった人の声が少し遠のいてオレは一息つけたが、次に海中に何かの道具が下ろされた。その何かがオレの下に見る見る内に広げられて、それは「捕獲する道具」だと分かった。アレに捕まったら、どんな目に遭うか分からない。
オレはすぐに逃げなければと体を動かした。バシャバシャと水面を揺らし、人間の道具がオレを捕まえようとするのを妨害して、一刻もここから離れようとする。しかし、腹が減りすぎて体に力が入らないし、石を投げられたところが傷んでたまらず悲鳴を上げた。
辛くて助けて欲しくて、オレは必死に抵抗した。
すると、オレの目の前にドボンッと何かが落ちてきた。
何かまた怖いものかも知れないと怯えていたが、それはただの一人の人間だった。
何も道具を背負ったりしていない、ただの丸腰の人間の雄だった。
ソイツはゆっくりとコチラに泳いでやって来た。怖くてお前なんて簡単に捕食できるんだぞ、と脅してやろうとするオレに、そいつは怯むことなく正面から見つめ返してきた。
目は優しくて「大丈夫」と言っているようだった。ゆっくりと泳いでオレの目の前にソイツが来る。ソイツは細くてか弱く、額に傷がある手負いで、オレが軽く小突けば簡単に死ぬだろう存在だった。でも、灰色の瞳が綺麗で、先程オレに言ってくれた言葉に嘘偽りは無いと分かった。
ソイツの手が伸びてきて、オレの鼻先を数回撫でて、反応を確かめると、今度はオレの顔の横に身を寄せてきた。
初めて感じる人間の体温とコポリと浮かんでは消える水泡の小ささから分かる生命の弱さ、ソイツがオレに向けてくれる家族に向けるような優しい目。
全てを感じたオレは何か知らないものが、自分の中に芽吹いたのを感じた。言葉は通じないけど、一緒にいて悪いことはしないって分かるし、何よりこの人間をもっと知りたいと思った。
なあ、と声をかけてみると、ソイツはふわりと笑って少し泳いで前に進んだ。まるでオレにおいでと言っているようで、オレは誘われるままについて行く。水上で何か動き、そのままオレの体は引き上げられて、狭い所に入れられた。ここは何処だろうかと思っていると、ソイツとあと二人、人間が入ってきた。
灰色の瞳のソイツがオレに近づいて撫でてくれる。
「大丈夫か。騙し討ちみたいな真似してすまなかった。これから、安全な所にお前を運ぶから安心してくれ」
そう言ってオレは優しく撫でてくれる。オレはすっかりその手に夢中だった。名前が聞きたくて、話しかけるとソイツではない二人がクスリと笑った。
「凄いな、玄武。そのシャチ、お前のこと信用してるみたいだ」
歯がホホジロザメのように鋭い人間が感嘆している。
「本当にそうかは分からないが、英雄アニさんがそう言ってくれると、そういう気がするぜ」
すると髪の長い人間もホホジロザメの歯の人間の隣で頷く。
「握野さんの言う通り、彼からはすでに黒野さんへの信頼が感じられます。きっと、危険を顧みずに海に単身飛び込んだ黒野さんの誠実さに胸を打たれたのでしょう」
褒められて恥ずかしくなったのか灰色の瞳のソイツは頬を赤らめた。
「アニさん達は純真無垢すぎるぜ…。お前もそう思うよな?」
頬を赤らめてオレの目をチラリと見る彼に、オレは思わず身を寄せたくなった。海の中で優しくしてくれた時に感じた単純に嬉しいとは別の、心に芽生えた何かがグングン成長しているのが分かる。
「あ、こら、傷ついてるんだから暴れるな。英雄アニさん、クリスアニさん、コイツを一先ず手当てしよう」
パシャパシャと尾びれを揺らして水飛沫を立てていた事を優しい口調で咎められた。二人の人間がそれぞれ俺の両隣に立って道具を広げ始めたので何かされるかと思って不安になったが、すぐにソイツに鼻先を撫でられた。
「大丈夫だ。アニさん達が今からお前の怪我を治してくれる。お二人は上手いから痛くないさ」
撫でてくれる手が嬉しくてオレはうっとりしながら、治療を受けた。
そのあと、オレはさっきより広いけど狭い海に入れられた。
「今日からここがお前の家だ。海よりずっと狭いから退屈かも知れないが、我慢してくれ」
周りをぐるりと泳いで確かめているオレにソイツが陸地から話しかけてきた。返事をすると、脚だけ水に入れて陸地に腰掛けた。
「本当は野生に返してやれたら良いんだけど、次郎アニさん、さっきお前の血を抜いたりした獣医な、が言うには、それはちょいと難しいらしくてな。家族と無理やり引き離すことをしちまってごめんな」
そう言ってソイツは顔を伏せてしまった。確かに仲間と離れ離れになったのは寂しいが、オレは新しくお前と出会えたっていう喜びがある。それを伝えたくて、オレは水面から身を乗り出し、顔をソイツの顔を押し付けた。
「わ、な、なんだ」
お前のせいじゃない、お前がいてくれたら寂しくないと伝えるが、人間の言葉で伝えられないのがもどかしかった。しかし、ソイツは、穏やかに笑ってくれた。
「オレは大丈夫って励ましてくれたのか?ふっ、保護した立場だってのに逆にケアされちまうとはな」
良かった。笑ってくれた。
安心したのも束の間、オレはソイツの綺麗な顔が間近にあることに心臓が早くなってきた。
「励ましてくれてありがとな。恩に着るぜ」
そう言ってソイツはちゅっと音を鳴らして、オレの鼻先に唇を当ててくれた。人間の世界ではそれが何を示すのか知らなかったが、オレは嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
「そうだ、名前教えてなかったな。俺は玄武って言うんだ。まだ新参者だが、ここの職員をやってる。お前はなんて言うんだ?」
玄武
オレは初めて優しくしてくれた人間の名前を心に刻みつけた。これから玄武がオレの新しい仲間なんだと思った。
それなのに、玄武はイルカ達と仲良くしてばかりでオレのことをちっとも構ってくれない。オレの世話をしてくれる英雄さんも優しいから不満がないが、オレを惚れさせた癖にこれは酷くないか?
今日だってプールでショーの練習してるときにイルカ達とイチャイチャしてたから、オレも構って欲しくて、鼻先で突いたら、危ないからやめろって強めに怒られてしまった。
でも、玄武は浮気症だし、イルカ達はオレが玄武のことが好きって知ってるのに、一部の奴は目の前で玄武を口説くから、こうやってアピールしないと取られてしまいそうで落ち着いてられない。
「どうした、朱雀。元気無いな。玄武に怒られたのが、そんなに辛かったのか?」
落ち込んでいるオレを元気づけるように、英雄さんは魚を投げ入れてくれた。
オレ、玄武が好きなのに一緒になれないのか?
英雄さんは最初見た時はサメみたいな歯を持ったおっかない人間だなと思ったが、オレたちも、お客さん達も凄く大切にしている良い人だから、何か良い方法がないか尋ねてみる。
「玄武とお前のことなぁ…」
実際に通じたのか英雄さんは顎に手を当てて考えてくれているようだ。すると、向こうから玄武がやって来た。
「英雄アニさん、ちょっと相談なんだが」
「どうした」
「後輩の立場でこんな事言うのは生意気だって言われるかも知れないが、班のことで相談したい」
班と聞いて、オレは聞き耳を立てずにはいられなかったが、英雄さんはここで立って話すのもなんだから、と言って玄武と何処かに言ってしまった。
オレはその日眠れずにプールの中をずっとたゆたっていた。今日、鼻先で突いたのがきっかけで俺達の担当から外れたいと思ったのだろうか。イルカ達も玄武が大好きだから、もしそうだったら凄く悪いことをしたなと思う。
大好きなのに離れる原因を作ってしまうなんて、オレは本当に馬鹿だ。
そんなことをグルグル思って夜を明かした。
次の日、ショーの練習としてオレはショーエリアのプールに移動した。プールにはすでにイルカ達が泳いでいる。俺たちの担当班の班長のクリスさんが手を叩いて注意を引く。
「はい、皆さんおはようございます。朝のミーティングを始めたいと思います」
プールに集まった飼育員達、英雄さんや玄武のおはようございます、という声が聞こえる。きっと今から玄武はここから離れるって発表されるんだ。
「再来月から班内の担当の割り振りを変えたいと思います」
そう言ってクリスさんはアシカの担当や、アザラシの担当を班内の別の飼育員にすることを伝え始めた。俺は次かもしれない、この後かもしれないとビクビクしながら、このまま何事も無く終わってくれと願わずにはいられなかった。
「最後に、イルカの担当ですね」
オレは驚いてビクッと体が揺れてしまいそうになった。クリスさんが紙をめくる音がする。
「イルカの担当を握野さんに、そして、シャチの担当を黒野さんに変更します」
オレは信じられなかったが、心が一気に浮ついてしまう。玄武がオレの担当に?玄武はオレと一緒にいることを選んでくれたのか?
「担当替えは以上です。今日からは引き継ぎ期間とします。皆さん、世話やショーの内容などしっかり引き継いでくださいね」
そう言ってミーティングは終わった。発表された内容に夢見心地なオレを見て英雄さんはクククと笑った。
「朱雀、良かったな。昨日、玄武はオレにこの事を相談した後滑り込みで担当替えを申し出たんだ」
そうだったのか。一人で落ち込んでいたのが馬鹿だったようでどっと疲れたが、水上から玄武がこちらを覗いているのが見えた。
「朱雀」
声と共にちゃぽんと玄武の腕が入れられ、オレがプールから顔を出すのを待っているようだった。
オレは大好きな玄武の顔が見たくてプールから顔を出して玄武の体に身を寄せた。
玄武もオレに腕を回して体をくっつけてくれた。
「これからよろしくな」
玄武の優しい温かさを享受しながらオレは嬉しくていつもより大きく返事をした。
とある水族館の長身の男性飼育員に若いシャチのオスがキスをねだったりプールの中で体をすり寄せたりと甘える様子が客によって動画にされ、『イケメン飼育員さんが大好きなシャチの朱雀くん』としてネットで大いに話題になるのだった。