昼と夜の境界線にて昼の世界は今日も陽が高く照りつけ、地面に落ちる影の色すらも白く薄くなっていた。
「あっちぃ…」
ここの世界の住民とはいえど暑いものは暑い。スザクは手の甲で汗を拭い、デスクに散らばる書類に目を通す。しかし、その内容は頭に一向に入ってこない。
それは暑さのせいではなく、あと少ししたら来訪する客人のせいだ。
少し前に初めて出会った別の世界、自分達の世界を反転させたような夜の世界。
そこで神官を務めるゲンブがやってくる。そのことがスザクを上の空にしているのだ。
夜の世界の住民は友好的で皆優しい。その証拠にすっかり仲良くなれたしお互いの世界の住民にも、相手のことを知って欲しいと意気投合してどうにか交流し続けたいと考えてくれている。
最年少ながらにしっかりしているレイに、細やかな気配りができるキョウスケ
そして
「ゲンブ…」
その彼の名を口にした瞬間、スザクの心臓はドッと強く脈打った。彼だけ他の2人と違って顔を思い浮かべて名前を呼ぶだけでこうなってしまうのだ。
自分はもしかして彼のことが嫌いなのだろうかと自分を疑ったが、白い肌にすらりとした長身、強い意志と優しさが混じり合った灰色の瞳、彼を構成する全てを細かく覚えていて、気がつくと記憶をもとに彼を頭の中で復元している。この気持ちは何だろうか。
スザクは今まで誰にも抱くことのなかった気持ちの正体が分からずにいる。
今日もまたゲンブのことを考えている内に頭がのぼせ上がりそうになり、たまらずに外に出た。外に行ってクールダウンするつもりだった。
しかし、花を見ても、自分を慕ってくれる子供たちに手を振り返しても、ゲンブはこの花は好きだろうかと思い、前に会った時にゲンブは子供を大切にしている事をレイから教えてもらったのを思い出さずにはいられない。
全てがゲンブに繋がってしまう。
もうダメだ。こんな状態で会っても何もかもままならねえ。
スザクは混乱する頭を抱えて、進路を変更し街外れの森林へ向かった。木陰を抜けた先にある自分もにゃこもお気に入りの美しい池に行って頭を冷やすことにした。
池は誰もおらず街の喧騒も無く、穏やかにその水面を揺らし光を乱反射させていた。
スザクはいそいそと服を脱ぎ池に身を沈めるように踏み入る。
池は腰上くらいの深さしかないので、スザクは手で水を掬うようにしてザブザブと頭にかけていく。勢いよく水をかけるものだから、にゃこが気配を察知し鳴いたのに気付くことが出来なかった。
「スザク!」
聞き覚えのある声がし、ハッとして後ろを振り返るとゲンブが木陰から姿を現した。暑いのか少しばかり頬を高揚させている。
「会いたかった」
その頬でそう言われた瞬間、スザクの心臓はより今までで一番強く脈打った。
初めてだった。書物で読んだり人から聞いたことはあるが、自分の身に起こるとは思わなかった。
「気をつけて」
そう見送りに来てくれたレイに手を振りゲンブは1人世界の境界線を越える。
恋をしてしまった。
こんなにも簡単に落ちてしまうのかと自分でも驚くくらい、その姿を一目見たときから心を奪われてしまったほどだ。相手は昼の世界の次の王で、名前はスザクと言った。
高い身分であるにも関わらず分け隔てなく明るく接してくれる男だ。それだけでなく、彼は人の上に立つべき男としての雄々しさや寛容さをすでに持ち合わせていた。
会ってまだ数えられるほどだと言うのに、あの生命力の溢れんばかりの瞳に見つめられると体の力が抜けて、身も心も彼に委ねたくなってしまう自分がいる。
彼を思い出さない日は一日として無く、今回もこうして手紙で済むことを話し合いに単身で彼の世界に行こうとしている。
昼の世界に着くと、キョウスケと瓜二つの姿形をもつユウスケが待っていてくれた。
「来た来た!キョウスケから行ったよって知らせが来たから迎えに来たよ」
鏡合わせのような彼らは不思議なことにテレパシーで繋がっているらしい。
「そうか。わざわざすまない」
「スザクなら奥の部屋で待ってるよ」
そう言われた瞬間ゲンブはあまりに自分の目にそれが出てしまっていたのかと恥ずかしさで火が出そうだった。ユウスケにもキョウスケにもきっと自分の気持ちがバレているに違いない。
「あ、ああ…」
ぎこちなく返事をしてユウスケの案内について行こうとすると、ゆらりと風に吹かれているようにケイが現れた。
「スザクさんならさっき森の方に行ったよ」
「そうなの?どうする、ゲンブ。中で待ってる?」
そう尋ねてきたユウスケに礼を言って、森の方へ向かう事にした。ユウスケもケイもそうした方がスザクも喜ぶと快く後押ししてくれた。
二人に教えてもらった池のある森の道を辿っていく。森の中は草木が生い茂り影があちらこちらにあるのがゲンブにとってありがたかった。昼の世界の陽射しはゲンブ達夜の住民には強すぎた。長時間何もせずに直接浴び続けると白い肌は赤く腫れて火傷の様になってしまう。
体質的に適していないの分かっているのだから、本当はスザクが戻ってくるまで建物の中で待っているのが賢明なのだが、スザクに恋をしてしまったゲンブにはこの肌が痛んでも良いからスザクに早く会いたかった。
成長具合を競う様に伸び放題な草をかき分け道を進むと、開けた場所に池があるのが見えた。そして、そこに望んでいた赤く美しい髪を見つけゲンブは嬉しくなる。
自然と足は早足になり、ゲンブは池のほとりに駆け寄り、会いたいと待ち望んだ男の名を呼んだ。
「スザク!」
ゲンブに名を呼ばれ振り返るスザクは太陽の様な笑顔になった。
「ゲンブ!」
会いたかった、そう言って彼の腕の中に飛び込んでしまいそうになったのをゲンブは慌てて飲み込む。優しい笑みをくれるからといって、スザクが自分を自分と同じような意味で好いてくれているわけではないことを忘れてはいけない。
そう冷静になったゲンブはそこで初めてスザクは身に何も纏っていない、文字通り全裸である事に気付き慌てて目線を逸らした。
「プライベートの時間なのにすまない」
「ああ、気にすんな!それより、ここにオレがいるってよく分かったな」
「ケイアニさんが教えてくれたんだ」
「ケイさんがか!あとでお礼言っとかねえと」
スザクは自分が裸であることに見られていても抵抗がないのか、ザブザブと波を立ててほとりに来る。
「綺麗な池だな」
「だろ?オレとにゃこのお気に入り場所なんだぜ。って言っても皆もこの綺麗な池を気に入ってるんだけどな」
そういってスザクは明るくカラカラと笑った。そして何か思い付いたような表情になると、ゲンブに提案した。
「せっかくだしゲンブも入れよ。冷たくて気持ち良いぞ」
その提案にゲンブは思わず頷きそうになったが、自分の体質を思い出した。もし裸になって水浴びしたら全身を陽に焼かれるだろう。
「すまねえ、誘ってくれたのは嬉しいが、こんな陽射しの中で裸になったら火傷しちまう」
「あ、そうか!いや、悪いのはオレの方だ」
謝り合う2人の間に気まずい空気が僅かに流れどうしたものかと思っていると、木の上で寝ていたにゃこが身兼ねた様に降りてきて、スザクに向かってにゃあと鳴いた。スザクはにゃこの提案にパッと顔を輝かせ何度も頷いた。
「なあ、ゲンブ。そこの木陰でなら脚だけだけど浸かれるんじゃねえか?」
そう提案するスザクを指差す方をみると、確かにほとりに枝葉を大きく広げた大樹が鎮座している。あの影であれば肌が焼けることは無さそうだ。この暑さもあってゲンブに拒否する理由もなく、普段であれば少しばかり考えたかもしれないが、今はスザクと水の冷たさを共有したかった。大樹の影に移動しゲンブは涼しさにほっと一息つく。
「ここなら平気そうだ。さすがにゃこだな」
そう褒めるとにゃこは得意げに鳴いてその樹の上へいそいそと駆け上がっていった。早速、ブーツを脱いで裸足になるためゲンブは大樹の根元に腰掛けようと身をかがめる。
「あ、ゲンブ。待ってくれ」
ふいにスザクから静止がかかり、何事かと彼の方を見る。スザクは手を伸ばして自分が着ていた服を掴むと、ゲンブの足元にそれを広げた。
「これでよし、と。服汚れちまうだろ?もし良ければオレの服の上に座ってくれ」
そう言うとスザクは屈託のない笑みを見せた。その笑顔と優しさにゲンブは思わず胸が強く鳴り声が漏れそうになる。
スザクは一見するとその豪快さからガサツな印象を受けるが実はとても丁寧で優しいのだ。だから、今もゲンブの服が汚れてしまうのではないかと気にかけて自分の服を敷物代わりにしてくれた。
「気を遣ってくれてすまない。でも、これだとお前の服が」
「気にすんなって。オレのは帰ればすぐに洗える。だから、座ってくれ」
「ありがとう。」
そう礼を言ったゲンブの頬が微かに色付いたのを、スザクは息をするのも忘れて見つめていた。ゲンブの目は夜の世界で見せてもらった空の星の様に美しく光輝き、スザクは思わず手を伸ばしゲンブに触れようとする。しかし手を伸ばす前に我に返り、まだ親密じゃないのにいきなり触れたら失礼だろと自らを戒めた。
スザクの敷いた服の上に腰を下ろし、ゲンブはブーツを脱ぎパンツの裾を濡れない様に膝上まで捲り上げる。
同じ男の脚だというのに、スザクは初めて見るゲンブの脚に釘付けだ。
細くて長いその脚はほっそりとしていて、白い肌はシルクのようで触って手触りを確かめたくなってしまう。
先程は我を取り戻して止められたというのにスザクは手を伸ばし、水に触れようとする右の足先に触れ、そしてふくらはぎに手を添える。
自分に見せてくれたとは思っていないが、それでも自分を信頼して肌を見せてくれたのだから大切にせずにはいられなかった。
ちゃぷ、とスザクの手の誘導に従い水の中に脚を沈めたゲンブはその冷たさに目を細めた。夜の世界でも海や湖などあるが、体の芯まで冷える様な冷たさで、夜が深い時間帯は薄く氷の膜が張るほどだ。もちろん水浴びなど誰もしない。仮にでもそんなことしたら凍死する。
「ゲンブ、気持ち良いか?」
「ああ、冷たくて気持ち良いな」
そうゆらゆらと脚を動かして楽しんでいるゲンブは楽しそうだ。実際ゲンブは初めて自然の中で水浴びをするということに感じたことのない気持ち良さと解放感を覚えていた。肌を焼く陽射しも重なり合った葉の影がやわらげてくれてとても気持ちが良い。
そんなゲンブを見ていたらまた頭に血が昇ってきた気がしてスザクは飛沫をあげて顔を洗った。木漏れ日の下にいるからかゲンブの端正な顔立ちは前にも増して輝いて見えたのは気のせいだろうか。大袈裟に頭を水に突っ込むように顔を洗ったスザクが面白かったのか、ゲンブはクスクスと笑った。
何だろうか、馬鹿にされた気なんて微塵も感じないどころかゲンブの笑顔が見れて嬉しいと思う。
白い肌に整った眉、垂れ目がちの瞳の奥はきらりと光っていて夜の世界の星を思い出させてた。そして、形の良い薄い唇…
「スザク…?」
戸惑ったようなゲンブの声にハッと我に返ると、お互いの息がかかるほど顔を近づけていた。それこそ、あの唇がすぐそばにある。
「あ、あ、あ、わりぃ!!!」
スザクは顔から火が出て煙が立ち上りそうなほど顔を真っ赤にさせると、バシャンと水の中に逃げるように飛び込んだ。
水の中を泳ぎながらスザクは先程の自分のことを考える。
オレは何をしようとしていたんだろうか。水の中に揺らめくゲンブの脚は白くて綺麗だと思った、それにゲンブ自身も綺麗だと思った。優しくオレを見つめていて、オレは何故か嬉そうに上がった唇を見て、それで、それが、それに…
そこまで考えたが胸の中で何かが暴れて耐えきれなくなってそこで思考を止めてしまった。この気持ちと行動にいつか答えが来るのだろうかと誰にも分からないことを考えずにはいられなかった。
池のほとりに1人残されたゲンブは自分の唇にそっと触れる。あのまま奪って欲しかったと思うのは我儘だろうか。この世界の次の王に望んではいけないことだとは言えど、せめて考えることだけは許して欲しい。
池の中から自分に手を伸ばし顔を寄せてきたスザクの髪は水に濡れて陽の光を反射し、とても綺麗だった。そして、近づけられた瞳が自分をしっかりと見てくれているのだと思うと体が火照ってとろけるような幸せを感じた。スザクの力強い瞳の前では隠し事など出来ない。
あと少し遅ければ、このままキスして欲しいと言ってしまいそうだった。
言ったら彼はキスしてくれただろうか。
それはゲンブにもスザクにもわからない事だ。